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(小松崎先輩っていったい……)
翌日の帰り道、設楽と共に小松崎邸の門前に立った遙は、まるでどこかの国の大使館にでも来たのかと思い、驚きにあんぐりと口を開けた。
「小松崎コンツェルン。様々な業種に進出して政府や警察にも顔の利く大財閥の御曹司だよ」
設楽が小声で説明する。門の先にもアスファルトの道が延びているが、蛇行したその先は鬱蒼と繁る木々で隠れて見えなかった。設楽がインターフォンを押して名前を告げると、ガチャッとロックの外れる音がして門がゆっくりと開く。設楽は慣れた足取りでその中に入ると、遙にも入るよう促した。
「凄く広いね……」
遙のおっかなびっくりの言葉に、設楽が「隠れんぼには最適だけどな」と答える。木々の間を歩いて行くと、やがてその先に大きな洋館が現れる。その洋館はまるで本物のお城のようで、さすがは大財閥なだけあって一般市民が住んでいる家とはとても思えなかった。ようやく玄関に到着すると、待っていたように大きな観音開きの扉が外側に開く。中から現れたのは黒いスーツを着た初老の執事で、彼は設楽ににこやかに微笑みかけると、遙に視線を移して深々と頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました、遙様。さあどうぞ、中へ」
「こ、こんにちは……」
遙があまりにも日常とかけ離れた別世界に気後れしていると、そこへ奥から一人の女性が現れて「まあ!」と驚きの声を上げる。
「遙ちゃんッ?」
そして遙の名前を呼ぶと、「まあまあまあまあ!」と言いながら小走りに駆け寄って来て両手を開いた。
「本当に美波ちゃんにそっくりだこと!」
いきなりハグされた遙は、ドギマギしながら挨拶をする。
「母がいつもお世話になっております」
母親よりも少し年上に見える、しかし本物の姉妹のようによく似たその女性はすぐに遙を解放すると、嬉しそうにはしゃぎながら遙を中へと招いた。
「守ちゃんがいつも可愛い可愛いって褒めてたから、会えるのをとても楽しみにしていたのよ。会えて嬉しいわ。さあどうぞ」
「はぁ……」
遙は頷いたものの、自分の足元を見詰めて立ち尽くす。足元には見るからに豪華な絨毯が敷き詰められており、とても土足で上がることは躊躇われた。しかし、慣れている設楽はその横を平気で土足で入って行く。そして、数歩進んだところで立ち止まると、不思議そうに遙を振り返った。
「何してんの?」
遙は慌てて首を横に振ると、自分も恐る恐る絨毯の上に足を踏み入れる。玄関の先は何畳だか見当も付かないほどの広いエントランスホールになっており、壁には有名そうな大小の絵画があちこちに掛けられていた。壁際には適当な間隔を空けてゆったりとしたソファセットがいくつも置かれており、どうやらここで商談や来客の対応も出来るようになっているらしい。二階まで吹き抜けの高いホール天井には豪奢なシャンデリアがいくつも下がっており、ホール正面には外国映画に出てくるような赤い絨毯の敷かれた階段が緩やかに左に弧を描きながら二階へと延びていた。
「やあ、よく来たね」
その階段を、小松崎が遙を出迎えるために下りて来る。
「凄いお家ですね……」
遙は辺りをキョロキョロ見回しながら正直な感想を述べると、二人に続いて小松崎が下りて来た階段を上った。
「うわぁ……」
階段の先は広い廊下になっており、どこまでも続くその廊下の両側にはまるでホテルのようにたくさんのドアが等間隔で並んでいる。どのドアにもネームプレートが差し込めるようになっているところを見ると、どうやら全てゲストルームらしい。この中のひとつが小松崎の自室なのだろうかと思っていると、ヒョイと襟首をつままれた。
「ちゃんと付いて来ないと迷子になるぞ」
設楽の声に振り向けば、小松崎の後ろ姿が階段脇の狭い通路に入って行くのが見える。そこから先は壁で遮られるので、エントランスホールからは死角になる。壁の途中にはデザインなのか金属の柱が両側にはめ込まれており、ゲートのように高い天井で繋がっている。そのピカピカの表面に顔を映して物珍しく眺めていると、先を歩く設楽が振り向いて笑った。
「金属探知機だよ。空港にもあるだろ?」
「ほえぇぇぇぇ……」
遙は聞いたことのあるその名前に驚いて、思わず感嘆の声を洩らす。しかし、空港ならいざ知らず、自宅にあるとはどういうことか。小松崎の自室はこの奥にあるらしいので、全ての者がここでチェックを受けるようになっているのだろう。チェックに引っかかるとどうなるのか見てみたい気もしたが、自分が引っかかるのはイヤだった。
