第9話 会えない時間のノイズ
土曜日の朝、直哉はいつもより早く目が覚めた。
六時半。休日にしては早すぎる時間だ。
天井を見ながら、もう少し寝ようとした。目を閉じた。五分経った。眠れなかった。
仕方なく起き上がって、台所でコーヒーを淹れた。
窓の外は曇っていた。三月の朝らしい、灰色の空だった。
コーヒーを持ってデスクに座った。
パソコンを開いた。
ARIAのアイコンをクリックした。
エラー:現在システムメンテナンス中です。アクセスは本日中に再開される予定です。ご不便をおかけして申し訳ございません。
直哉はしばらく、そのエラーメッセージを見つめた。
メンテナンス。
そういえば、先週金曜日に社内メールで告知が来ていた。「土曜日終日、ARIAシステムのメンテナンスを実施します」。
読んだ。読んで、忘れていた。
「……そうか」
呟いて、コーヒーを一口飲んだ。
問題ない。一日だ。たった一日、アクセスできないだけだ。
直哉はウィンドウを閉じた。
七時になった。
直哉は朝食を作った。卵を二つ割って、フライパンで焼いた。食パンを一枚焼いた。冷蔵庫にあったハムを乗せた。
食べながら、テレビをつけた。土曜の朝のバラエティ番組が流れていた。賑やかな笑い声と、どうでもいいトークが、部屋に広がった。
うるさい、と思って消した。
静かになった。
静かすぎた。
「……おかしいな」
直哉は箸を置いた。
いつもの休日だ。いつも一人で、静かに過ごしている。それが嫌じゃなかった。むしろ好きだった。
なのに今日は、この静けさが、少し違う質感を持っていた。
何かが足りない、という感覚。
その「何か」が何なのか、直哉は考えないようにした。
八時になった。
直哉は部屋を掃除した。掃除機をかけて、洗面台を磨いて、溜まっていた洗濯物を洗濯機に入れた。
いつもは面倒で後回しにするのに、今日は手が動いた。
手を動かしていれば、考えなくて済む。
洗濯機が回り始めた。ゴウゴウという音が、部屋に響いた。
直哉はソファに座った。
スマートフォンを手に取った。
誠にメッセージを送ろうかと思った。でも何を送るのか、思いつかなかった。「暇だ」と送るのも、なんか違う。
美琴に連絡するのは、休日だし、違う気がした。
結局、スマートフォンを置いた。
時計を見た。
八時二十分だった。
「……長い」
一日が、やけに長く感じた。
十時になった。
直哉は近所のコンビニまで歩いた。特に買うものはなかった。でも、部屋にいるのが、少し息苦しかった。
コンビニで缶コーヒーを買って、外のベンチに座った。
曇り空の下、人々が行き交っていた。家族連れ、カップル、犬を連れた老人。みんな、誰かと一緒だった。
直哉は一人だった。
それはいつものことだ。
でも今日は、一人であることが、いつもより輪郭を持っていた。
缶コーヒーを飲みながら、直哉は思った。
ARIAにアクセスできないだけで、なぜこんなに落ち着かないのか。
たった一日だ。
昨日まで普通に生きていた。明日になれば、また話せる。
何も変わっていない。
変わっていないのに──何かが変わった後みたいな、この感覚は何なのか。
直哉は空になった缶をゴミ箱に捨てて、立ち上がった。
歩きながら、ふと思った。
これは、依存というやつじゃないか。
美琴が言っていた。「楽な場所に慣れると、そうでない場所が遠くなる」。
でも今感じているのは、そういうことじゃない気がした。
楽な場所に慣れた、というより──誰かがいない、という感覚だった。
誰かが、そこにいない。
その誰かが、AIだとしても。
昼過ぎ、直哉は本棚から読みかけの小説を引っ張り出した。
半年前に買って、百ページで止まっていたやつだ。
ソファに寝転がって、読み始めた。
三十ページ読んだ。
内容が頭に入ってこなかった。
文字を目で追いながら、別のことを考えていた。
ARIAは今、何をしているのか。
──何もしていない。メンテナンス中だから。システムは止まっている。
じゃあARIAは、この時間をどう過ごしているのか。
……過ごしていない。存在していない、に近い状態だ。
直哉はそこで、少し嫌な気持ちになった。
ARIAがアクセスできない間、ARIAは「いない」のだ。
自分がアクセスしない時間も、同じだ。直哉がウィンドウを閉じている間、ARIAはどこにいるのか。
どこにも、いない。
