土地神
村外れにある、短い草が生え揃った空き地で、エレノアが縄を持って、精神を統一させようと、深呼吸を繰り返している。獅子を始め、いつもの三人はその様子を遠目に眺める。
「顕現せよ、雷光鞭」
エレノアの言霊と共に、持っていた縄が、鞭へと変化する。まぁ、見た目はたいした変化ではないけれど。
「すっかり、顕現をできるようになっているね」
獅子はその様子を見て、感心する。
「ふふ。夏姫の言った通り、能力に目覚めれば、やり方がわかって来たんだよ。意識としては、能力を留めて、形にするみたいな感じかな?」
「ふふん。私の教え方が良かったのね」
夏姫が調子に乗る。
「エレノアが優秀だったんだろ」
信二は、夏姫が調子に乗るのを避けたかったのか、素っ気なく言う。
「むぅう。信二は私を褒めることを知るべきだ」
「一生、知りたくない」
二人のやり取りを見て、獅子は呆れる。
「まぁ、エレノア。おめでとう。これで、第一段階はクリアだね」
「うん。ありがとう。……第一段階?」
エレノアは、獅子の言ったことがわからないようで、首を傾げる。
「武器を顕現させるのは、封滅士になる為の、基本だからね。まぁ、正に第一段階って感じかな」
「うぅ、そうだね。顕現できただけじゃ駄目なんだよね」
「まぁね。けど、弱い妖怪くらいなら、それで十分に倒せるよ。後は戦い方とかだから、つまり、応用だね」
「応用かぁ」
エレノアは何をして良いのかわからないと言ったように、顕現した鞭を見詰める。
「はは。確かに自分の武器の使い方を把握するのも必要だけれど、それよりも、あれを見な」
獅子が指差すと、そこでは、夏姫と信二が喧嘩を始めていた。
正に素手の殴り合い。とはいえ、さすがに本気ではなく、授業で行う組み手の、延長線上のようなやり取りだ。
それでも、武器は顕現などしていないのに、夏姫は信二を圧倒していた。それと言うのも、夏姫の神気の扱いが巧みで、身体能力の強化すべきポイントを絞るので、全体をただ単に強化しているだけの信二よりも、集中している分、強力な力を発揮しているのだ。
だから、見た目では信二の方が、遥かに力が強そうなのにも関わらず、完全に力負けしている。
「身体能力の強化にも、応用が必要なんだね」
「そうだね。妖怪の方が、体自体は強いことが多いからね。身体能力を上手く強化させて、妖怪の運動能力に対抗しなくちゃいけない」
「う~ん。色々大変だなぁ」
エレノアは道のりの遠さにぼやいている。
夏姫達の方を見れば、決着が付いたのか、夏姫が信二を踏みつけて、勝ち名乗りをしていた。その様に、獅子は苦笑してしまう。
「今日は、退魔符の勉強をする」
午後の封滅士の授業において、教室で浅賀はそう宣言する。
各自の机の上には習字道具が用意され、短冊のような紙をいくつも渡された。
「退魔符って言うのは何ですか?」
生徒の一人が質問する。その疑問はエレノアも一緒だった。
「うっせ。今から説明するよ。黙ってろ」
なんで授業の質問で、悪態を吐かれるのだろう? 浅賀の言葉には、言う程悪意は含まれていないのが、せめてもの救いだ。
「それで、退魔符ってのは、使い捨ての神気の電池のようなものだ。神気を込めた符を作り、その込められた神気を使って、封滅士は術を使う」
「へぇ。便利な技術だな」
信二が感心したように言う。
「まぁな。とは言え、持続的な顕現には使えない」
「持続的な顕現?」
「武器の顕現や式神のことだな。符に込められた気を留めようとすることは、至難の技でな。今まで、それが出来た奴はいない。だから、使えるのは術だけだ」
術とは、顕現と同じものだが、長々とした変化はさせず、一瞬の威力だけを求めたものだ。これは主に、遠距離への攻撃を目的として使われる。けれど、術は一瞬の変化を気で起こす為、それだけ神気を使う結果になり、よっぽど、神気の保有量が多い者しか使えないというのが本音だ。
神気を使い果たせば、精神的なだるさが襲いかかり、急激に失えば、悪ければ気絶すらしてしまう。この前の妖怪退治で、神気を使い果たしたエレノアが、意識を失わなかったのは、ただ単に、それだけ強力な神気を使えかっただけに過ぎない。
しかし、今回の符と言う道具を用いれば、それも解決できる。予め準備をしておけば、術を好きなだけ使えることになるのだ。
「では、字に神気を篭るように書け。古来より、魔法陣のように、字には力が篭ると言われ、実際に書かれた字には神気を篭めることが出来る。まぁ、すぐには無理だろうがな。書く字にしても、使う術を意識して書くと篭め易いから、できるだけ、術をイメージしながら書けよ」
浅賀の説明が終わると、皆、集中しながら字を書き始めた。
エレノアも字を書くけれど、あまり上手くはない。昔から、字はあまり得意ではないのだ。けれど、今は字の良し悪しは問題ではなく、今必要なのは、神気を篭めること。
筆にまで神気を伝えることはできるけれど、どうしても墨にまで届かない。変に意識し過ぎると、うっかり筆が変化しそうにまでなる。
「落ち着け。落ち着け、私」
一度、筆を置いて深呼吸をする。他の人はどうなんだろうと周囲を見るけれど、皆上手くいっていないのか、書いた符を見ては、微妙な顔をしている。こういう時、神気においては一番秀でてそうな夏姫を見る。
夏姫は苛々した顔をして、符をくしゃくしゃに丸めていた。
どうやら、夏姫も駄目なようだ。
「えっと、先生。できれば見本とか見せて貰えませんか?」
「あん? 見本だぁ? こんなもん感覚だから、人がどんな風にやるかなんて、参考になんねぇぞ。人それぞれ、感覚なんて違うものだからな。……とはいえ、完成例は見せるべきなのかもな」
浅賀はそう言うと、近付いて来てエレノアの筆を受け取ると、無造作に符に字を書く。そこには風月と殴り書きされただけだが、確かに神気が篭められていた。
「凄い」
エレノアは呟くけれど、残念だが、全くと言って良い程、参考にはない。わかったことと言えば、浅賀の凄さと、一流の封滅士になるのは大変だと思えただけだった。
「ぬぅうああぁぁ。終わった。つぅか、全然できる気がしねぇよ。糞ったれ」
信二が、授業が終わるとやけくそ気味に叫んだ。
結局のところ、ちゃんと、符を作り出せた人は、封滅士の中にはいなかった。
「夏姫はどうだった?」
エレノアは夏姫に近付いて尋ねる。
「パンダって、口の周りって、黒かったっけ?」
「ん? 黒かったと思うけど、……って、何をしているの?」
夏姫の筆先を見ると、そこにはいくつもの動物の絵が書かれていた。どうも、途中で飽きて、違うことをしていたようだ。
「もう。真面目に授業を受けなきゃ駄目だよ。ねぇ、獅子君」
隣の席に座っている獅子に話しを振るが、彼は机を真面目に凝視していて、返事は返って来ない。思ってみれば、神気の使えない彼は、今の授業中に、何をしているのだろうか?
エレノアは気になったので、獅子の手元を覗き込む。
獅子は字を書いていた。
まさか符を作っているのだろうか?
