42 彼女と彼の、マイナスイオン 其の四
「彼女と彼の、マイナスイオン 其の四」
ものいわぬ木にもまた微弱な意思のごとき波長があると言われ出したのは、近年のことだ。
もっとも、一〇年どころか一年ひと昔なんていわれるご時勢のことだから。
既に近年などと称することは間違っているのかもしれないが。
【…………来たか……】
「――― わざわざ人を呼び出すほどのことか。禊の宿守よ」
こちらも、それなりに城守の勤めがあるというのに。
不満げに呟いたのは黒髪金目の男。
【………現在、魔城に最も近い人族は……まだあと3日ばかりは……到着出来ぬ場所におる……】
ならば、そこまでも支障はあるまい。
地に根を張り、地上にある全てのものの情報を得ることのできる樹の姿をした別の存在を相手に、第8代魔王イスラン=アル=ジェイクは少しばかりの苛立ちを感じた。
「―――それはそれは。ご考慮頂き光栄だとでもいえばよいか? 《隠名主》どのよ」
隠されたもう一つの存在の名をあげるほどには。
【………これはまた8代どのは剛毅な。……真名ではないとはいえども、彼の方の裏名を呼ぶなど………】
薄皮一枚程度の自我しか持たされぬ我への当てこすりで使うには僭越というもの…。
風が黒雲を呼びだした。
「―――まあよい。……それを渡して貰おう。……このような場所に女子を放置しておくのもあんまりだからな」
イスランは手を差し出した。
その手の先には、背丈の低い若木たちが集って藪となった緑の茂みがあった。
【……………キョカ】
【……………キョカ、寝てる…】
【……………キョカ、ないた】
【……………キョカ、また泣きながら眠った…】
【……………主さま、トリィドルさま。……渡してよい?】
【……………キョカ、このごろよく泣く……何にも言わずに、よく泣く………】
【【【【………キョカ、護ってくれるひとじゃなきゃ渡したくない】】】】
ぴくり、とイスランの差し出した手が震えた。
小さなコダマたちの母体である若木たちが隠しているのはおそらく眠っている少女だろう。
少女とイスランが出会ってから、4年の年月がもう少しで経とうとしている。
今度やってくる、[蓋いの幻日]が訪れたなら。
――――少女がこの世界を訪れるようになって、丸々4年が経つことになる。
「――― いい躾だな。禊の宿守よ」
俺がアレを護らぬとでも言うつもりか、この若木どもは。
少女の友である魔王は笑みを浮かべながら、その双眸を若木に向けた。
魔王の力ある視線を向けられた若木たちが言葉にならぬ悲鳴をあげたことが、禊の宿守である樹王トリィドル=隠=スフガンが感じ取った。
【やめよ、城守!! ……子らは案じただけじゃ!……】
ヌシらのことに触れるつもりで囀ったわけではない!
その根を張る大いなる存在を共に分かつ子供たちを護るために、トリィドルは魔王を制した。
「…ふん。――――わかっているがそれでも不快だ。……宿守、己の仲間が大事なら相手を見定めるだけのことは躾ておけ」
次はないぞ。
【……そうしよう】
イスランの言葉に樹の王は頷いた。
若木たちが樹王の意志に従い、その枝葉を開いた。
眠りについている少女が現れた。
「……またお前は寝たのか。京香」
一体、何がおまえを夢に運んで行くのやら。
呆れながらも、魔王は跪くとその少女の身を抱えた。
宙から取り出した絹布で京香の身を包みながら。
【………8代よ。――――この娘に守護を与えたのはお主じゃな】
樹王が呟いた。
「そうだ」
意識を失った人の身体は、意識のあるときに比べて格段に重い。
そんな少女を腕に抱いたというのにふらつくことなく立つ王は、問いに否定することなく頷いた。
【――― それは、……娘のためか? それとも、この世界のためか?】
今度の問いへの返事は、返されるまでに時間がかかった。
イスランに怯えたコダマたちは何も言わずに沈黙し。
問うた樹王は、もはや紡ぐ言葉を全て言い終えていたから。
唯一、眠る少女の健やかな寝息だけが聞こえた。
「―――決まっているだろう、宿守」
そんな少女の寝顔を見つめた後で、魔王は答えた。
「 全ては、――― 俺のためだ 」
空を覆う黒雲が、この地に到来した。
雨が降る前に。
雷が落ちる前に。
――――― 電子のイオンが分かたれる前に。
お家へ帰りましょう、お嬢さん。
優しい、優しいお家へ帰りましょう。
――――― 誰も泣かない、あなたの安息の場所で。
優しい眠りにつきましょう。
森へは行かないで。
雷を待たないで。
滝の傍では、水がながれている。
誰かが泣いているから。
―――― マイナスのイオンなんて、求めちゃいけないよ。
本日の覚書
◆ トリィドル=隠=スフガン
樹の王。
極地の一つ《禊の宿》の守り。
呼び名は、樹王。樹木の王。宿守。トリィドルさま。感の守り。身さま。
京香は「主さま」と呼んでいる。
『禊の宿』の最大最古の神なる木。
【隠】とのみ呼称される、地の木々のネットワーク化した意思の 統括株。
地に張り巡らされた木々の根によって、この大地の全てを見知っているとされる。
実はとある存在の表面意識にすぎないとされている。《隠名主》と隠語で称される存在は眠りについているとされているし、たぶんずっと眠ってる。(起きられる方が困るので)
ただ、その存在のおかげでトリィドルの意識そのものもまた、いろんなことへの感が発達しており、情報や知識などを多く握ってるとされる。
基本的には、世の中のことには無関心。
京香には興味を抱いている。
好奇心は身を滅ぼすにならないようにお気をつけくださいね、主さま。(苦笑)
実は魔族が生まれる前からの存在だから、御老体なんだぞ。
魔族でも聖なる一族でもない、古族あるいは原族と分類される。
◆コダマ。
若木の意思体。
ミニマム人形。
カタコト喋りが基本だが、たまにそうではないときがあり、京香はひそかにこいつらわざとカタコトやってるだけじゃねえのかなどと勘繰られている。
真相は不明。(笑)