54 彼女と彼の、四年前 其の七
「彼女と彼の、四年前 其の七」
解放された口唇から、差異を感じぬ程度の冷たい空気が入り込んできた。
その空気は肺に満ちて、あたしのなにかを目覚めさせた。
「――― ふざけるなっ! 誰があたしのなかへの浸食を許した!!」
「………」
目の前に立つ黒の男に、己のなかの何かと接触されたことに気付いた。
それは己の在り方に不安を抱いていた少女の頃の京香にとっては、唾棄すべき行為にしか思えなかった。
脆弱ながらも守り続けている小さな心の聖域へと土足で入り込まれた気がした。
ぷつと口から吐き出された黒色の小さな球体が二つ、――男の掌に転がった。
金の瞳の男は言う。
「―――いいだろう、異界の娘。おまえを我の友と呼ぼう」
笑みさえ浮かべて男は言う。
「なあ、友よ。―――― 世界は愛おしいか?」
名を与えられた。
この絆に、名を。
――― 友よ。おまえの罪は重い。
「――――― 私の愛は、ここにはないよ」
探し求めた人はここにはいなかった。
ねえ、姉上さま。
―――あたし、貴女に逢いたいの。
水が鎮まる。
水が鎮まる。
――――変異したそれは、再びこの身の奥で眠りについた。
残ったものはいつもの私。
いつもの。
「―――篠原 京香」
「…それがおまえの名か? 訪問者よ」
呟いた自分の名を、相手は訊いていたらしい。
首を傾げて疑問符をつけて。
世界を隔てても、身ぶり手ぶりは似通っているようだ。
暴走した力が収まり、あたしは本来の姿を取り戻す。
白銀に染まっていた髪は茶色へ。
銀に染まっていた瞳は黒へ。
どこにでもいる、ただの人間の娘が一人。
「そう、これがあたし。――篠原京香よ」
瞳を閉じて己の内面を見据えた。
水は定まり、変容は収束した。
もう異相は生じまい。
「なるほど。―― ただの娘にしか見えんな」
夜の王たる男は呟き、手を差し伸べた。
「わが名はイスラン=アル=ジェイク。第8代目が魔王にして城守。―――この世を見届けるものだ」
笑みは美しかったと思う。
その裏に、どんな思いがあったのだとしても。
―――彼は、美しかった。
「変な…魔王ね」
あたしがそう呟けば。
「安心しろ。―――おまえも十分可笑しな娘だ」
イスランと名乗った男は笑った。
友よ。
友よ。
きみはどこへ向かうのだろう。
わたしはどこへ向かうのだろう。
夜闇のような先の見えぬ場所で。
願わくば。
――― ふたりの進む道が、違わず誤まらぬことを祈ろう。
たとえ、ゆく道が分岐する日がくるのだとしても。
4年の昔。
4イアの昔。
世界を挟んで、向かい合った――二人の物語り。
これは、そんな二人の物語り。