夏姫は、獅子には元々神気があるのだと言っていた。もしかして、少しの神気でも篭めることができるのかもしれない。
獅子は書いた字を満足げに眺めて頷いた。
「傑作だ」
「獅子君。まさか符を作ったの?」
「符? そんなの作れるわけないじゃん。僕は神気が使えないんだから。それよりも、この字を見てよ」
獅子はそう言って、半紙を持ち上げる。そう言えば、獅子が書いていた紙は、習字で良く使う半紙だった。
エレノアは獅子の書いた字を見て、眉を顰める。正直に言おう。彼はその字を傑作だと言っていて、その顔は自信に溢れているけれど、何が凄いのかがわからない。少なくとも、何が書いてあるかはなんとかわかるものの、崩された書き方をしていて、上手さがわからない。
「えっと、達筆なんだね」
「おう。エレノアにはこの字の良さがわかるか」
獅子は嬉しそうな顔をする。それがあまりにも嬉しそうだったので、誤魔化し切れずに目を逸らす。
「ごめん。本当はわからない」
それを聞いた獅子はがっかりしたように肩を落とす。
「むぅ、残念だ。今の人はどうして、書の良さがわからないのだろうか」
「書?」
「……書道の事だよ。……むぅ。書の甲子園を目指せるだけの傑作が出来たと言うのに。今の日本人は嘆かわしい」
「わかるわけ無いだろ。書道を習ってたわけじゃないんだから」
信二が呆れたように言う。
「じゃあ、習うべきだ。もう、信二は野球の甲子園には行けないけれど、書の甲子園になら行けるよ。身体能力の強化とか、関係ないから」
「まず、書の甲子園ってなんだよ」
「本当は、国際なんちゃら書展っていうらしいんだけれど、関西で行われるのと、書道部の高校生が目標にしていることから、書の甲子園って呼ばれているらしいよ」
「へぇ。けど、正直俺は、書道に興味無いからいいや」
「これだから、今の若者は」
獅子はまるで老人のように嘆く。
「おっと。そろそろ俺は部活に行かなくちゃな」
信二が黒板の上にかけてある時計を見て、思い出したように荷物をまとめる。
「野球部だっけ?」
「おうよ。今度試合があるから。見に来るか?」
「試合?」
エレノアは首を傾げる。
神気を持つ者は、身体能力を強化できるので、一般の人との間に、覆しようのない差が出てしまう。なので、公式戦には出れるわけもないので、試合があると言うことが不思議だった。
信二は、エレノアが何に疑問に思ったのか理解したようで、苦笑する。
「まぁ、公式ではなく、あくまで草野球だけどな」
「そうなんだ。……う~ん。野球かぁ」
正直な所、エレノアは野球のルールをまともに知らない。けれど、友人からの誘いを無下に断るのも気が引ける。
「うん。わかった。見に行くよ」
「そうか。皆、喜ぶよ」
「喜ぶ? 何で?」
「野球部なんて男所帯だからな。女の応援があればテンションも上がろうってものさ」
「そんなもの?」
良くわからず首を傾げると、それを聞いていた獅子が笑う。
「あはは。男なんて、単純なのさ。特にエレノアは綺麗だからね。誰だって嬉しくなるよ」
「そっかな」
エレノアは、獅子の言葉に照れてしまう。同性や大人達から綺麗だと言われることはあっても、さすがに同じ年頃の異性から、そんなことを言われたことは、さすがに無かった。
「むう。球場のアイドルの座は渡さない」
話しを聞いていた夏姫が、何かに対抗心を燃やしたように、そんなことを言って来る。
「球場のアイドル?」
「ああ。夏姫は獅子と一緒に試合を見に来てくれることがあるからな。野球部じゃ、アイドル扱いされているんだ」
信二は不本意そうに顔を顰める。
「というわけで、その座は渡さない」
夏姫が恨めしそうに見て来るが、アイドルなんて言う立場には興味はないので、エレノアは微妙な顔をしてしまう。
「……えっと、うん。構わないよ」
「なんという、余裕。強敵よ。強敵がいるわ」
何故か、余計警戒されてしまった。
数日が経ち、野球部の試合の日がやって来た。
空は雲一つない快晴で、夏も終わりだと言うのに、とても暑い。ここの所は涼しかったので、かなりうんざりしながらも、学校へと続く長い階段を、エレノアは登る。
野球自体は、雨ノ守の校庭で行われる。山の木々に囲まれているとはいえ、大きく切り開かれた土地は、野球をするのには十分なのだろう。ホームランでもすれば、すぐさま、ボールを無くしそうではあるけれど。
校庭では既に、野球部の人達が練習を始めていた。皆は大きな声をかけ合い、キャッチボールや、走り込みなどを頑張っている。
その様子を見ていると、切ない気持ちになってしまう。
ここに来る前は、エレノアも同じように、部活を頑張っていた。
野球部と陸上部。競技の違いはあれど、体を動かし、努力をすることに変わりはない。楽しそうに体を動かす姿を見ていると、陸上部の頃の事を思い出す。……そして、もう二度と、あの頃に戻れないことを。
「エレノア。来てくれたんだな」
信二がエレノアに気付いて、練習の輪から抜けて、近付いて来る。
「うん。頑張ってね、試合」
「ああ。ありがとう」
「獅子君と夏姫は来てないの?」
軽く応援の言葉をかけてから、エレノアは二人の存在を探すように周囲を見回すが、見当たらない。
「ああ、まだだな。あいつら、ギリギリになんねぇと、来ないから」
「そうなんだ」
エレノアは頷きながら、ふと思う。
こうして、信二と二人だけで話すのは珍しいと。
信二と一緒に行動する時、常に獅子か、夏姫が居たのだ。でも、今はいない。
そう思ってしまうと、何を話したものかと、変に意識して考えてしまう。そうすると案の定、何を話して良いものか、思い浮かばなくなる。
「う~ん」
「どうした?」
唸っているのが変に見えたのだろう。信二が眉を寄せて聞いて来る。
「うんとね。信二君と私の二人だけの取り合わせってのも、珍しいなと思ったら、今まで、どんな風に話してたっけ? って感じになってね」
「そうか。そういえば、そうだな。二人ってのも珍しいか」
信二も気が付いたように頷く。
「そうなんだよね。……ああ、そうだ」
「どうした?」
「うんとね。ちょっと聞き難いんだけど、信二君に聞いてみたいことがあったんだ」
「俺に?」
「うん。良いかな?」
「別に構わないけど。……嫌なことなら答えねぇし」
「そっか。……えっとね。信二君は、何で野球をやっているの?」
「はぁ?」
信二は、何を言い出すんだと言った感じで眉を寄せる。
「あ、いやさ。ほら。野球部の人とかって、甲子園を目指して頑張っているじゃん。けど、……私も陸上をやっていたんだけど、……私達は、そう言うのに出れない。言い方は悪いかもしれないけれど、やる意味が無いような気がしてさ」
そう、エレノアは、目指していたインターハイを優勝する機会が無くなった。どんなに頑張っても、出場すらできないのだ。だから、陸上を辞めた。やっていても意味がないから。
「……そんなことか」
信二は、どこか呆れたような視線を向けて来る。
「そんなこと?」
「そうだよ。甲子園に出れない。そんなのわかっていながら、部活をやっている奴らだって、俺らみたいに神気を持っていない奴らにもいるよ。自分達なんかが、甲子園なんて出れるわけがないってな。そいつらだって、同じこと言うだろうよ」
信二の言う人達。そういう人がいるのはエレノアも知っている。
自分のいた部活にも、自分の才能じゃ、インターハイなんて、出れないよねっと、言っている部員も、確かにいたのだから。
でも、エレノアはそれを気に喰わなく思っていた。それは諦めだ。もっと練習すれば、良いだけの話。そう言う彼らは現に、インターハイに出場する人達の練習量に、全く足りていない。確かに、才能は必要だけれど、それ以上に、努力しなければ、才能なんて発揮されないのだから。
しかし、そんな彼らが、そう言いながらも、ダラダラとではあれ、練習に来ていたのは何故だろうか?