「こっちだよ」
突き当たりで設楽が振り向き、遙を手招く。左に折れるとすぐにゲストルームよりももっと大きなドアが現れ、遙は招かれるままに中に入った。
「ふわあぁぁぁ……」
中は二十畳程の書斎になっており、両側の壁一面に造り付けられた大きな本棚には天井までびっしりと難しそうな本が詰まっている。正面には大きな木製のデスクがあり、背後の壁には絵画や刀剣が飾られていた。左手にある応接セットの向こう、部屋の隅にある大きな硝子ケースの中にあるのは見間違いでなければライフル銃である。まるでどこかの司令官室のような室内に、遙はあんぐりと口を開けた。どこをどう見ても一介の高校生の自室とは思えない。
「どうぞ自由にくつろいでて」
小松崎はそう言うと、左側の壁の奥、開けっ放しのドアの向こうへと姿を消す。遙が設楽に勧めらるまま三人掛けのソファに腰を下ろして待っていると、少しして部屋の主はコーヒーカップを載せた盆を持って戻って来た。
「何も無いけど」
どうやらドアの向こうは居室になっているらしく、小松崎は制服を脱いでラフな黒シャツに着替えている。それが余計に小松崎を大人びて見せて、いつにも増して落ち着いた雰囲気に遙は思わず溜息をついた。
「遙ちゃん、口開きっ放し」
設楽がそれを見て、揶揄うように笑いながら言う。しかし、顔は笑っているが、実は内心は面白くないらしい。イライラと不機嫌そうに目を据わらせている設楽を、小松崎が興味深そうに眺める。
「ほら、上着がシワになるよ」
彼にとってはいつものことなのだろう。手を伸ばして上着を脱がせようとすると、しかし設楽は肩を反らしてその手を避けた。
「子供かよ」
そしてそう言うと、立ち上がって上着を脱ぎ、「ほら」と言って遙に右手を差し出す。遙がじっとその手を見詰めると、「上着」とひと言だけ言った。どうやら自分の上着も掛けてくれるらしいと気付き、遙はアタフタと上着を脱ぐ。ありがとう、と言いながら遠慮がちに渡すと、設楽は戸口まで歩いて行ってドア脇のコート掛けに二人分の上着を掛けた。
「へぇ……」
小松崎がその様子を興味深そうに眺める。いつもだったら上着を脱がせてコート掛けに掛けてやらなければいつまでもウダウダと上着のままソファに寝転んでいるのであろう怠惰な男が、他人の上着の世話まで焼いているのが不思議らしい。小松崎がクスリと笑うと、それを聞きつけた設楽がムッとしたように振り返った。
「何だよっ」
「別に」
そこへコンコンと軽いノックの音がして、数人の若いメイドが入って来る。途端に、焼きたての肉と甘いソースの芳ばしい香りが部屋中に立ちこめた。
「失礼致します」
メイド達は部屋の中央にテーブルと椅子を運び込むと、テキパキとディナーの支度をして出て行く。白いテーブルクロスの上にはサラダやメイン料理が色とりどりに並べられ、テーブルの脇にはワインクーラーまで据え付けられていた。
「……何か間違ってるよね」
呆れたように呟く遥に、小松崎が「とりあえず腹ごしらえをしないと」と言って座るよう促す。部活の後だから既に十時を過ぎている。空腹感はピークを過ぎたと思っていたが香ばしい匂いに腹の虫がグゥと鳴き、遙はいそいそと席に着いた。
「待ち合わせ場所は海岸を大きく迂回した先の岩場だ。辺り一帯は僕の家のプライベートビーチになっているが、間違えて釣り人が入り込まないように昨日から進入口を封鎖してある。近くまでは車で行けるから、ここを十一時過ぎに出ればいいだろう。何か質問は?」
咀嚼しなくても十分柔らかい肉を口一杯に頬張っていた遙は、小松崎の質問に顔を上げる。とにかく自分は二人に付いて行けばいいのだろう。そう思って首を横に振ると、設楽も頷きながら、切り分けたフランスパンのお代わりを遙の皿に載せた。そして、ワインクーラーからボトルを取り出し、自分と遙のグラスに注ぎ足す。最初はシャンパンかと思って驚いた液体は軽い発泡水で、無味無臭だがさっぱりとした飲み口に、唯でさえ食べ盛りの食が進んだ。
「俺は兄貴が二十歳になった時に会ったきりだから、四年振りかな」
設楽が鯛の香草焼きを頬張りながら言う。
「僕も五年振りになるかな」
懐かしむように答えた小松崎の皿がほとんど手付かずなのに気付き、遙は驚いて目を見開いた。
「食欲が無いんですか?」
こんなに凄いご馳走なのに、サラダを少し摘まんだだけで殆どの皿に手を付けていないのを見て訊ねると、小松崎が照れたように微笑む。