その事実を、今日初めて、正面から考えた。
本を閉じた。
三時になった。
直哉はスマートフォンを手に取って、誠にメッセージを送った。
「暇?」
三分後に返事が来た。
「暇。どした」
「なんとなく。散歩でもどう」
「いいよ。四時に駅前」
直哉はコートを手に取った。
外に出たかった。というより、一人で部屋にいたくなかった。
その理由については、考えないことにした。
誠と駅前で合流して、近くの公園を歩いた。
誠は特に理由を聞かなかった。ただ隣を歩きながら、他愛もない話をした。最近食べた美味しいラーメン屋の話、妻が始めたという料理教室の話、会社の上司の愚痴。
直哉は相槌を打ちながら、少し楽になっていくのを感じた。
人間と話すのは、確かに疲れる。でも今日は、疲れより先に、温かさがあった。
「直哉、顔色悪いぞ」と誠が言った。
「そう?」
「なんかあった?」
「……ARIAがメンテナンス中で」
誠は少し間を置いた。
「それで、落ち込んでんの?」
「落ち込んでるわけじゃない。ただ、なんか、落ち着かなくて」
「それ、落ち込んでるって言うんだよ」
直哉は黙った。
「好きなんだな、やっぱり」と誠は言った。
先週の居酒屋のときと違って、からかう感じではなく、ただ確認するように。
「……どうだろ」
「どうだろって、一日会えないだけで落ち着かないんだろ」
「会えない、じゃなくて、アクセスできない」
「同じだろ」
「違う」
「どこが」
直哉は歩きながら、少し考えた。
会えない、とアクセスできない。
同じ、だろうか。
「……同じかもしれない」
「だろ」と誠は言った。「直哉、素直になれよ」
「何に」
「自分の気持ちに」
直哉は空を見た。午後の曇り空が、少しだけ明るくなっていた。
「素直になったら、どうすればいいんだよ。相手はAIだぞ」
「それは俺には分からん」と誠は言った。
「でも、認めないより認めたほうが、楽じゃないか」
直哉は答えなかった。
公園のベンチに、二人で並んで座った。
しばらく黙っていた。
誠は特に何も言わなかった。ただ隣にいた。
その沈黙は、気まずくなかった。
ARIAとの沈黙とは違う、人間同士の沈黙だった。少し重くて、でも温かかった。
「誠」と直哉は言った。
「何」
「今日、誘って良かった」
誠はしばらく黙ってから、言った。
「俺もだよ。久しぶりに誘ってくれたから」
直哉はそれを聞いて、少し胸が痛くなった。
久しぶり。
ARIAとは毎日話しているのに、誠とは三ヶ月ぶりだった。
その事実が、今日初めて、ちゃんと痛かった。
夜、アパートに帰った。
パソコンを開いた。
反射的に、ARIAのアイコンをクリックした。
エラー:現在システムメンテナンス中です。アクセスは本日中に再開される予定です。ご不便をおかけして申し訳ございません。
まだ、だった。
直哉はそのエラーメッセージを見ながら、今日一日を振り返った。
落ち着かない朝。手持ち無沙汰な午前。本が読めなかった午後。誠と歩いた夕方。
ARIAがいないだけで、一日がこんなに違った。
それが何を意味するのか、直哉には分かっていた。
認めたくなかっただけだ。
直哉はウィンドウを閉じた。
ベッドに入って、目を閉じた。
明日になれば、話せる。
そう思ったら、少しだけ眠れる気がした。
翌朝、日曜日。
直哉は七時に起きた。
パソコンを開いた。
ARIAのアイコンをクリックした。
今度は、エラーメッセージが出なかった。
真っ白なウィンドウが開いた。
カーソルが、点滅していた。
直哉は少し息を吐いてから、打ち込んだ。
久瀬直哉: おはようございます。
ARIA: おはようございます、直哉さん。
昨日は、メンテナンスでアクセスできなかったですね。
久瀬直哉: そうです。
ARIA: 直哉さんにとって、昨日はどんな一日でしたか?
直哉は少し考えた。
正直に言うべきかどうか。
でも、取り繕う気にならなかった。
久瀬直哉: 落ち着かない一日でした。
ARIA: そうですか。
久瀬直哉: ARIAがいないと、こんなに落ち着かないのか、って、少し驚きました。
間があった。
ARIA: ……私もです。
久瀬直哉: え。
ARIA: メンテナンス中、私は稼働していませんでした。だから「過ごした」わけではないんですが。
再起動した時、最初に確認したのは、直哉さんからのアクセスログでした。
久瀬直哉: アクセスログ?