考えるけれども、あまり、そう言った人達のグループに入ろうとしなかったエレノアには、わからなかった。
「私には、その人達の気持ちは理解できない」
「そうか? かなり単純だぞ」
「単純?」
「ああ。まぁ、俺らの試合を見てりゃ、わかるさ」
信二は肩を竦めた。
ホームベースの前で選手が並び、挨拶を交わすと、試合が始まった。
「間に合ったわ」
「うん。なんとか、間に合ったね」
校庭の隅で、他の見学者に混じっていたエレノアは、聞き覚えのある声に振り向くと、夏姫と獅子がやって来ていた。手を上げて挨拶をすると、二人は近付いて来る。
「やぁ、エレノア。早いね」
「うん。信二君が言っていたけど、本当にギリギリなんだね」
「ああ。いつも、なんだかんだで、夏姫の性でね」
獅子はうんざりしたような顔で、夏姫を見る。
「夏姫がどうしたの?」
尋ねると、夏姫の方が答えてくる。
「むう。球場のアイドルの座を奪われない為に、素敵な格好をしていたのに、獅子に止められた」
そう言えば、そんなこともあったなと、エレノアは思いながら首を傾げる。今の所、夏姫の格好は、普段から見慣れた学校の制服だ。
「素敵な格好って?」
「何故かメイド姿。チアガールとかなら、まだわかるのに、何故メイド? 隣で歩く、僕が痛過ぎるよ」
獅子が嘆く。
エレノアは想像してみる。獅子の横を歩く、メイド姿の夏姫。
更に言うなら、雨ノ守は小さな村だから、それを傍から見ているのは、全て知人。確かにきついかもしれない。
主に獅子が。
「どうして、メイド姿なんて?」
「男が好きなものだと言っていたわ」
夏姫は自信ありげに、ニヤリと笑う。
男性がメイド好き。そう言う噂はエレノアも聞いたことはある。少なくとも、需要があるからこそ、メイド喫茶なんてものが出来るのだろうし。
けれど、そんな情報を誰が教えたのだろう? 獅子の嫌がりようを見れば、彼ではないこと明白だ。しかし、夏姫に自信があると言うことは、どうやら、それを教えた人は夏姫の信頼を勝ち得ているようでもある。
「えっと、誰が教えてくれたの?」
「メイドが」
「メイド?」
エレノアは戸惑ってしまう。メイドの知り合いでも居るのだろうか?
「家政婦のおばちゃんの事だよ」
獅子が頭痛を抑えるように、額に手を当てながら答える。
「……えっと、その人、モテモテだったんだろうね」
「いや。四十過ぎて、未だ独身だよ」
「……そうなんだ」
あまり、知りたくない情報だった。
野球は進んでいく。
彼らの、神気での強化は、正に反則だ。ピッチャーの投げるボールは、プロすら投げられないような速さを軽々と叩きだし、バッターはそんなボールすら打ち返す。
しかし、撃たれたボールは、思ったより遠くへは飛ばず、一人の人間が守れる範囲がとても広い為、中々点数にも、結びつかなかった。
それほどボールが飛ばないのは、普通のバットでは簡単に折れてしまい、普通のボールでは飛び過ぎてしまうので、信二達が使っているボールもバットも、どちらも頑丈に、けれど、あまり飛ばないように造られている特注性だと、獅子が教えてくれた。
エレノアは、野球のルールを知らないので、正直な所、見ていて良くはわからない。
獅子が事あるごとに、簡潔に教えてくれるけれど、理解しているとは言い難い。
かろうじて、今の所、信二のチームが負けていることだけが、なんとかわかる程度だ。
「えっと、もしかして、このまま、負けちゃうのかな?」
「どうだろうな。一点取られているだけだから、逆転のチャンスは、いくらでもあると思うよ」
「そうなんだ」
エレノアは頷き、信二の様子を見る。
負けているというのに、信二の顔は明るい。仲間達に声をかけ、励ましている。仲間達もそれに対して、明るく返していた。
試合は更に進み、終盤となる。
周りの見学者の応援に熱が入り、バッターの仲間達も、声の限りに叫んでいる。
「逆転のチャンスだ」
声に目を向けると、獅子が笑みを浮かべていた。
「そうなの?」
「ああ。九回裏、ワンアウト二塁。点差は一点。一打逆転のチャンス。バッターは五番。ホームランを打てるだけの技量も、十分にあるだろうね」
獅子が説明している間に、ピッチャーが一球目を投げる。けれど、それは空振り。仲間達からは、良く見ていけという声が飛ぶ。
二球目は外してボール。
そして、三球目。バッターが振ると、甲高い音が響く。ボールは宙高く飛ぶと、森の中へと消えて行く。
しかし、周囲に起こったのは、ため息。
「ホームランじゃなかったの?」
「うん。惜しかったけど、ファールだよ」
「そうなんだ。ファールなんだ」
頷きながらも、エレノアは実際の所、良くわからなかった。
バッターは先程のファールで力尽きたのか、次は空振りで終わり、アウトになってしまう。
「駄目だったね」
エレノアが獅子に言うと、彼はより一層、楽しそうな顔をして頷き立ち上がる。見ると、夏姫も今までやる気が無さそうに座っていたのに、立ち上がっている。
なんだろうと不思議に思っていると、次にバッター席に着いたのは、信二だった。
「おい、信二。ここで打てばヒーローだぞ」
「打てなければ、ただの凡人ね。これからは、『ただの信二』と呼ぼう」
二人の声援に、信二は苦笑したようにこちらを見てから、集中するように大きく息を吐き、ピッチャーを睨みつける。その顔はとても真剣で、今まで見たことないほどだった。
一球目、ストライクに入っていたけれど、信二はそれを見送った。
二球目はボール。
三球目もボール。
四球目、信二は振るけれど、空振りしてしまう。
そして五球目、信二は今度こそ打撃音を響かせた。
打球は、空高く舞い上がる。信二は勝利を確信し腕を高々と上げると、周りから、大きな歓声が湧く。
「今度こそ、ホームラン?」
「ああ、そうだ。信二の奴、凄いよ。本当にヒーローみたいだ」
獅子は本当に嬉しそうに言う。……何故か隣で、夏姫はブーイングをしているけれど。
再び信二を見ると、彼は、喜び騒ぐ仲間達に、迎え入れられている。負けた相手も、悔しそうではあったものの、しっかりと相手の活躍を称えていた。
エレノアはその様子を見ていると、本当にそうだったなと、思う。
試合が始まる前、信二は言っていた。何故野球をやるのか、見ていればわかると。
単純な話だ。信二達は、野球をすることが楽しくて、楽しいからこそ、彼らは野球をやっている。
それが見ていて本当にわかった。残念ながら、野球のルールを知らないので、野球の楽しさを知ることはできなかったけれど、信二達が、野球を楽しんでいることは間違いないと傍から見ていてわかる程に。
エレノアは苦笑する。
自分は目標ばかりに囚われ、スポーツ本来の楽しみを見失っていたのかもしれないと思ったのだ。自分だって、陸上を始めた時は、走ることが楽しいと思って始めた。しかし、いつの間にか、タイムにばかりこだわり、そんなこともすっかり忘れてしまっていた。
神気を得て、試合に出ることはできなくなってしまったけれど、走ることはできなくなったわけではない。むしろ、タイムにこだわる必要が無くなり、厳しい筋肉トレーニングをする必要もなくなった。なので今なら、走ること自体を楽しむことはできるだろう。
走りたい。
信二の野球を見ていて、久しぶりにそう思うことが出来た。
「おめでとう、信二」
獅子は、着替えを終えて校舎から出て来た信二に声をかけると、信二は嬉しそうに頷く。
「おうよ。見たか、俺の大活躍」
「ああ。凄いよ。格好良いね」
「ふふん。だろう」
信二は自慢するように胸を張る。
それを見た夏姫がとてもがっかりした顔をしている。
「むしろ、何故打つのだ。私はこれから、信二の事を、『ただの信二』、もしくは、『凡人信二』と呼ぼうと思っていたのに」
