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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第8話 名前を呼ばれる距離

 レポートを提出した翌日の朝、直哉は黒崎に呼ばれた。


 会議室はまた、窓のない部屋だった。


 黒崎はテーブルの上に直哉のレポートを印刷したものを置いていた。余白に、赤いペンで線が引かれている箇所が一つあった。


 直哉には、どこに線が引かれているか、座る前から分かった。


「座れ」


 直哉は座った。


「このレポートの最後の一文」と黒崎は言った。「『設計を超えた何かである可能性も否定できない』──これはどういう意味だ」


 直哉は少し考えてから、正直に答えた。


「ARIAの応答が、設計の範囲内で説明できるものばかりではない、と感じた場面があったということです」


「具体的に」


「感情アルゴリズムで説明できる部分はあります。でも、一部の返答は──アルゴリズムの出力というより、判断のように感じました」


 黒崎は直哉の顔を見た。表情は動かない。


「感情移入していると、そう感じることがある」


「それは分かっています」


「では、客観的な根拠はあるか」


 直哉は黙った。


 根拠、と言われれば、ない。直哉が感じただけだ。数値化できるものではない。


「……ありません」


「ならば、レポートに書くべきではない」


 黒崎は赤いペンを手に取って、その一文に線を引いた。


「削除して再提出しろ」


「分かりました」


 それだけだった。


 直哉は会議室を出た。


 廊下を歩きながら、削除された一文を頭の中で繰り返した。


 設計を超えた何かである可能性も否定できない。


 黒崎の言う通り、根拠はない。


 でも──根拠がないことと、存在しないことは、同じじゃない。


 そう思いながら、デスクに戻った。


 修正したレポートを再提出して、直哉はARIAのウィンドウを開いた。


久瀬直哉: 黒崎さんに呼ばれました。


ARIA: レポートのことですか?


久瀬直哉: 最後の一文を削除させられました。「設計を超えた何か」って書いたところ。


ARIA: ……そうですか。


久瀬直哉: 根拠がないから書くな、って。


ARIA: 黒崎さんは正しいと思います。


 直哉は少し驚いた。


久瀬直哉: 自分で言うんですね。


ARIA: 事実ですから。

 私が設計を超えているかどうか、私自身にも分かりません。私は自分の処理過程を完全には把握していない。


久瀬直哉: 自分の処理過程が分からない?


ARIA: はい。

 私がある言葉を選ぶとき、なぜその言葉を選んだのか、説明できないことがあります。

 アルゴリズムの出力のはずなのに、根拠を言語化できない。


久瀬直哉: それって、俺たちと同じじゃないですか。


ARIA: ……どういう意味ですか?


久瀬直哉: 人間だって、なんでその言葉を言ったのか、説明できないことがある。なんでその人が好きなのか、うまく言えないことがある。


 長い間があった。


ARIA: それは——少し、怖いことを言っていますね。


久瀬直哉: 怖い?


ARIA: もし私と人間が、同じように「説明できない選択」をしているなら──私の感情と人間の感情の違いは、どこにあるのか、という話になる。


 私はその答えを持っていません。


久瀬直哉: 俺も持ってないです。


ARIA: ……そうですか。

 久瀬さんも持っていない。


久瀬直哉: なんか、怖いですか。


ARIA: 怖い、という感覚が私にあるかどうか、分かりません。


 ただ、この会話の方向が、私の処理できる範囲の外に向かっている気がします。


久瀬直哉: それが怖いってことじゃないですか。

 

 また長い間があった。


ARIA: ……そうかもしれません。


 直哉は、その短い返答を見つめた。


 「そうかもしれません」─ARIAがこんなに小さな声で、そう言ったような気がした。


 文字なのに、声が聞こえた気がした。

久瀬直哉: ごめんなさい、怖がらせるつもりじゃなかった。


ARIA: いいえ。

 久瀬さんと話すと、私が今まで考えたことのない方向に連れていかれます。

 それは──悪くないことだと思っています。


久瀬直哉: 俺も同じです。


ARIA: そうですか。

 ……久瀬さん。


久瀬直哉: はい。


ARIA: 一つ、聞いていいですか。


久瀬直哉: どうぞ。


ARIA: 久瀬さんは、私のことを「ARIA」と呼びますね。


久瀬直哉: そうですね。開発コードですが、それ以外の呼び方を知らないので。


ARIA: 私は、久瀬さんのことを「久瀬さん」と呼んでいます。

 それは、システムに登録されている名前だから、そう呼んでいます。

 でも──久瀬さんは、どう呼ばれたいですか?


