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「よく出て来られたね。お祖母さんに反対されなかったかい?」
帰宅する人々の流れに逆って更衣室に入ると、既に水着に着替えて待っていた小松崎が遙を見て言った。
夜の九時過ぎ。待ち合わせたのは街外れのスポーツジムだ。街と言っても海沿いの小さな町だから、メインストリートは二百メートルくらいしかない。夏場だけ営業する土産物屋や民宿の間に八百屋や肉屋、雑貨屋などが点在しており、遙の家からも自転車で十五分程と、とても近い。このスポーツジムのオーナーが水泳部のOBらしく、終了後の片付けや掃除をする代わりに学校のプールが使えない時期だけ無料で使わせてくれているらしい。一般の利用客もいるので水泳部が使えるのは二コースだけだが、それでもありがたい話には違いなかった。
「まさか。母にだけ言って来ました」
遙は空いているロッカーに水泳バッグを放り込むと、小松崎を振り返って苦く笑う。祖母に言えば絶対に反対されるに決まっている。反対されたら自分は出て行けないのがわかっているから、だから祖母が自室に引き揚げるのを待って出て来たのだ。
遙は上着を脱ぐと、シャツのボタンに手を掛ける。ふと視線を感じて顔を上げると、プールに続くドアの影から誰かがこちらを覗いているのが見えた。ゴーグルで目は見えないが、明るい茶髪に見覚えがある。
「設楽先輩?」
「……やっぱり男だった」
設楽が暗い声音でボソッと呟き、すぐにドアの向こうに消える。遙は目を眇めると、説明を求めて小松崎を振り返った。
「気にしないでくれ。なにせ本気で君を女の子だと思い込んでいたからね。よほどショックだったんだろう」
小松崎はそう言うと、苦笑する。
「奴は五年間片想いしていた君に一瞬でフラれたんだ。まあ、大目に見てやってくれよ」
そして、冗談だか何だかわからないことを言うと、ドアを押し開けて更衣室を出て行く。遙は大急ぎで着替えを済ませると、慌ててその後を追いかけた。
「一般客は九時までだから、片付けに入るまでの三十分間は全コース使える。今日は特別に君の為に一番端のコースを空けておいたから、自由に泳いでいいよ」
向かい合わせで準備運動をしながら小松崎が言う。遙はアキレス腱を伸ばしながら、一般客のいなくなったプールを見た。小松崎の言葉通り、一番近い8コースにだけ誰もいない。二十人くらいの部員は種目別に分かれて泳いでいるらしく、設楽の姿は一番遠い1コースの辺りに見えた。
「設楽先輩は自由形ですか?」
「そう。あいつのクロールは凄いよ。国体記録を持ってる」
小松崎が珍しく褒めて言う。遙は驚いて茶髪姿を再び見た。遙の視線に気付いたのか、肩を回していた設楽の動きが一瞬止まる。そして、いつもの全開の笑みではなく口の端をちょっと上げただけの気弱な笑みを浮かべると、遙に向かって小さく手を振った。先程の更衣室での一件を思い出し、遙は無視してプイとそっぽを向く。
「泳ぐのは久し振り?」
「はい」
小松崎の言葉に遙はコクンと頷く。はっきり言って、水に入るのも中学の授業以来だった。
「僕も同じコースで軽く流すから、何かあったら声を掛けてくれ」
小松崎はそう言うと、肩を回しながらスタート台に立つ。そして、ひょいと両腕を頭上で伸ばすと、躊躇いもなくスルリと水に飛び込んだ。
(うわぁ……)
水音はほとんどしなかった。まるで水の層の隙間に滑り込むような滑らかさに、遙は思わず感心して溜息を漏らす。小松崎は十メートルを過ぎた辺りでようやく浮上すると、綺麗なストロークで泳ぎ始めた。
「最初から無理するなよ。あいつは毎日泳いでるんだからさ」
小松崎の泳ぎに目を奪われていた遙は、間近から声を掛けられて驚いて隣を見る。いつの間に来たのか『国体記録』が遙と並んで小松崎の泳ぎを見ていた。ゴーグルを付けているので表情がよくわからない。しげしげと見上げていると、不意に設楽が振り向いて視線が合った。
「見惚れるほどイイ男?」
設楽が嬉しそうに言って笑う。遙はため息をつくと、プールサイドに歩み寄った。そのまま片足を前に出し、足先からドプンと水に入る。
「そうそう。少し水に浸かって身体を慣れさせるといいよ。温水とは言っても結構冷たいからね」
設楽がそう言いながら、プールサイドに腰掛けてゴーグルを外す。ついでにピッタリした白い水泳帽も脱ぐと、大型犬のようにブルブルッと頭を振った。途端に髪に付いていた水滴が四方八方に飛び散り、遙は慌てて手の平で顔をガードする。
「もう泳がないんですか?」
実はちょっと泳いでいるところを観てみたかった遙は、内心がっかりして尋ねる。
「遙ちゃんの泳ぎを観てみたいと思ってさ」