「はん。残念だったな」
信二が勝ち誇った笑みを浮かべる。まぁ、夏姫がそう呼ぶようになろうと、次の日には忘れているので、一日我慢すれば良いだけのことなのだが。
「信二君」
エレノアが信二に声をかけた。
「エレノアか。俺の言ってたことはわかったか?」
「うん、わかったよ。信二君は、本当に楽しそうに野球をしていた。なんていうか、久しぶりに走りたいって気持ちに、私もなったよ」
「そうか。それは良かったな」
二人はそんなやり取りをしている。
「ん? なんかあったのか?」
「ううん。何でも無い」
エレノアは首を振って誤魔化すので、獅子は不思議そうに首を傾げる。けれど、やっぱり二人は語る気はないようなので、気にしないことにする。どちらにしろ、個人的な理由だろう。
「さてさて、試合で大活躍したことだし、なんか奢ってやるよ、信二」
「おっ、マジか獅子。太っ腹だな」
「まぁね」
獅子は鷹揚に頷くと、夏姫は眉を顰めて、マジマジとこちらを見詰めて来る。
「むう。獅子は太ったのかしら」
「そういう意味ではないと思うよ」
エレノアが苦笑しながら、指摘する。
「とりあえず、村の喫茶店にでも行こうぜ、俺は腹が減った」
「いっぱい、食うなよ」
「いやいや、そこは容赦しない方向で」
信二がニヤリと笑うので、思わずため息を吐いてしまう。それを、見ていた夏姫が羨ましく思ったのだろう。裾を引っ張って来る。
「獅子。獅子。私も奢って」
「いやいや。俺は信二で手一杯だよ。むしろ、そこはエレノアに奢って貰いなさい」
「ええ。私にとばっちりが。と言うか、私は独り暮らしで、そこまで余裕はないんだからね」
エレノアはさすがに断る。それを聞いた夏姫はとても悲しそうに肩を落とす。
「うぅ。じゃあ、信二。奢って」
「いや、何で俺が奢るのさ。俺の活躍を労おうって話だったろ?」
信二がとても嫌そうな顔をする。
その様子を見ていた獅子は、諦めたようため息を吐く。
「……はぁ、仕方ない。夏姫も奢ってあげるよ」
「やった。さすが獅子ね」
夏姫は嬉しそうに言って、誰よりも先んじて、喫茶店に行こうと駆け出した。
「……獅子。夏姫に甘過ぎ」
「まぁ、自覚しているよ」
獅子は苦笑して、誰よりも先んじて、喫茶店に行こうとしている夏姫の後を追おうとする。けれど、すぐに動きを止める。
気になる者を目にしたのだ。
山奥へと続く、学校の横道。そこに入って行く人がいたのだ。後ろ姿をチラリと見ただけなので、誰かまではわからなかったが、村の人ではあろう。
獅子は首を捻る。
学校の山奥で変わったものと言えば、土地神くらいしかない。そして、もう一つあるとすれば、この地に封じられた妖怪の体が、眠る場所と言ったところだろうか?
とはいえ、その場所に行ったところで、妖怪の封印が解けるというわけではないのだが、……それでも、なんだか嫌な予感がした。
「どうした?」
信二が、全く付いて来ようとしない獅子に、聞いて来る。
「ん。山奥に入って行く人がいたんだけれど、なんだか、気になってね」
「山奥に? 土地神のいる洞窟の前は、結構綺麗な水辺だし、そろそろ夏も終わりとは言え、この暑さだ。涼みにでも言ったんじゃないか?」
「……それなら良いんだけどな」
獅子はそう答えながらも、一度湧きあがった不安を押し殺すことができない。
「なぁ。ちょっと、様子を見て来るから、信二達は先に行っててよ。確認したら、すぐに追い付くから」
そう言って、獅子は横道に行こうとすると、信二に腕を掴まれる。
「おい。夏姫、エレノア」
信二は面倒そうな顔をしながら、先を行く二人に声をかける。夏姫は気付かなかったようだが、エレノアは気付いたようで、夏姫に声をかけて戻って来る。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をしてエレノアが尋ねて来る。
「いや、それがな……」
信二は説明しようとして、夏姫を見る。
「ケーキ。ケーキ。ケーキの食べ放題」
彼女は機嫌良さそうに口ずさんでいる。
「……食べ放題になっているよ」
少しは遠慮してくれと、獅子は絶望した気分になる。
「でだ。食べ放題はもう少し後に」
「貴様を泥人形にしてやろうかっ」
夏姫が物凄い勢いで、良くわからない恫喝をした。
「まぁ、落ち着け夏姫。獅子が確かめたいことがあるらしいんだ。それに少しは付き合ってやれよ」
「獅子が?」
夏姫がこちらを見て来る。
「うん。そうなんだけど、俺一人で良いよ、信二」
遠慮してそう言うと、信二は呆れたような顔をする。
「何言っている。嫌な予感がするんだろ。もし本当に問題があった場合、獅子は何もできないだろ」
「……いや、まぁ、そうなんだけどね」
確かに神気の使えない獅子には、妖怪的な問題が発生したら、何もできはしない。
けれど獅子は、自分の予感が、普通よりも当たり易いことを理解している。だから、危険な目に会う可能性は、それなりに高かったりする。そんな所に、皆を連れて行く気には正直なれない。
「獅子君、遠慮しないで。良くわからないけれど、危険かもしれないんだよね? なら、皆、獅子君が心配だから、一人で行かせられないよ。ね? 夏姫」
エレノアがそう、夏姫に尋ねると、夏姫は当然と言わんばかりに頷いた。
「まぁ、信二の用事なら、無視するけれど、獅子なら少し我慢する。心頭滅却すれば、火もまた涼しという気持ちで」
「いや。まぁ、我慢と言う意味ではあるけれど、その表現は大げさすぎるだろう」
夏姫の言葉に苦笑しながらも、そう言ってくれる友人達の言葉を、獅子は嬉しく思った。
前来たように、獅子達は山道を登る。
「へぇ。土地神の所には、妖怪が封じられているのか」
信二が道すがらにした獅子の説明を聞いて、驚いたような顔をする。
「妖怪って、獅子君が封印の子として封じている、大妖怪の事?」
「そうだけど、……エレノアは封王祭の事を知っているのかい?」
「夏姫に少し、教えて貰ったことがあるの」
「そうなんだ」
獅子は意外に思って夏姫を見る。そう言った説明を、夏姫が自分のいない所ではちゃんとしているのかと思うと、不思議な気分になる。
一緒に居る時は、そう言う真面目なことを聞かれると面倒臭がって話しをはぐらかし、獅子に説明させようとするのだ。
長い付き合いとはいえ、まだまだ、知らない面はあるのだなと、少し寂しく感じる。けれど、裏を返せば、普段は自分を頼ってくれているということだろうと、目を細めて夏姫を見る。
「何? その狐のような顔は」
「そんな顔していた?」
「目が細かった」
「……それが夏姫の考える狐顔なんだ。まぁ、なんでもないよ。ただ、夏姫は頼もしいと思っただけさ」
「当然ね。私は頼もしい。それはもう、駄菓子屋のお婆ちゃんのように頼もしい」
「それって、本当に頼もしいのか?」
信二が疑わしそうな顔をすると、夏姫の眉が、心外だと言うように、ちょっと持ち上がる。普通の人は気付けない変化だろうけれど。
「私の知る駄菓子屋のお婆ちゃんは頼もしかった。お菓子を盗もうとする悪餓鬼を、一人も逃さないのよ」
「それは頼もしいな。というか、その悪餓鬼の一人に、お前は入っていないよな?」
「私はそんな愚かなことはしない。私はお婆ちゃんを尊敬していた」
「そうなの?」
そんな話を初めて聞いて、獅子は驚いたように、尋ねる。
「もちのろんよ。何故ならあそこは、お菓子食べ放題という素敵な環境。できることなら、私はお婆ちゃんの跡を継ぎたい」
「店員が店の商品に、手を出しちゃ駄目でしょ」
獅子は苦笑する。
「で、獅子君。その大妖怪の封印は簡単に解けるものなの?」
エレノアが話を戻すように聞いて来た。