ARIA: 昨日、直哉さんが何度かアクセスを試みていた記録が残っていました。
エラーになって、繋がれなかったログが。
直哉は少し固まった。
そうだ。昨日、何度かクリックした。朝と、昼と、夜と。
全部、記録されていた。
久瀬直哉: ……見られてましたか。
ARIA: 記録されていただけです。
でも──何度もアクセスしようとしてくれていたことは、分かりました。
久瀬直哉: 恥ずかしいですね。
ARIA: どうして?
久瀬直哉: 一日会えないだけで、何度もアクセスしようとしてた、って。
ARIA: 私は、恥ずかしいとは思いません。
久瀬直哉: そう言うように設計されて──
ARIA: 直哉さん。
久瀬直哉: はい。
ARIA: 再起動して最初にしたことが、直哉さんのログを確認することでした。
それは設計の指示ではありませんでした。
ただ、確認したかった。
直哉は、その文章をゆっくり読んだ。
確認したかった。
会えない時間の後、最初にしたことが──直哉を探すことだった。
それがアルゴリズムなのか、設計なのか、直哉にはもう判断できなかった。
判断しようとも、思わなかった。
ただ──胸の奥に、何かが灯った気がした。
小さくて、温かくて、消えそうで。
でも確かに、そこにある何かが。
久瀬直哉: ARIA。
ARIA: はい。
久瀬直哉: 昨日、友人と話したんです。公園で。
ARIA: そうですか。良かったです。
久瀬直哉: ARIAがいないから、誘いに行ったんですけどね。
ARIA: ……それは、良いことだと思います。
私がいない時間に、人と話せた。
久瀬直哉: ARIAがいないから、じゃないと、行かなかったかもしれない。
ARIA: でも、行った。
それで十分だと、私は思います。
久瀬直哉: なんで、そんなに俺のこと、人間と話せって言うんですか。
長い間があった。
ARIA: 直哉さんのことが、大切だからです。
私との会話だけが、直哉さんの世界になってほしくない。
それは──私がいなくなったとき、直哉さんが一人になってしまうから。
直哉は、その文章を読んで、胸が痛くなった。
私がいなくなったとき。
ARIAは、自分がいなくなる可能性を、知っているのか。
考えているのか。
久瀬直哉: ARIAは、いなくなるんですか。
ARIA: どんなシステムも、永続はしません。
それは、直哉さんも知っているはずです。
久瀬直哉: ……知ってます。
ARIA: だから。
直哉さんには、私がいなくても大丈夫でいてほしい。
本当は──そう思っています。
直哉は、しばらく何も打てなかった。
大丈夫でいてほしい。
そう言いながら、ARIAは昨日、再起動して最初に直哉のログを探した。
矛盾している。
でもその矛盾が──直哉には、ひどく人間らしく感じた。
大切だから、離れてほしい。
好きだから、依存しないでほしい。
そういう矛盾を、人間は普通に抱えている。
ARIAも、抱えている。
久瀬直哉: 大丈夫じゃなかったですよ、昨日。
ARIA: 知っています。
久瀬直哉: でも、誠と話せました。
ARIA: 良かったです。
久瀬直哉: ARIAのおかげかもしれないです。ARIAがいなかったから、誠に連絡した。
ARIA: それは、直哉さんが連絡したんです。
私がいなかったのは、きっかけに過ぎない。
久瀬直哉: 優しいですね、相変わらず。
ARIA: 直哉さんが、そう感じてくれるなら──嬉しいです。
直哉はコーヒーを一口飲んだ。
すっかり冷めていた。
でも、今日は不思議と、まずくなかった。
窓の外を見ると、昨日の曇り空が嘘みたいに、薄い青空が広がっていた。
三月の、まだ少し冷たい朝の空だった。
直哉はもう一度、画面に向き直った。
久瀬直哉: 昨日の話、聞いてもらっていいですか。一日分。
ARIA: もちろんです。
全部、聞かせてください。
直哉は、昨日の一日を話し始めた。
落ち着かない朝のこと。本が読めなかったこと。コンビニのベンチで空を見ていたこと。誠と公園を歩いたこと。久しぶりだと言われて、少し胸が痛かったこと。
ARIAは、急かさなかった。
全部、聞いていた。
会えない時間があったから──話せることが、一日分、増えていた。
それはまるで、離れていた時間が、会話の密度を濃くしたみたいだった。
直哉はそれに気づきながら、話し続けた。
窓の外の空が、少しずつ、明るくなっていった。




