2
「なんだって! 水泳部ぅぅうッ?」
祖母の大きな怒鳴り声が狭い六畳間に響き渡る。予想通りの展開に、遙は慌てて耳を塞いだ。
「部活なら他にもたくさんあるだろうに、何でよりによって水泳部なんだい!」
「いや、水泳好きだし……楽しいかなぁと思って……」
遙は祖母の剣幕に押されながらもボソボソと答える。その途端、「バンッ!」と勢い良く卓袱台が鳴った。
「幼稚園から中学校までずうっとプールを見学させたのは何の為だと思ってるんだいッ。それなのにお前って奴はッ……!」
そこまで言って、卓袱台を叩いたままの姿勢で祖母がハタと言葉を切る。そして、片方の眉だけ吊り上げると、ねぶるような目で孫息子を見た。
「……ところでお前、どこで泳ぎなんか覚えたんだい?」
のったりと地を這うような祖母の言葉に、遙は蛇に睨まれた蛙のように無言でその目を見返す。一瞬の静寂の中でゴクリと大きく喉が鳴った。
「ど……どこデ?」
不覚にも声が裏返る。祖母の視線がゆっくりゆっくりと、遙の隣にいる美波へと動いた。
「……美波ぃぃぃぃ?」
「だあってぇ」
祖母の剣幕も何のその。美波は満面の笑みを浮かべると、ひょいと小さく肩をすくめる。
「私は泳がせてもらえなかったから、遙ちゃんには泳げるようになって欲しかったんですものォ」
その瞬間、祖母の奥歯がギリッと鳴るのを遙は戦慄と共に聞いた。
「違う! お前は水に入れてもカナヅチで泳げなかったんだよ!」
「でも遙ちゃんは泳げたわ。ハイハイする前からお風呂の中でスーイスイ」
美波の言葉に、祖母の動きがピタリと止まる。そして、信じられないという面持ちで遙を見ると、何か言い掛け、そのまま口を閉じた。
「ばあちゃん。ずっと聞きたかったんだけどさ、何で僕は泳いじゃいけないわけ?」
遙は好機とばかりに、ずっと疑問に思っていたことを恐る恐る口にする。途端に祖母が、鋭い視線でギッと孫息子を睨んだ。
「とにかく水泳部はダメだ!」
そして、そう言うとドカドカと足音も荒く廊下に出て行く。
「ばあちゃんッ?」
慌てて呼び止めたが祖母は自室に入ると、襖をピシャンと閉めてしまった。
「……訳わかんないよ」
話し合いにもならなかったことに、遙は頭を抱えて呻く。そこへ、どこかに行っていた美波が再び居間に戻って来た。
「遙ちゃんに見せたいものがあるの」
遙の隣に腰を下ろし、小さな箱を卓袱台の上に置く。美波はムクれて口を引き結んでいる息子の顔を覗き込むと、なぜか嬉しそうに笑った。
「遙ちゃんがそういう顔をしてると安心するわ。ああ、まだ子供でいてくれるんだなあと思って」
「何だよそれ」
遙は怒って口を尖らせる。それを見て、再び美波が嬉しそうに笑った。
「だって、遙ちゃんったら最近急に『男の子』の顔になっちゃって。私のことも『お母さん』って呼んでくれなくなっちゃったでしょ?」
美波を『お母さん』と呼ばなくなったのは中学に上がった頃からだ。無邪気な小学生の頃と違い、思春期になると他の同級生達も色気付き始める。授業参観の度に自分の母親が、やれ綺麗だの可愛いだのと野郎供に騒がれるようになって初めて『どうやら美波は他の母親とは違うらしいぞ』ということに遙も気付き始めた。しかも、ふと思い起こしてみれば、物心ついた頃から美波の姿が全然変っていないことにも思い至る。いや、もしかしたら遙が生まれるずっと前から変わっていないのかもしれない。それほどに美波は若くて綺麗だった。いや、若いと言うよりも幼い、綺麗と言うよりも可愛いと言った方がいいのかもしれない。既に三十代も半ばを過ぎているはずなのに、今も高校生くらいにしか見えないからだ。