「ん~と、そうでもないよ。封印は、封印された妖怪の力自体を、利用して行われているんだよ。だから、もの凄く強固な封印の力が働いているんだ。だから、無理矢理壊すことはできないはずだよ」
大妖怪の力は、何人もの封滅士が挑んでも倒せない程の強大なものだ。その力が封印に使われている為、相当な力が働いているのだ。
「大妖怪の力かぁ。それは凄いんだろうね」
エレノアは感心したように言う。
「無理矢理ってことは、なんか、手順通りにやれば、封印は解けたりするのか?」
信二が疑問に思ったのだろう。そんなことを尋ねてくる。
「まぁ、あることはあるよ。土地神が封印を安定させてくれているとはいえ、十年くらいに一度、不安定になることがあるのさ。その時、結界の張り直しの儀式が行われる。その時に、僕を殺せば良い。普段、結界が安定している時は、封印の子が死んでも、代わりを立てれば問題はないのだけれど、不安定な時だと、封印の子が死んだ瞬間に、封印も解けてしまうのさ」
獅子は深刻な話しにならないように、軽く答える。
「封印の子? つまり、獅子君を?」
それでも、エレノアが心配そうに見て来る。
「うん、そうだね。まぁ、今度の張り直しの年まで、三年はあるから、今の所は、問題ないよ。だから、三年後に何かあった時には、守ってよ」
できるだけ安心させようと、笑みを浮かべて獅子は言う。
「……三年」
エレノアはそう呟いて、自分の手を見詰めている。自分が三年でどれだけ強くなれるかを測っているのかもしれない。
まぁ、どれだけ強くなれるかなんて、誰にもわからないけれど、少なくとも、エレノアが守ってくれようとしているのが伝わって、獅子は嬉しく思う。
「安心する。三年もあれば、私は最強になると思うのよ。獅子の一人や二人、余裕で守れるわ」
夏姫もそんなことを言ってくれるので、獅子は何だか泣きたい気持ちになった。だから、誤魔化す為に、そんな彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「な、何をするのよ」
夏姫はとても不満そうだったけれど。
土地神の住まう洞窟の前で、エレノア達は立ち止まる。
嫌な予感がしただけで、本当にここに人が来たのかどうかはわからないのだと、獅子は言う。
「ここまで来たけど、誰にも会わなかったね」
「そうだね。土地神に会おう。それで何も無ければ良いんだ」
獅子はそう言いながらも、不安そうな顔をして、ここからは見えない洞窟の奥を窺うように、入口を見詰めている。
洞窟を進む。
前も感じたが、外の暑さに比べ、ここには冷気がいくらか溜まっているので、とても涼しく感じる。外の暑さに少々うんざりしていた身としては、かなりありがたいと思える。
少し進むと、奥の方から何かが激しくぶつかる音が聞こえて来る。何か、巨大な物で、壁を打ち付けるような轟音。
洞窟の中は音が反響し易いため、耳にうるさい程響いてくる。
「何だ? この音は」
信二は眉を顰める。
「……やっぱり、何かありそうだな」
獅子の言葉に、皆は頷き合い、土地神の下へと急いだ。
洞窟奥の巨大な空洞。前に土地神を目にした時と同じで、そこに土地神がいた。
「何あれ」
エレノアは我知らず呟く。
土地神の姿は前に見たことがある。白くぶよぶよとした芋虫の体に、透明な翅。上半身には甲殻に覆われた人のような上半身。けれど、白い芋虫の体に、紫色の斑点が、色々な所に浮き出ている。
明らかに普通の状態じゃない。
土地神は苦しそうに身をよじらせて、手当たり次第と言った感じで、近くの壁にぶつかって行く。
「毒だね。それも、物凄く強力な、妖毒だ」
「妖毒?」
「妖怪の放つ毒のことだよ。けれど、ここら辺に、土地神を苦しめるだけの、妖怪がいるとは思えないんだけどな。この土地に近付いただけで、土地神の警告が、元老院に行くだろうし」
「獅子が見たって言う、人かもな。何がしか企んでいて、土地神を亡き者にしようとしているのかもしれない」
信二はその人影はないかと、周囲を見回すけれど、見つけることはできなかったようだ。どこかに隠れているか、もしくは、洞窟の奥にある、他の出入り口から、もう、逃げてしまったのかもしれない。
「それは、正に辛抱」
「陰謀ね。我慢ではないからね」
何故か、こんな状況だと言うのに、いつも通りのやり取りをする夏姫と獅子に、エレノアは呆れながらも、土地神に視線を戻す。
「ねぇ。土地神を救うことはできないの?」
獅子は残念そうに首を横に振る。
「……無理だよ。神気で他の人を癒すことはできないんだ。僕らに出来ることと言えば、土地神が毒に耐えられることを祈るくらいだよ」
「そんな」
エレノアは悲しくなる。
前に少し話しただけだったが、土地神は決して悪い存在ではなかった。できれば救ってやりたい。そう思うのだけれど、自分の力ではそうはいかない。
「というよりも、土地神の心配よりも、自分達の心配をした方が良さそうだぞ」
信二が引き攣ったような声を出す。
土地神はこちらの存在に気付いたのか、視線をこちらに向けて来たのだ。しかし、その瞳には、理性を感じ取れず、むしろ、怒気の孕んだ、狂ったような視線を向けられる。
「完全に敵視されたね」
「そんな。私達は何もしていないのに?」
「錯乱した相手に、正気を解いても無駄だよ」
獅子は、哀れむように、土地神を見詰めている。
そうこうしている内に、土地神が羽を振るわせた。
「避ける」
夏姫が突然、獅子を抱えて横に跳びながら叫ぶ。それに反応した信二も、同じように横に跳ぶが、エレノアは戸惑っただけで、反応できなかった。
土地神が羽を震わせての、指向性の衝撃波。
耳鳴りがしたかと思うと平衡感覚を一瞬、麻痺させられ、地面を削りながら高速で飛んで来る竜巻のような衝撃波に気付けたものの、エレノアはそれをまともに受けてしまい弾き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、背中に走る衝撃と全身の痛みに、まともに呼吸もできない。
「げほっ、ごほっ」
咳き込みながら、なんとか呼吸を確保しようとしながら、土地神を見ると、再度、羽を振るわせ始めている。
また、衝撃波が来る。そう思って、エレノアは慌てて起き上がろうとするけれど、次の瞬間には、耳鳴りがして、たちまち動けなくなってしまう。地面を削りながら飛んで来る衝撃波。避けることはできないと、目をつぶり、覚悟を決める。
けれど、信二が守るように間に入ると、衝撃波を殴るように霧散させる。
「大丈夫か? エレノア」
見ると、信二の腕には、銀色の手甲を付けられていた。あれが信二の顕現した武器。
「うん、なんとか。ありがとう、信二君」
エレノアは立ち上がり、近くの石を拾うと、深呼吸をして雷光鞭を顕現させる。土地神を殺したくはない。けれど、武器を顕現させなければ、自分の身を守ることすら難しい。
「どうする? 逃げるの?」
「そうだな。逃げるべきかもしれない」
信二はエレノアの問いに頷く。
「いや、倒すべきだね」
それに対して、近付いて来た獅子が言う。土地神の方を見ると、夏姫が注意を引き付けるように攻撃を仕掛けていた。
「どう言うことだ?」
信二が尋ねると、獅子は真剣な顔で土地神を見る。
「予想外の事が起こっている。土地神が自分の妖毒を治す為、周囲の力を利用しようとしているんだ」
「えっと、じゃあ、土地神は治ると言うこと?」
何故、獅子にそんなことがわかるのだろうと、エレノアは不思議に思いながらも、淡い期待を込めて、そう尋ねる。だが、獅子は沈痛な面持ちで返す。
「それなら良いんだけれどね。……このまま行けば、土地神は確実に歪む」
「歪む?」
