妹に婚約者を譲った令嬢は、その後王妃になった
「お姉様の婚約者を、私にください!」
妹のリリアが、目を輝かせながらそう言った。
私は手にしていた紅茶を静かに置いた。
「……クロード殿下を?」
「はい!」
リリアは嬉しそうに頷く。
「私、クロード様を愛しているのです!」
「そう」
「クロード様も私を愛してくださっています!」
「……そうなのね」
「だから、お姉様には申し訳ないと思っています。でも……」
リリアは両手を胸の前で組んだ。
「愛があれば、きっと何だって大丈夫ですわ!」
「…………」
私は思わず黙り込んだ。
どうやらこの子は本気でそう思っているらしい。
「お父様やお母様が反対しても、二人で頑張ればいいんです!」
「そうね」
「平民になったって構いません!」
「……平民?」
「はい!」
リリアは満面の笑みを浮かべた。
「愛し合っているなら、身分なんて関係ありませんもの!」
私は思わず小さく笑った。
「そう」
「お姉様?」
「なら、譲るわ」
「……え?」
「クロード殿下との婚約」
私は妹をまっすぐ見つめた。
「あなたに譲ります」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ」
「ありがとうございます、お姉様!」
リリアは立ち上がり、嬉しそうに私の手を握った。
「大好きです、お姉様!」
「そう」
「絶対に幸せになりますから!」
「……頑張ってね」
私は微笑んだ。
ただし。
心の中では。
別のことを考えていた。
――ようやく、この時が来た。
私は、ずっとこの日を待っていたのだ。
私の名前はセレスティア・フォン・エルグラン。
エルグラン公爵家の長女。
そしてこの国の第一王子、クロード殿下の婚約者だった。
……昨日までは。
クロードは王太子だった。
次期国王として育てられ。
国内でも最高位の教育を受けていた。
けれど実際のところ。
彼は王になるには、あまりにも未熟だった。
公務を嫌がる。
勉強を嫌がる。
気に入らない臣下には露骨に不機嫌な顔をする。
女性関係も派手だった。
何度も問題を起こし、そのたびに公爵家が裏で処理してきた。
私はその尻拭いを十年以上続けていた。
しかし私には別の使命ができていた。
――クロードの婚約者を辞めること。
そして。
もっと相応しい相手と結ばれること。
実は私は。
すでに別の婚約話を受けていた。
相手は。
隣国ヴァレンシア王国の第一王子。
レオンハルト殿下。
この国より遥かに広大な領土を持ち、軍事力も経済力も桁違い。
大陸でも指折りの大国。
その次期国王だった。
そしてレオンハルト殿下は以前から私に好意を示していた。
数年前。
両国の会談で初めて会ったとき。
彼は私に言った。
『もしあなたが今の婚約者と結ばれることを望んでいないのなら、私はいつまでも待ちます』
私は答えなかった。
まだ。
クロードの婚約者だったからだ。
けれど彼は何度も手紙をくれた。
『急かすつもりはありません』
『あなた自身が決めるまで待ちます』
『もし自由になったときは、私を選んでほしい』
だから私は待っていた。
婚約を破棄できる日を。
その日が来ることを。
ずっと。
そして妹が私の婚約者を欲しいと言った。
正直言って私はまったく知らなかった。
しかし今の私にとってはこれ以上ない機会だった。
「お父様」
「何だ?」
「私、クロード殿下との婚約を解消したいと思います」
父は驚かなかった。
「……ようやくか」
「ご存じだったのですね」
「お前があの王太子を支えるために、どれほど苦労していたかは知っている」
父は深く息を吐いた。
「だが、よく我慢したな」
「もう十分です」
「そうだな」
父は頷いた。
「では、今日からエルグラン公爵家は王太子への支援を終了する」
「はい」
「これからは第二王子が王太子になるだろう」
「リリアはどうしますか?」
「あいつは世間知らず過ぎる。まぁ親の責任だがな。一度痛い目にあえば目を覚ますだろう」
私は笑った。
これで。
終わる。
翌日。
王宮では、クロードとリリアの婚約を発表するための場が設けられた。
クロードは上機嫌だった。
「これで僕は、愛する女性と結ばれる」
リリアも嬉しそうだった。
「はい! 私たちは愛し合っていますもの!」
周囲の貴族たちは。
何とも言えない顔をしていた。
なぜならクロードは王太子。
リリアは公爵令嬢。