「……美波は美波だろ」
複雑な心境をどう説明したらいいのかわからなくて口籠りながら言うと、美波があっさりと「うん」と言って頷く。遙はちょっと拍子抜けして、自分によく似た小さな顔を見返した。
「そんな風に名前を呼ばれるのも好きよ」
卓袱台に肘を突き、手の平に頬を載せて美波が微笑む。濡れたように潤んだ大きな瞳を囲む虹彩の縁には、遙と同じ深い青があった。
「実はこれ、おばあちゃんのなんだけどね」
ようやく本題を思い出した美波が、小さな小箱に手を掛ける。元は白かったと思われる厚紙で出来たその小箱は年月の経過ですっかり茶色く変色し、所々に染みも出来ていた。
「さすが、ばあちゃんの箱。年季が入ってるなぁ」
遙は興味深々で身を乗り出す。美波が白い指先でその蓋をゆっくりと開けた。
「驚かないでね。我が家の家宝よ」
「……これが……家宝?」
それは珍しい宝石でも骨董でもなく、カサカサに乾いた『何か』だった。形はギターのピックに似ているが、表面はツルツルではなく、細かい筋が放射線状にたくさん入っている。これに似たものを遙は見たことがあった。
「まさか、これって……」
「鱗よ」
遙の言葉に美波がさらっと答える。しかし、もしこれが魚の鱗だとすると、それはとてつもなく大きな魚ということになる。もしかしたら漁師だった祖父が生前に捕まえた魚なのかもしれない。家宝かと問われれば頭を捻りたくなるような代物だが、それが祖父の形見となれば話は別だった。
「でも、魚じゃないわ」
冷血管のような祖母にも人並みの情があったのかと見直しかけていた遙は、美波の言葉に早くも現実に引き戻される。美波はその鱗を指先でつまむと、自分の手の平にそっと載せた。一見白く見える鱗は、光線の加減で淡いピンク色にも瑠璃色にも見えた。
「綺麗でしょう?」
美波がうっとりとした声音で囁く。
「これはね、人魚の鱗なのよ」
「……は?」
あまりにも突拍子もないことを聞かされると、人は思考能力を失うらしい。口をポカンと開けて隣を見ると、美波がにっこりと微笑んだ。
「私も初めて聞かされた時には驚いたわ。信じられなかった。でも、その時に聞いたお母さんとお父さんの馴れ初め話は、それはそれはロマンティックで素敵な恋物語だったのよ」
時代は四十年ほど前に遡る。まだ遙の祖父が漁師見習いだった頃、酷い時化に見舞われて船から海に投げ出されたことがあった。他の漁師達は自力で船の縁に取り付いたものの、祖父だけが波に飲まれて行方不明になってしまった。一夜明け、九死に一生を得て浜に打ち上げられた祖父は、瀕死のところを一人の女性に助けられる。それが若かりし頃の祖母だった。やがて二人は愛し合うようになり、ほどなく結婚。一女を儲けるが、数年後に祖父は海難事故で亡くなり、祖母は女手ひとつで娘を育てた。娘とはもちろん美波のことだ。
「ところが、この話には裏話があってね」
美波がうっとりとした眼差しで続ける。
「若い頃のお父さんを救ったのは、実は人魚だったお母さんだったのよ。船から投げ出されて海の底に沈んでいくお父さんを助けたお母さんは、ハンサムなお父さんをひと目で好きになってしまったんですって。そこでお母さんは海の魔女にお願いして、美しい声と引き換えに二本の足を……」
「待て待て待て」
大人しく昔話を聞いていた遙は、中途で美波の饒舌を遮る。
「ばあちゃんは喋れたろ」
「あら?」
遙の突っ込みに、美波が人差し指を顎に当てて小首を傾げる。遙は思わずぐったりして脱力した。