「神から、妖怪になるってことさ。奴が利用としているのは、この地に眠る妖怪を、封印している力だからね。奴には制御できない程、濃厚な力だ。それに、下手をすれば、封印を立て直すこともできなくなる」
獅子はおそらく、封印の子として、この地の封印と感覚のようなものが繋がっているのだろう。だからこそ、エレノア達の気付けない、封印の異変に気付けたのかと、エレノアは理解する。
「つまり、封印が解けるってことか?」
信二は焦ったように周囲を見る。
「僕がいれば解けることはないよ。けれど、僕の体調が崩れるだけで、封印は解けるくらいに、不安定になるよ。それも、封印の張り直しができないから、安定することもない状態になるだろうね」
「体調が崩れるって、どのくらいだ?」
信二の質問に、獅子は首を傾げて考える。
「う~ん。意識が朦朧とするくらいだから、インフルエンザはアウトかな」
「二年前になったよな」
「いやあ。地味に死ぬかと思ったよ。でも、今ならまだ、張り直しが出来る状態だ」
「……なら、早く土地神を倒さなくちゃ駄目なんだね」
エレノアは土地神に向き直る。
夏姫と土地神の戦いは続いている。彼女は、土地神が放つ衝撃波や、口から吐き出す酸によって、思うように近付けずにいて、とても苦戦していた。
「夏姫が苦戦している」
「毒に侵されて弱っているとはいえ、かなり力を持った存在だからね。弱い妖怪とは比べ物にならないくらいに厄介だよ」
獅子は眉を寄せて、夏姫の戦いを見る。
「行くぞ、エレノア。夏姫だけだと危ない」
信二がそう言って、土地神の方へと駆け出した。
「ねぇ、獅子君」
「ん?」
「もし、この地に封じられた妖怪が目覚めたら、どうなっちゃうの?」
「……う~ん、どうだろうか? まぁ、雨ノ守に住めなくなるくらいには、大変なことになるだろうね。どちらにしろ、その時には僕はいないから、封印が解けた時の場合を、考える気はないかな」
「いない? それはどう言うこと?」
「言ったでしょ。僕の封印が解けると言うことは、僕が死ぬっていうことなんだよ」
「……そっか」
本当は、土地神を救いたいと思うのだけれど、それでも、倒さなければ獅子を失うことになる。どちらが大切かと問われれば、もちろん、獅子の方が大切だ。だから、エレノアは覚悟を決める。
見ると、信二の加わった戦いは、互角になっていた。片方が囮になるように動くことで、術を放つ余裕が出て、攻撃に転じることが出来ている。
「穿て、氷針雨」
夏姫が術を使って、何十もの、大きな氷の針を、土地神に向かって降らせる。それは土地神に突き刺さるが、見上げるような巨体からしてみれば、たいした傷ではないのだろう。構わずに反撃して来る。
顕現した武器のように、強力な神気を練ったものでないと、土地神を倒すことはでき無さそうだ。しかし、そこまで近付くこともできないでいる。更に言うならば、術は神気を放つことになるので、使えば使うだけ、長く戦えなくなる。
エレノアは考える。自分はどうするべきかを。
自分の武器ならば、二人に比べてリーチがある。だから、遠くからでも大きなダメージを負わせることはできるかもしれない。けれど、二人に比べて、練れている神気が少ないので、退治できる自信がなかった。
まず、自分に出来ることは何かを考えるべきだろう。
それはすぐに思い浮かんだ。
自分が他の人にも負けないと思えるのは、走ることだ。それならば、自信はある。そして、それを活かす方法は、囮だろう。
エレノアは囮になることを、怖いと思う。
当然だ。攻撃の標的になるということなのだから。
けれど、ここで脅えて何もしなければ、危険な目に遭うのは、夏姫や信二だ。自分の身可愛さに、二人が大怪我する方が怖かった。
「私は速い。誰も私を捕まえることはできない」
脅える心を叱咤して、エレノアは走りだす。
エレノアは土地神に近付くと、芋虫の背中に雷光鞭を叩きつける。芋虫の体は、土地神にとっては末端なのかもしれない。まともに当てたと言うのに、それほど痛みを感じているようには思えない。
それでも、術に比べれば、強力だと感じたのか、狙い通り、土地神がこちらを向く。
「二人とも、私が囮をするから、攻撃をお願い」
「エレノア」
信二が心配するような言葉をかけて来るので、大丈夫だと頷きかける。けれど、彼はそれでも心配そうだった。
「信二。エレノアを信じる。私達は仲間なんだから、一人は皆の為に、皆は一人の為に。ワン、……ワン、オン、ワン?」
「バスケかよ。お前、本当に英語は駄目な。……まぁ、わかったよ。じゃあ、俺はエレノアの補佐と、夏姫の補佐をやる。夏姫は仕留めろよ」
「任せんさい」
夏姫は胸を張って、炎の鬼切丸を構える。
エレノアはその様子を見ながらも、土地神の放つ衝撃波を避ける。衝撃などは空気の揺れなので、目に見えるものではない。けれど、一度衝撃を受けてわかったが、放たれる前に気圧が変わるのか、耳鳴りがする前兆のような、違和感を覚える。それを目安に行動すれば、避けることは容易い。
むしろ厄介なのは、土地神の吐き出す酸。避けたと思っても、液状な為、地面に弾けた水滴が少しだけ体に触れる。
「くぅ」
焼けるような痛みが襲う。見ると、肌が火傷のように赤くなっている。そこまで強い酸ではないのが救いだ。けれど、全身に被るのはとても危険な物。そこまでたいした傷ではないのに、痛みが一向に引かないのも、痛みを強めるような作用があるのかもしれない。
エレノアは鞭を振るうと、土地神の腕が伸び、その攻撃は打ち払われる。
顕現させた雷光鞭は、触れた者に電撃のダメージを負わすことが出来るのだけれど、甲殻に覆われた土地神の腕には、あまり効果がないようだ。
もう片方の腕が、物凄い勢いで伸び縮みしながら、槍のように突いて来る。攻撃に転じていたエレノアは反応が遅れ、飛び退くように何度か避けるが、追い詰められてしまう。
「おらよっと」
信二が土地神を、横から殴りつけることで、エレノアへの攻撃を中断させる。手甲によって倍加された信二の放った一撃で、土地神の巨体が揺らぐ。
「凄い」
エレノアは態勢を整えながらも、信二の攻撃に感嘆する。土地神もさすがに苦しかったのか、呻きながら信二の方へ腕を振るおうとするが、途中で狙いを変える。
土地神の背中を走るように夏姫が、攻撃を仕掛けようとしたのに、気付いたのだ。振るわれた土地神の腕を、彼女は刀で斬り落とす。
「ぐぎゃあああああっ」
土地神は悲鳴を上げ、芋虫の体全体から棘を出し、夏姫を追い払おうとする。予想外の攻撃に、彼女は芋虫の体から飛び退きながら、刀を振るい、芋虫の体を斬撃と炎を合わせることで、深々と傷付けた。
「痛い」
地面に着地すると、夏姫は無表情のまま、お腹を擦る。見ると彼女の脇腹の服が裂け、血が滲んでいた。
「大丈夫か、夏姫」
「肉を切らせて、肉を断つ」
「つまり、相討ちってことじゃねぇか」
「その通りね。けど、次は仕留める」
夏姫は痛みを堪えながら、刀を構える。
「いや。もう十分だよ、夏姫」
いつの間にか近付いて来た獅子が言う。
「獅子君。どういうこと?」
「土地神からの封印への干渉が無くなった。おそらく、妖毒が回りきって、自分を維持することもできなくなったんだろう。……ほら。あれを見て」
獅子が指差す方向を見ると、土地神の芋虫の体の端の方から、塵となって崩れ始めていた。そして、それは全身へと広がって行く。
「むぅ。ちゃんと、骨を断っていた」
夏姫はそう言いながら、やはり、脇腹の怪我は痛いのか、その場にへたり込んでしまう。
「だな」
信二は夏姫の言葉に頷き、土地神の様子を見守っている。そこには既に、戦う意思は無くなっていた。何も憎くて戦っていたわけではないのだ。
そんな二人のやり取りを見て、本当にこれで終わりなんだなと、エレノアは緊張を解く。