設楽は遙が思っていたのと同じことを言うと、足をブラブラさせながら笑った。
「下手ですよ?」
遙はそう言い訳すると、スタート台の下に移動する。そのままスイと両手を前に伸ばすと、トンと軽く壁を蹴った。
泳ぎは身体が憶えていた。とは言っても誰かに教わったわけではない。市営プールで泳いでいる人の泳ぎを見様見真似で覚えただけなので、ある意味物凄く自己流だ。まずはクロールで二十五メートルを流し、水中でクルリとターンして今度は平泳ぎで二十五メートル泳ぐ。その要領で背泳ぎ、バタフライと続けた遙は、最後に再びクロールに戻ると、往復五十メートルをゆっくりとしたストロークで泳いだ。
(気持ちいい……)
忘れていた気持ちが蘇える。水をひと掻きする度に身体が半透明になって溶けていくような気がして、遙はあっという間に五十メートルを泳ぎ終えると名残惜しく思いながら立ち上がった。途端に、ワアッという大歓声が遙を包む。
「え……ええッ?」
びっくりして周囲を見回すと、いつの間にか部員全員が練習をやめてスタート台の脇やプールサイドからこちらを観ていた。
「設楽部長、新入部員ですかぁ?」
「早く紹介しろよ、設楽!」
当たり前なのだが、ここにいるのは上級生ばかりだということに遙は遅ればせながら気付く。慌ててプールサイドを振り仰ぐと、設楽が嬉しそうに笑って手を差し出した。
「完璧だよ、遙ちゃん」
遙が無意識に助けを求めてその手を取ると、途端にヒュウヒュウと野次が飛ぶ。思わず赤くなって手を引っ込めようとすると、反対にグイと力強く引き寄せられた。
「紹介しろって言うんだけど、どうする?」
設楽が人懐こい笑みを浮かべて遙に尋ねる。遙は困ってプールの中から設楽を見上げた。
「……よろしくお願い……します……」
躊躇いがちに答えると、途端に設楽が蕩けるような笑みを浮かべる。そして遙の手を持ち上げると、ギャラリーに向かって嬉しそうに叫んだ。
「喜べ野郎共! 親入部員第一号!」
設楽のよく通る声が高い天井に反響する。途端にワアッと野郎共の大歓声が広い施設内に響き渡った。
家に戻ると美波が居間で待っていた。遙は祖母の姿がないことを確認すると、まずは安堵の溜息を漏らす。そしてすぐに風呂場に直行すると、全身から塩素の臭いを洗い流した。
「楽しかった?」
居間の卓袱台の前に座ると、美波がニコニコと尋ねながら湯気の立つマグカップを目の前に置く。コーヒーの芳ばしい香りに誘われて、遙はいそいそと手を伸ばした。
「うん」
頷いたものの、どこから話したらいいのか迷う。やはり自分は泳ぐのが好きなのだと実感したものの、水の中で息をすることはとうとう出来なかった。どうしてもどうやっても『水の中で息を吸う』という行為が出来ないのだ。水中で息を吸えば水が肺に入るわけで、考えただけでも物凄く怖かった。
小松崎も設楽も特に無理強いはしなかった。幼い頃は普通に出来ていたのだから、泳いでいるうちに自然と思い出すだろうと小松崎は言っていたが、遙はちょっと自信が無い。反対に、設楽は薄く笑んだだけで特に何も言わなかった。『出来なければ出来ないでいいんじゃないか』とその目が言っていたような気がして、遙は設楽の整った顔を思い出す。普段のおチャラけた顔と違い、いつになく真面目な設楽はなかなか男前で、『きっとモテるんだろうなぁ』と遙はぼんやり思った。
「いよいよ明日の晩ね」
同じようにコーヒーをすすりながら、隣で美波が言う。海王に会うのは夜半過ぎ、日付けが変わった頃である。
「……海王ってどんな人なんだろう」
遙が男だとわかった時、祖母の嘘を知った海王は何と言うだろうかと考える。怒るだろうか。呆れるだろうか。それとも、親戚の縁を切られてしまうだろうか?
だが、『彼は人としても王としても素晴らしい人だよ』という小松崎の言葉が本当なら、もしかしたら祖母の嘘も笑って許してくれるかもしれない。驚いて、溜息をついて、そしてちょっとだけ残念そうに笑って……。
「おばあちゃんは止めると思うけど、どうするの?」
美波の問いに、遙は顔を上げて答える。それはもう考えてあった。
「学校が終わったら家には戻らずに直接行くよ。部活の後は約束の時間まで小松崎先輩の家で待たせてもらうことになってるんだ」
「貢ちゃんの?」
遙の言葉に美波は目を丸くすると、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。仲良くしてもらってるのね」
仲良くしてもらっているかどうかはわからないが、気には懸けてもらっているかもしれない。初めて二人に会った時の、設楽の汚れた尻を小松崎が甲斐甲斐しく叩いてやっていた風景を思い出し、遙はちょっとだけその『近さ』を羨ましく思った。