だがその婚約が成立するためには、エルグラン公爵家の同意が必要だった。
「では、エルグラン公爵家からの返答を」
国王が言った。
父が一歩前へ出る。
「承知いたしました」
そして。
「エルグラン公爵家は、クロード殿下との婚約解消を正式に受け入れます」
「よし!」
クロードが笑った。
だが。
「同時に」
父は続けた。
「これまで我が家が王太子殿下に提供していた一切の支援を終了いたします」
「…………え?」
クロードの笑顔が止まった。
「何を言っている?」
「そのままの意味です」
「婚約はなくなっても、支援は続けるのだろう?」
「なぜですか?」
「私は王太子だぞ!」
「昨日までは」
父は淡々と言った。
「本日をもって、王太子としての地位も失われることになるでしょう」
「……は?」
広間がざわめいた。
「父上!どういうことですか!」
クロードが国王を見る。
国王は苦い顔をしていた。
「お前の王太子としての地位を剥奪する」
「父上!」
「これまでお前の公務の大半を誰が処理していたと思っている」
「……」
「お前が起こした問題を、誰が解決していたと思う?」
「…………」
「全てエルグラン公爵家、セレスティア嬢の功績だ」
クロードの顔が青ざめた。
「公爵家の支援がなくなれば、お前を王太子として認めることはできん」
「そんな……」
「そして」
国王は第二王子を見る。
「王太子には、第二王子アレクシスを任命する」
広間が大きくどよめいた。
第二王子アレクシス。
優秀で。
勤勉で。
これまで兄の陰に隠れていた王子だった。
「兄上」
アレクシスは静かに頭を下げた。
「これまでお疲れ様でした」
「お前……」
クロードは震える声を出した。
「僕から王太子の座を奪うのか?」
「違います」
アレクシスは答えた。
「兄上が手放したのですよ」
「……!」
クロードは何も言い返せなかった。
「そんな……」
隣では。
リリアが青ざめていた。
「クロード様が王太子ではなくなるなんて……」
クロードはリリアを見る。
「リリア……」
「でも、大丈夫ですわ!」
「……何?」
リリアは笑顔を浮かべた。
「だって私たちは愛し合っていますもの!」
「…………」
「愛があれば、身分なんて関係ありません!ね?クロード様?私は王太子ではなくクロード様と結ばれたいのです!」
クロードは……ゆっくりと頭を抱えた。
昨日妹は言った。
『平民になったって構いません!』
まさか本当にそうなるとは思っていなかったのだろう。
しかし身分では無く本当にクロード殿下に惚れているようだった。一体どこに惚れる要素があったのかは婚約してから十年経った今でも分からない。
セレスティアがそう考え事をしていると国王が告げる。
「クロード」
「はい……」
「お前は王族としての身分も返上し、平民として生きることになる」
「……!」
「王太子としての地位を失った以上、王家の庇護を受けることもできない」
「ま、待ってください!」
リリアが叫んだ。
「それでは私たちは……」
国王は冷たく答えた。
「お前も平民となる」
「!!!」
「過程はどうあれ結果的にエルグラン公爵令嬢から婚約者を奪い、王太子の地位を失わせる結果となった」
「……」
「その責任を取ってもらう」
「そんな……」
リリアは涙を浮かべた。
「私はただ、クロード様を愛していただけなのに……」
「その愛が、二人を平民にしたのだ」
国王が小さく呟いた。
「……分かりました。私はクロード様と結ばれて幸せになります!愛があればやっていけます!」
その日の午後。
私は王宮の庭園にいた。
「セレスティア嬢」
声をかけられて振り返る。
そこにはレオンハルト殿下が立っていた。
「お久しぶりです。なんとか間に合いました」
「はい」
「お手紙ありがとうございます。話は聞きましたよ」
「そうですか」
「あなたの婚約が正式に解消されたと」
「ええ」
レオンハルトは笑った。
「では」
「はい」
「ようやく、私の番ですね」
「……」
私は思わず笑ってしまった。
「お待たせしました」
「長かったです」
「申し訳ありません」
「いいえ」
レオンハルトは首を横に振った。
「あなたが決断するまで待つと決めたのは私ですから」
そして彼は私の前で跪いた。
「セレスティア・フォン・エルグラン公爵令嬢」
「はい」
「私、レオンハルト・フォン・ヴァレンシアは、あなたとの婚姻を正式に申し込みます」