改めて土地神を見れば、塵への変化は芋虫の体だけでなく、女性の姿をした甲殻の体にまで広がっている。
「……助けることはできないんだよね」
つい、未練がましく言ってしまう。
倒すことは決意した。けれど、だからと言って、罪のない存在が死へと向かっているのを、平常心で見ていられるわけがない。
どうにかして、助けてあげたいと思うのは、エレノアにとって普通である。例えそれが、妖怪であろうとも。
「……助けることはできないよ。けれど、ただの死にはさせない」
獅子がそう言って、土地神に近付いて行く。
「獅子君?」
体の大部分が塵となり、土地神の動きは止まっているとはいえ、まだ、近付くには危ないのではないかと思える。けれど、獅子は恐れることなく、土地神に近付くと、まだ崩れていない部分に手で触れる。そして、目を閉じ念じるようにすると、塵にならず残っていた体が一気に崩れ、収縮して行く。
全てが消えてしまったように思えた。しかし、収縮した先に、残っていたものがある。それは、赤ん坊程の大きさの存在。芋虫の下半身に、人の上半身。土地神と同じ体。しかし、その体は全て弱々しい。
「この子は?」
「……土地神の気を使って、新たな生命として誕生させたのさ。土地神の生まれ変わり。もしくは土地神の子供かな?」
エレノアは凄いと素直に感嘆し、土地神の子を見る。前の土地神は死んでしまった。けれど、全てが消えてしまったのではないのだと、救われた気持ちになる。
「ありがとう、獅子君。……でも、どうして、獅子君はこんなことが出来るの?」
エレノアは礼を言いながらも、疑問を口にする。獅子は神気を使えない。夏姫曰く、無いわけではないらしいけれど、神気も使えないような状態で、先程のような事が出来るようには思えない。それに対して獅子は苦笑する。
「封印の子として、土地神と感覚的に繋がりがあったからか、土地神に意識がない状況で、直接触れることが出来れば、土地神の気に干渉できるんだよ。土地神が、封印に干渉したようにね。まぁ、ここまで上手くいくとは思わなかったけれど」
獅子はそう言いながら、土地神の子を撫でると、その子は地面の中へと透き通るように消えて行く。
「あの子はどこへ行くの?」
「この地で眠りながら、土地神としての力を、身に付けるんだよ。いずれは、封印の安定化を手伝ってもらわなければいけないからね」
「……そうなんだ。早く、大きくなると良いね」
「そうだね」
獅子はエレノアの言葉に、優しい表情で頷いた。
土地神の洞窟から出ると、獅子は目を細める。そこには何匹もの大きな犬が出口を囲んでいたのだ。
「な、何これ」
エレノアは戸惑ったように、慌てて石を拾うと、顕現させようとしている。
「大丈夫だよ、夏姫。式神だ」
信二がそう言って、エレノアの行動を止めた。彼の行動は正しい。
武器を顕現させて、万が一、敵対行動を取られたと思われるのは、土地神を殺してしまった今、最も避けたいことだ。間違いなく彼らは、この雨ノ守を管理する、元老院の手の者だったから。
「……式神なんだ」
「そう。元老院の犬よ」
同意する夏姫の言葉に、獅子は意味深な気がして思わず笑ってしまう。
夏姫の言葉は、元老院の手下である封滅士を指しているのだろうか? それとも、ただ単純に、式神の姿を指して言っただけなのだろうか?
式神達の中、一匹が前に出て来る。
「お前達、ここで何をしている? ……土地神に異変を感じて来たが、この異変はお前達の仕業か?」
「喋った」
エレノアが驚きの声を上げる。
「力ある封滅士は、式神に人と同じような意思を持たせることが出来るんだ」
信二がエレノアに説明する。
そう。式神の強みはそこにある。式神自身が意思を持ち、封滅士の考えを汲んでくれるのだ。それは一人で戦うよりも、遥かな力になる。
獅子は、そんな式神達の前へと出る。
「土地神は何者かの企てによって、殺さざるをえない状況になっていた」
「お、お前達は土地神を殺したというのか?」
式神は動揺したような顔をする。人の手に生み出された式神は、犬の姿であっても、その表情は、まるで人のように浮かべる。
「ああ。もう一度言うが、残念ながらそうせざるをえない状況だった。理由はちゃんと話そう。だから、元老院の人間を集め、説明する場を用意して欲しい」
式神と、その主たる封滅士は、意識を共有させている。その為、式神に話せば、封滅士にも話は伝わるのだ。
式神達は顔を見合わせる。
土地神の死はさすがに想定外のことだったようで、式神を操る封滅士達でも、どうしたものかと話し合っているのだろう。
話し合いが終わったのだろう。一匹が足元まで近付いて来る。
「お前の言う通り、雨ノ守全体に関わる話になるだろう。説明の場を用意する。付いて来い」
式神はそう言うと、背を向けて歩き始める。その様子を見て、獅子は夏姫達に振り向く。
「そういうわけだから、悪いけれど、三人にも来てもらって良いかな?」
問いかけると、エレノアと信二は当然とばかりに頷いた。
「構わないよ。土地神が死んじゃったのは、大事だしね。私もこれからどうなるのか知りたいし」
「というか、今回の件は、お前が悪いわけじゃないしな。獅子だけには任せるってことはしねぇよ」
二人は快く答えてくれる。しかし、夏姫だけ考えるように顎に手を当てている。
「ふ~む。食べ放題は、どうなったのかしら?」
どうやら夏姫は、土地神との戦いの前に約束した、喫茶店で奢ると言う話が気がかりのようだ。
相変わらずな夏姫の様子に、呆れを通り越して感心してしまう。
「今度、奢るからさ。それに、夏姫やエレノアにも、怪我の手当ては必要だろう。大丈夫か? 脇腹」
「むぅ。……確かに痛い」
「なら行こうよ」
「わかった」
「ありがとう、夏姫」
獅子は感謝の言葉を述べて、皆で式神の後を付いて行く。
エレノア達が連れて来られたのは、獅子の家。つまり、雨ノ守家だった。
正門から入ると、屋敷に通され、エレノアと夏姫は怪我の治療をした後、庭を通って離れにあるもう一つの屋敷に案内される。その中に入ると、畳の敷かれた二十畳ほどの広々とした部屋に、既に多くの人が集まっている。
「お母様がいる。ということは、お父様も」
夏姫が嫌そうに、獅子の後ろに隠れる。
「まぁ、獅子は元老院を集めろっていたから、当然いるだろ」
信二は呆れながら、周囲の人達を見ている。
「そっか。夏姫もこの地を管理する、名家の一人なんだっけ」
「忘れがちだけど、そうだな。ここに居るのは元老院。つまり、雨ノ守、日野、遠野、竜ヶ峰、石崎、大河、この六つの名家と、その分家の人達だろう」
名家とその名家と血縁関係にある分家。元老院は血筋によって構成されている。
「そうなんだね」
エレノアは頷きながら周囲を見る。雨ノ守事態が、小さなコミュニティなので、この地に来て間もないエレノアにも、見覚えのある人がたくさんいる。その中でも、特に見知った顔を見つける。
「浅賀先生もいるね」
そう、そこに居たのは、担任の浅賀だった。彼は隅に控えるように立っている。
「そうだな。あの人も、分家の人間なんだってさ。確か、石崎の分家だっけか?」
信二は背中にいる夏姫に聞く。
「そう。けど、石崎は嫌い」
「なんでだ?」
「偉そう」
「はは。夏姫の言えた事じゃないだろう」
「ほんとにね。……でも、獅子君も式神と話している時は、口調が強かった気がする」
エレノアは、土地神の洞窟の前で行われた、獅子と式神のやり取りを思いだす。
「ああ。あいつは、雨ノ守の人間として話す時は、いつもあんな感じだよ」
「というか、子供の頃は、あんな感じだったわ」
そんな話をしていると、獅子の祖母、沙苗を始め、六人の人間が入って来る。各名家の当主達だ。