「とにかく、お母さんはお父さんと結婚する為に人間になりたいと、海王であるお兄さんにお願いしたのよ。でも、海王はそれを許さなかった。お母さんは陸に上がる決心をすると、こっそりお城を出たんですって。形見に大好きな海王の鱗を一枚だけ持ってね。それがこの鱗ってわけ。素敵な話だと思わない?」
美波はそう言うと、再びうっとりと両手を合わせて目を閉じる。遙はうんざりして溜息をつくと、美波の話を要約した。
「つまり、浜辺に打ち上げられたじいちゃんをばあちゃんが見つけて、それをきっかけに二人は付き合うようになったって話だろ。何も無理矢理人魚姫の話にこじつけなくても」
至って簡潔に真実だけ述べると、美波が唇を尖らせる。
「遙ちゃんったらロマンが無いのね」
遙に言わせれば、あの祖母とロマンスを結びつける方がどうかしていると思う。大体どこをどうしたら、お伽噺の人魚姫があんな鬼婆になると言うのか。
「しかし、物好きなじいちゃんだな。いくら命の恩人ったって、あんな鬼婆のいったいどこが良かったんだか」
顔も知らぬ祖父の好みに文句をつけると、美波が箱の底から一枚の紙を取り出した。
「これが若い頃のおばあちゃんよ」
目の前に差し出されたのは、セピア色に変色した古いモノクロ写真だった。遙はそれをひと目見るなり、あまりのショックに言葉を失う。そこには美波にそっくりの美少女がはにかんだ頬笑みを浮かべていた。遙は時の流れの無常さというものを嫌というほど思い知らされる。
「だからね、私にも遙ちゃんにも人魚の血が流れているということなのよ。でも私は泳げなかった。それがわかった時のお母さんのがっかりした顔を今でもよく憶えているわ。私は泳げないことよりも、お母さんの血を受け継げなかったことが悲しかった」
遙は先程の祖母の顔を思い出す。遙が『泳げる』とわかった時の驚愕の表情には、強い不安しかなかった。
「おばあちゃんは心配してるのよ。遙ちゃんが普通の人と違うことを誰かに知られて、大変なことになってしまったらどうしようって」
「え?」
遙は一瞬、意味を理解出来ずに美波を見る。百歩譲って祖母に鱗が生えていたことが事実だとしても、写真の中の祖母は普通の人間に見えた。遙にも鱗が生えているなら話は別だが、高校生男子としては情けないほどのツルツル素肌には黒子一つ無い。多少泳げる程度では何の問題も無いように思えた。
「別に泳げるだけじゃあ大変なことになんかならないだろ」
遙としては至極最もな意見を述べると、美波がびっくりしたように遙を見る。
「もしかして……憶えてないの?」
「だから何を」
囁くような問い掛けに眉をひそめて聞き返すと、美波の大きな目が更にまん丸になった。
「遙ちゃん、水の中でも息が出来たじゃない」
「はあッ?」
遙は何を言い出すのかと、呆れて美波を見返す。しかし、美波にとっては遙が憶えていないということの方が驚きだったようだ。
「本当に憶えてないの? あなた浴槽で何時間も寝てたのよ?」
忘れた記憶を呼び起こそうと、美波が身を乗り出して言う。
「何バカなこと言ってんだよ」
思わず笑い飛ばそうとした遙は、しかしハタと動きを止めた。不意に脳裏に浮かんだのはユラユラと揺れる水面。誰かが上から覗き込んでいる。あれは……美波?
「布団に寝かしつけてもなかなか寝てくれない時は、よく湯船に水を張って底に寝かせたのよ。そうするとすぐに眠ってくれたから」
美波が懐かしそうに目を細めて言う。小さな無数の水泡がユラユラ揺れながら水面に上っていく景色を、遙も不思議な気持ちで思い出していた。あの時、自分はどうしていた?
(……息を……していた……か……?)