私はゆっくりと彼の手を取った。
「喜んで、お受けいたします」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「……本当に?」
「はい」
私は微笑む。
「私も、あなたをずっと待っていましたから」
「……」
レオンハルトが目を丸くした。
「それは初耳です」
「言っていませんでしたもの」
「では」
彼は立ち上がった。
「これからは、私があなたを幸せにします」
「期待しています」
「必ず。この後公爵様へご挨拶に行かせてください」
「はい、喜んで」」
私は青い空を見上げた。
長かった。
本当に。
長かった。
けれど。
ようやく。
この時が来た。
それから数か月後。
私とレオンハルト殿下の婚約が正式に発表された。
隣国ヴァレンシア王国。
この国より圧倒的に大きく。
豊かで。
強大な国。
その第一王子の婚約者となった私は瞬く間に社交界の注目を集めた。
「まさか、エルグラン公爵令嬢が……」
「隣国の王太子妃になるのか」
「いや、将来は王妃だ」
「それにしても……」
人々は口々に噂した。
婚約者を妹に奪われた令嬢が。
なぜこんなにも幸せそうなのか。
答えは簡単だった。
私は、奪われてなどいなかったから。
その頃。
平民となったクロードとリリアは。
王都の片隅で暮らしていた。
「こんなの……」
リリアは質素な部屋を見回した。
「私が思っていた生活と違いますわ……」
クロードは何も答えなかった。
「クロード様」
「……何だ」
「愛があれば……大丈夫ですよね?」
クロードは長い沈黙の後、疲れ切った顔で答えた。
「……そうだといいな」
けれど二人の生活は、決して楽ではなかった。
働かなければ食べていけない。
失敗しても誰も助けてくれない。
以前ならエルグラン公爵家が後始末をしてくれた。
今は誰も助けてくれない。
それでもリリアは自分に言い聞かせる。
「私たちは愛し合っていますもの」
それが唯一の支えだった。
一年後。
ヴァレンシア王国。
私は王妃となった。
大勢の臣下が頭を下げる。
「王妃陛下、こちらの書類にご署名を」
「分かりました」
隣には国王となったレオンハルトがいる。
「セレス」
「はい?」
「疲れていないか?」
「大丈夫です」
「無理はしないでくれ」
「ありがとうございます」
私は笑う。
以前の私なら、誰かの失敗を補うために笑っていた。
今は違う。
この人と、この国のために自分の意思で働いている。
それが何より嬉しかった。
ある日の夜。
レオンハルトと二人きりで王宮の庭園を歩いていると、彼がふと尋ねた。
「セレス」
「はい?」
「今でも、昔のことを後悔することはある?」
「ありません」
即答だった。
「本当に?」
「はい」
私は笑った。
「あの日、妹が私の婚約者を欲しいと言ってくれて」
「ああ」
「私はずっと待っていた人のところへ来られましたから」
「……」
「だから、むしろ感謝しています」
レオンハルトが笑う。
「では、私からも感謝しないといけませんね」
「何にですか?」
「あなたの妹に」
「ふふっ」
二人で笑った。
夜空には星が輝いている。
あの日。
妹は言った。
『お姉様の婚約者を、私にください』
私は快く譲った。
だって私には。
もっと大切な人がいたから。
もっと大きな未来が待っていたから。
そして何より。
私は知っていた。
クロードが王太子でいられたのは彼自身の力だけではなかったことを。
私たち公爵家の支援がなくなれば、彼には何も残らない。
だから妹が望んだとき。
私は笑って譲った。
そして。
私は婚約者を失った令嬢ではなく。
未来の王妃としての人生を歩み始めた。
奪われたのではなく、捨てたのだ。
自分を幸せにしてくれない未来を。
そして。
ようやく手に入れた。
私がずっと望んでいた未来を。
私は隣にいる愛する人を見上げた。
「レオンハルト様」
「どうした?」
「これからも、よろしくお願い致します」
「ああ」
彼は私の手を握る。
「こちらこそ」
私は微笑んだ。
そして心の中で。
あの日からずっと待っていた言葉を。
もう一度だけ思い浮かべた。
――この時を。
ずっと待っていました。
今度こそ。
私の人生を。
私自身の幸せのために、生きていこう。
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