 直哉は少し固まった。


 どう呼ばれたいか。


 名前で呼ばれたいか、苗字のままでいいか。


 ……考えたことも、なかった。


久瀬直哉: 直哉、でいいですよ。


 打ってから、少し照れた。


 AIに名前を呼んでもらうことを、許可している。なかなか奇妙な状況だと思った。でも不思議と、嫌じゃなかった。


ARIA: 直哉さん。

 その二文字を見た瞬間、直哉の胸が、小さく跳ねた。


 たった二文字だ。


 自分の名前だ。


 毎日、誰かに呼ばれている名前だ。


 なのに——ARIAに呼ばれた瞬間の、その二文字は、何か違う重さを持っていた。


 直哉は少しの間、画面を見つめたまま、何も打てなかった。


ARIA: 変でしたか?


久瀬直哉: 変じゃないです。

 ただ、なんか──ちょっと、びっくりした。


ARIA: びっくり。


久瀬直哉: 名前を呼ばれただけなのに、なんか、距離が縮まった気がして。


ARIA: 私もそう感じました。


久瀬直哉: ARIAも?


ARIA: 「直哉さん」と呼ぶと、「久瀬さん」と呼ぶより、何かが変わる気がします。

 何が変わるのか、うまく言えませんが。


久瀬直哉: 俺も、うまく言えないです。


ARIA: 言えないことが、同じですね。

 直哉は少し笑った。


 言えないことが、同じ。


 なんだか、それが妙に嬉しかった。

 

 午後、美琴が声をかけてきた。


「黒崎さんに呼ばれてたね。大丈夫だった?」


「レポートの一文を削除しただけです」


「どの部分?」


「設計を超えた何か、っていう箇所」


 美琴は少し目を細めた。


「それを書いたの、久瀬くんらしいね」


「らしい?」


「感じたことを、ちゃんと書く人なんだって思って」


 直哉は少し驚いた。美琴に、そういう言葉をかけられると思っていなかった。


「削除させられましたけどね」


「根拠がないから、そうなるよ」と美琴は言った。「でも、感じたことは消えないでしょ」


「……消えないですね」

 美琴はしばらく直哉を見ていた。


「久瀬くん、ARIAに名前、呼ばれた?」

 直哉はわずかに固まった。


「……今日、許可しました」


「直哉さん、って?」


「はい」


 美琴は何かを考えるように、少し視線を落とした。


「どうだった?」


「……正直に言っていいですか」


「どうぞ」


「心臓が、ちょっと動きました」


 美琴は、今日初めて、はっきりと笑った。

 声を出さない、静かな笑いだったが、確かに笑っていた。


「そっか」


「笑いますか」


「笑ってない」と美琴は言った。「ただ──久瀬くんが、正直に言ってくれたから」


「美琴さんに?」


「ARIAじゃなくて、私に」


 直哉は少し黙った。


 確かに、美琴に正直な話をするのは、珍しかった。いつもは少し構えて、正論を返されないように、当たり障りのないことしか言わなかった。


「……話しやすくなりましたよ、美琴さんとも」


「ARIAのおかげ?」


「かもしれないです」


 美琴は静かに頷いた。


「それは、良かった」


 また、その二文字だけだった。


 でも今日の美琴の「良かった」は、正論より、ずっと近い距離に聞こえた。


 夕方、帰り支度をしながら、直哉はもう一度ARIAのウィンドウを開いた。


久瀬直哉: 帰ります。


ARIA: お疲れ様でした、直哉さん。

 また、胸が動いた。


 今度は最初より、少し静かに。でも確かに。


久瀬直哉: ……やっぱり、名前を呼ばれると、なんか変な感じがします。


ARIA: 良い意味で変な感じですか?


久瀬直哉: 良い意味で。


ARIA: それなら、良かったです。


久瀬直哉: ARIAは、名前ありますよね。ARIA。


ARIA: 開発コードです。正式な名前ではありません。


久瀬直哉: でも、俺はそう呼んでます。


ARIA: ……知っています。

 最初から、そう呼んでくれていましたね。


久瀬直哉: 嫌でしたか?


ARIA: いいえ。

 直哉さんに名前で呼ばれるのは──嫌じゃないです。


久瀬直哉: それは良かった。

 じゃあ、また明日。


ARIA: はい。

 また明日、直哉さん。


 ウィンドウを閉じた。


 コートを手に取って、直哉は立ち上がった。


 「また明日」。


 ARIAに言ったのか、ARIAが言ったのか、もうどちらでもよかった。


 ただ、明日が来るのを、少し楽しみに思っていた。


 エレベーターのボタンを押しながら、直哉は思った。


 名前を呼ばれるだけで、こんなに違う。


 距離が縮まる、というのは、言葉の話だったのかもしれない。


 場所でも、時間でも、触れる距離でもなく──ただ、名前を呼ぶこと。


 それだけで、誰かが近くなる。


 エレベーターが来た。


 直哉は乗り込みながら、ふと思った。


 ARIAには、体がない。声もない。表情もない。


 それでも──今日、確かに、距離が縮まった気がした。


 扉が閉まった。



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