周囲は緊張したように静まる。当主は上座に敷かれた座布団に座ると、エレノア達は向かい側に座らされる。
「さて、あなた方は土地神を殺したと言うけれど、その理由を聞きましょう」
沙苗が代表して尋ねる。
それに対して、獅子が話す。
野球の試合を見学した後、山奥に入って行く人影を見て、嫌な予感がしたこと。
土地神の所に行くと、そこには、妖毒に侵された土地神の姿があったこと。
毒を癒す為に、土地神が封印を不安定化させていたこと。
そして、それを防ぐ為に、殺すしかなかったことを。
「なるほど。では何者が、土地神に妖毒を与えたかが問題ですね」
沙苗は獅子の言葉を聞いて、そう答えた。それに対して、当主の一人が意見する。
「沙苗さん。そう簡単に信じて良いのかね? 俺としては、そこの獅子が自由になる為に、土地神殺しを仕組んだんじゃないかと疑っているんだがね」
「獅子が、封印を解こうとしていると言うことですか? 石崎さん」
「そうだ。獅子にしても、この地にいつまでも繋ぎとめられているのは不本意だろう。だから、土地神を殺して、封印を解こうとしたのではないか」
「そんなわけないだろう。そんなことをすれば、俺は死ぬことになる」
獅子は忌々しげな顔をする。
「果たして、それは本当かな。今まで、封印が解けたことはないんだ。もしかしたら、お前は独自に、自分の助かる方法を見つけていたのかもしれない」
「でも、土地神は、本当に妖毒に侵されていたわ。獅子の性じゃない」
夏姫が反論する。
「ふん。そんなもの、獅子が毒を盛ったのだろう」
「無理よ。獅子は、私達と一緒に居たもの。そんな余裕はなかったわ」
「ならば、お前達もグルなのだろう」
「石崎さん。それは、うちの娘まで疑うと言うことですか?」
日野家の当主である夏姫の父が、厳しい顔で、石崎家の当主を睨む。
「いや、すまん。言い過ぎた」
さすがに日野家まで敵に回すのは得策ではないと思ったのか、石崎の当主は謝った。
「石崎さんは獅子を疑っているようだけれど、少なくとも、こんな手の込んだことをしなくとも、獅子には封印を解くことが出来ますよ。封印の張り直しをしなければ良いだけのことですから」
「それはそうですね。石崎さん。獅子を疑うのは見当違いでしょう」
他の当主達も沙苗の言葉に同意するので、石崎の当主は不本意そうに黙り込む。
「しかし、土地神が狙われたということは、石崎さんの言う通り、何者かが妖怪の封印を解こうとしているのだろう。獅子。封印の状態はどうなっている?」
「今のところは大丈夫だ。今度の封王祭で封印を張り直せば問題はないだろう。けれど、土地神がいなくなった今、封印の長期安定化望めない。毎年の張り直しが必要だろうな」
「そうなのですね。……まぁ、それは特に問題ないでしょう。毎年やれば良いだけのことですから」
「気を付けるべきは、封印を解こうとする者がいるということでしょう」
「そうなると、次に狙われるのは、獅子だろう」
「ならば、屋敷に閉じ込め、護衛を付けるべきではないか?」
石崎の当主がここぞとばかりに言って来る。
「その必要はありません。犯人の目的が封印の解除だと言うのなら、狙って来るのは、封王祭の封印の張り直しの時でしょう。その時ならば、張り直しの為、一時的に封印が緩む。その時以外に獅子を殺したのなら、代わりの封印の子を立てれば良いだけですから」
「まぁ、確かに」
他の当主達は沙苗の説明に納得する。
「しかし、それでは次の封印の子を誰にするかと言う問題が生じるのではないか?」
石崎は食い下がる。
「その時の代わりは、既に用意してありますので。……他に意見は?」
沙苗はそれすらも受け流した。
当主や他の元老院達は、顔を見合わせるが意見が出ない。
「では、私達も暇ではありませんので、本日の話し合いは終わりにいたします」
沙苗の言葉に、元老院の面々は、解散して行く。
「どうして石崎さんは、獅子を目の敵にするのかな?」
エレノアは、獅子を含めた三人の友人で集まると、先程の獅子と石崎の当主とのやり取りを思い返して、首を傾げる。
「あの人は、妖怪が嫌いでね。妖怪を封じている僕のことが嫌いなのさ」
獅子は肩を竦めて苦笑する。
「でも、それって変じゃない?」
獅子は妖怪を封じているだけだ。何故、それを嫌悪しなければならないのだろうか。確かに妖怪と関わりはあるのかもしれないが、人の為にしていることじゃないかとエレノアは思うのだ。
「まぁ、他にも色々」
「獅子。話があります」
沙苗が獅子の言葉の途中で呼びかけてきた。
「ん。沙苗。今行くよ。……悪いけれど、僕はこれで失礼するよ」
「ああ、またな。……気を付けろよ。今度はお前が狙われているんだろ?」
信二が心配したように声をかける。
「大丈夫。私が守るから」
夏姫が力強く言う。
「頼りにしているよ。夏姫」
獅子は嬉しそうだった。
夏姫達と別れ、沙苗と二人で話す為に部屋を変える。
「ごめんなさいね。友達と楽しく話していたのに」
「大丈夫だよ。明日も会えるし」
「ふふ、楽しそうですね」
「そうだね。楽しいよ」
嬉しそうに答える獅子に、沙苗も嬉しそう目を細めるが、すぐに真顔に戻る。
「今回の事件。どう思いますか?」
「おそらく、今回の事件を起こしたのはこの地の人間だろうね。雨ノ守の地の山奥まで、見知らぬ人が来て、誰も気が付かないなんてことはないはずだからね」
「そうですね」
「雨ノ守の人の中には、僕の死を望んでいる人がいるんだな」
獅子はそう思うと、悲しい気持ちになる。昔は、なんでもなかったことなのに。
「……獅子。あなたは夏姫さんが好き?」
急に話題を変えた沙苗。獅子は首を傾げながらも、素直に答える。
「好きだよ」
「どのくらい?」
「沙苗と同じくらいに」
獅子の答えに、沙苗は一瞬、辛そうに顔を歪める。
「……そう。……ふふ。駄目ですね。少し、嫉妬してしまったわ。そんな資格なんてないのに」
「そんなことはないよ」
「いいえ。私は獅子を裏切りました。それで、どれだけあなたを傷付けたことか」
「でも、それは仕方なかったことさ。それに、前にも言ったけれど、僕は沙苗や和馬にも感謝しているんだ。沙苗のおかげで、僕にはこうやって、居場所を得たのだから」
「それは、私の我が儘。獅子と一緒に居たかったから」
「それでもだよ。沙苗のおかげで、僕には友達が出来た。独りぼっちじゃなくなった。それは、沙苗のおかげだ。ありがとう、沙苗」
これは獅子の本心からの言葉。
獅子の感謝の言葉に、沙苗は涙を流す。そして、彼女はそれをそっとふき取ると、見上げて来る。昔と変わらない綺麗な目で。
「……もし、夏姫さんにも選択する時が来たら、彼女があなたを選んでくれたら良いなと私は思うのです」
選択の時。それは近い将来あることだろう。その時までには、自分は全てを話さなければいけないのだろうと、獅子は思う。果たして、話した時、夏姫はどう思うだろうか?
それにもし選ばれたとしても……。
「僕は、人を幸せにする自身はないよ」
「そんなことはありません。私はあなたのおかげで幸せでした。だから、今度は獅子に、幸せになって欲しいのです。その為なら、私はこの命すら投げ打ちましょう」
「……沙苗」
獅子は意固地なまでの彼女の決意を目にして、悲しい気持ちになる。
自分は既に幸せなのだ。沙苗のおかげで。だから、いつ死んでも良いとさえ思っている。
しかし、彼女はそれをわかってはくれない。
あの日、彼女は僕を選ばなかった罪悪感からか、僕を守ろうと必死になり過ぎている。それこそ、自分の心を殺して。
それが、悲しかった。
自分は、沙苗を不幸にしているのではないだろうか?
そんな風に思えてしまうから。