「遙ちゃんはお祖母ちゃんの血を濃く受け継いだのね。羨ましいなぁ。私も海に潜って海王に会ってみたかったなぁ」
美波がさも残念そうに溜息混じりに言い、遙はその言葉に眉を寄せて母親を見た。
「僕は海王には会わないよ?」
「あら、なぜ?」
事情を知らない美波が、不思議そうに小首を傾げて尋ねる。
「なぜって……」
遙は思わず口篭ると、美波の顔から視線を逸らした。
「僕は女じゃないし……」
そう。海王は遙が女だと言われたから会いに来ると言ったのだ。なぜ女だと会いに来て男だと来ないのかはわからないが、もうあの二人が遙が女ではなかったことを伝えただろうから、その話は中止になったに違いない。それに、祖母が末子だという九人兄妹の長兄では相当の高齢に違いないから、無理をさせるのもどうかと思われた。
「それにしても、どうしてばあちゃんは女が産まれたなんて嘘を言ったんだろう」
「遙ちゃんを女の子って?」
思わず愚痴るように言うと、遙の言葉に美波が驚いて目を丸くする。
「あんまり可愛かったんで間違えちゃったのかしら」
冗談ではなく本気で言う美波に、遙はガックリして脱力する。
「冗談じゃなく、本当にそれで大変なことになってるらしいんだよ」
故意であろうと無かろうと、そのことで周りはえらい迷惑をこうむったのだ。遙は学校で出会った二人のことを美波に話した。
「あぁ、それなら貢ちゃんと守ちゃんね」
彼らの容姿をチラッと話しただけで美波がすぐに名前を言い当て、驚いた遙は目を丸くする。
「知ってるのッ?」
「親戚だもの」
美波はサラッと当然のようにそう言うと、祖母の二人の姉が近くに住んでいて、それぞれに娘が二人と孫が三人いることを教えてくれた。
「不思議なのは、二世は全員女の子だったのに、孫の代は七人全て男の子だったってことなのよ。ね、面白いでしょ?」
しかも、遙はその七人目だ。母も祖母も女の子を望んでいたらしいが、産まれてきたのは男だった。それまでも姉妹との交流を嫌っていた祖母だったが、遙が生まれると美波にも会うことを禁じた。そして、祖母は海王に「女が生まれた」と報告したのだ。
「おばあちゃんは遙には絶対に泳ぎを教えてはいけないと言ったわ。泳げるようになったら必ず海に行きたがるからって」
「何で海に行っちゃいけないんだろう」
遙が尋ねると、美波も首を横に振る。
「理由は私にもわからないわ。もしかしたらおじいちゃんが海で亡くなったせいかもしれないし、他に理由があるのかも……」
「それは、あたしが海王に憎まれてるからさ」
その時、突然後ろで声がして二人は驚いて振り返る。いつの間に戻って来たのか、祖母が戸口に立っていた。祖母は居間に入って来ると、美波の手からセピア色の写真を取り上げる。
「海王である兄は、一族の誇りである尾を捨てて人間に嫁いだあたしを許さなかった。だから兄は夫の命を奪った」
「そんな……」
「でも、海難事故だって……」
遙と美波は同時に言って言葉を失う。祖母はセピア色の写真を小箱にしまうと、美しい鱗もつまみ上げてポイと無造作に放り込んだ。
「同じだよ」
そして、小箱の中の鱗を見ながら無表情に言う。
「船が座礁して沈没した。でも兄は助けなかった」
遙は黙って祖母を見る。祖母は元の通りに蓋を閉めると遙を見下ろした。
「お前が男だとわかれば兄はお前の命も奪うだろう。女なら利用価値もあるが、男孫は腐るほどいる。美波にとって、お前は可愛い一人息子だ。お前が死ねば美波が悲しむ。だから絶対に海に近付くんじゃないよ。いいね」
嘘を言っているとは思わないが、信じられない気持ちの方が大きい。いくら自分に逆らったとはいえ、それだけで他人の命を奪おうとするだろうか。曲がりなりにも海王で、しかも自分の妹の孫である。しかし、海王と会える機会を失ってしまった今、それを確かめる手だては遙には無かった。