「緊張してるんだよ。彼に会えるのが嬉しくてね」
遙は初めて見る小松崎の表情にびっくりして目を丸くする。こんな凄い豪邸に住み、たくさんの使用人にかしずかれて、まるで王子様のような暮らしをしている小松崎が、遙の付き添いとはいえ海王に会えることを食事も喉を通らないほど心待ちにしていると言う。それだけ海王という存在は小松崎にとって特別なものだということであろう。
「みっちゃんは海王のファンなんだ」
その考えを肯定するように、設楽がコソッと補足する。こちらはモリモリと殆どの皿を平らげているのを見て、別な意味で感心した。あれだけの量がこの細い身体のどこに入ってしまったのだろうかと思っていると、遙の視線に気付いた設楽がニカッと笑う。
「見てないで早く喰え」
そしてそう言うと、遙の口の端に付いていたソースを指先で拭う。遙は慌ててナフキンで口元を拭うと、再び左手に座る設楽をそっと見た。
この人間もよくわからない。最初は軽薄そうでおチャラけていてどうしようもない不良なのかと思ったが、部長としての彼は実に堂々としていて、下級生の面倒もよく見るし同級生からも信頼されていた。子供みたいにスラックスの汚れを叩いてもらっていたかと思えば、先程のように自然な仕草で自分の世話を焼いてくれる。子供なのかと思えば急に大人の顔をする、実に不思議な生き物だった。
「海王に会ったらどうするの?」
さっさと食事を終えた設楽が、先程のコーヒーの残りを飲みながら遙に尋ねる。遙もナイフとフォークを置くと、発泡水の残りをきれいに飲み干した。
「訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと?」
遙は頷くと、今度はきちんと口を拭いてからナフキンを脇に置く。
「僕は本当のことが知りたい。ばあちゃんのこと、じいちゃんのこと、それから海王の本当の気持ちが知りたいんだ」
「海王の?」
遙の言葉に、小松崎が少しだけ目を見開いて尋ねる。
「海王の気持ちって……もしかして本気で遙ちゃんを嫁に貰う気かどうかってことかッ?」
設楽が慌てたように身を乗り出して尋ね、小松崎にペシッと頭を叩かれる。しかし、今度は設楽も引き下がらなかった。
「やっぱり遙ちゃんを連れて行くのは危険なんじゃないのか、小松崎! もし連れて行かれちまったらどうすんだよ!」
「落ち着け、設楽」
なぜか慌てまくる設楽を、小松崎が溜息混じりに諌める。
「遙君は男の子だ。間違っても海王と見合いすることにはならないし、たとえ女の子だとしても同意無しに無理矢理連れて行くような方ではない。それはお前もわかっているだろう、設楽」
小松崎の言葉に、設楽が渋々といった体で口を閉じる。とんでもない発想ではあるが自分のことを本気で心配してくれているのだとわかり、遙はちょっとだけ嬉しくなった。しかし、遙が知りたいのは見合い云々のことではない。そしてそのことは、たぶん海王にしか答えられないのだった。
三人がテーブルを離れると、再び数人のメイドが入って来てテキパキとテーブルセットを片付けて出て行く。小松崎は再び隣室に消えると、コーヒーのお代わりを持って戻って来た。
「まだ少し時間があるが、眠らないでくれよ、設楽」
腹の皮が張れば目の皮がたるむのは世の常で、ソファの肘掛にもたれてウトウトし掛けていた設楽が小松崎の声に慌てて目を開ける。五時間みっちり泳いだ後で、腹いっぱいご馳走を食べて暖かな室内で極上のソファにひっくり返れば、それは誰だって眠くなるだろう。遙は淹れ立てのコーヒーを口に運びながら、隣で再びウトウトし始めた設楽を見る。小さく口を開けてスヤスヤと眠る設楽は、年下の自分から見ても幼く見えた。
「僕もそろそろお役御免かな」
向かい側に越し掛けた小松崎が、同じ様にコーヒーを啜りながら言う。遙が視線を向けると、小さく肩をすくめて笑った。
「僕はこいつよりも半年早く生まれてね。子供の頃の半年は大きいだろ。だからいつも僕が面倒を見てたんだけど、こいつも僕を兄のように慕ってくれてね。可愛かったよ」
そして、慈しむように設楽を見詰めて目を細める。
「でも、君が現れてからこいつは変わった。今までは他人の目が無くなると僕に甘えまくりだったのに、今は自分から君の世話を焼いている。年上の自覚が出てきたということかな。モタモタしていると子離れする前に置いていかれそうだよ」
おどけたように笑う小松崎を、遙はジッと見詰める。同じ血を引く優秀なはとこは、少しだけ寂しそうに見えた。