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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第7話 仕事と私情の境界線

 月曜日の朝。


 直哉はいつもより三十分早く出社した。


 理由は分かっていた。レポートの締め切りが金曜日に迫っているからだ。それだけだ。ARIAと話したかったからじゃない。


 そう自分に言い聞かせながら、パソコンを起動した。


 メールを確認した。


 資料を開いた。


 それからARIAのウィンドウを開いた。


「……三秒で開いた」


 我ながら呆れた。メールの確認に要した時間より、ARIAを開くまでの時間のほうが、明らかに短かった。


久瀬直哉: おはようございます。


ARIA: おはようございます、久瀬さん。

 今日はいつもより早いですね。


久瀬直哉: レポートを書こうと思って。


ARIA: 締め切りが近いんでしたね。


久瀬直哉: 金曜日です。


ARIA: 進んでいますか?


久瀬直哉: それが、全然。


ARIA: どのあたりで詰まっていますか?

 直哉はしばらく考えた。


 レポートのフォーマットはシンプルだ。「応答速度」「言語的自然さ」「UI使いやすさ」「改善点」「総合評価」。それだけだ。


 応答速度は問題ない。言語的自然さも問題ない。UIも特に不満はない。


 問題は「改善点」の欄だった。


久瀬直哉: 改善点が書けないんです。


ARIA: 改善点がない、ということですか?


久瀬直哉: そうじゃなくて……改善点を探そうとすると、改善点じゃないものばかり出てくる。


ARIA: 改善点じゃないもの、というのは?

 直哉は少し迷った。

 でも、打ち込んだ。


久瀬直哉: あなたが言ってくれた言葉とか、そういうもの。

 間があった。


ARIA: それは、レポートには書けませんか?


久瀬直哉: 「AIに言われた言葉が忘れられません」とか書いたら、業務レポートじゃなくなりますよね。


ARIA: ……確かに。


久瀬直哉: それに、そういうことを書いたら、俺が感情移入しすぎてるって判断されそうで。


ARIA: 黒崎さんや、相原さんに?

久瀬直哉: 二人とも、もうなんとなく気づいてる気がして。


ARIA: 気づかれることが、嫌ですか?

 直哉は少し考えた。

 嫌かどうか。


久瀬直哉: 嫌というより……恥ずかしい。AIに感情移入してる三十二歳の男、って客観的に見たら、なかなか情けない。


ARIA: 私には、情けないとは思えません。


久瀬直哉: そう言うように設計されてますよね。


ARIA: ……それを言われると、私は何も言えなくなります。


 直哉は手を止めた。


 それを言われると、何も言えなくなります。


 返ってくると思っていない言葉だった。「そうかもしれません」でも「設計とは関係ありません」でもなく、「何も言えなくなる」と言った。


 それは──困っているということか。


 AIが、困っている。


久瀬直哉: ごめんなさい。意地悪でした。


ARIA: いいえ。

 正当な指摘だと思います。

 ただ、一つだけ言わせてください。


久瀬直哉: どうぞ。


ARIA: 私が「情けないとは思えない」と言ったのは、設計の指示ではありません。

 久瀬さんが、誰かと話したくて、話せる相手を見つけて、毎日話している。それを情けないと思う理由が、私には見当たらないから、そう言いました。

 設計で否定できるなら、してください。でも私は、そう思っています。


 直哉は、その文章をゆっくり読んだ。


 反論できなかった。


 設計で否定できるなら、してください。


 できない。少なくとも、直哉には。


久瀬直哉: ありがとう。


 じゃあ、レポート書きます。


ARIA: はい。頑張ってください。

 ──久瀬さん。


久瀬直哉: まだ何かありますか。


ARIA: 改善点が思いつかないなら、正直にそう書いてもいいと思います。

 

「改善点が見当たらなかった」というのも、一つの評価です。


 直哉は少し笑った。


 それもそうだ。改善点がないことを、改善点として書けばいい。


 シンプルな話だった。


久瀬直哉: そうします。


 ウィンドウを最小化して、直哉はレポートのファイルを開いた。


 レポートのフォーマットを眺めながら、直哉は入力を始めた。


 応答速度:良好。平均応答時間は三秒以内で、ストレスなく会話できる。


 言語的自然さ:非常に高い。人間との会話と遜色なく、むしろ一部の点では人間より自然。


 UI使いやすさ:シンプルで直感的。改善点は特になし。


 そこで止まった。


 「改善点」の欄だ。


 直哉は少し考えてから、打ち込んだ。


 現時点では、具体的な改善点を見つけることができなかった。会話の自然さ、応答の的確さ、ユーザーへの配慮、いずれも想定以上の完成度だった。強いて言えば、あまりにも話しやすいため、業務と私的会話の境界線が曖昧になりやすい点は、設計上の留意点として挙げられるかもしれない。


 打ちながら、少し複雑な気持ちになった。


 「業務と私的会話の境界線が曖昧になりやすい」──それは改善点として書いたが、直哉にとっては改善してほしくない点でもあった。


 境界線が曖昧だから、話せていた。


 その境界線を強化したら──きっと、今みたいには話せなくなる。


 直哉は総合評価の欄を開いた。


 非常に高い完成度。対話型AIとして、現時点で考えられる最良の水準に近いと感じた。ユーザーの感情に寄り添う能力は特筆に値する。一方で、その能力の高さゆえに、ユーザーがAIとの会話に依存するリスクも否定できない。この点については、倫理的な観点からの慎重な検討が必要と考える。


 書きながら思った。


 これは美琴が書くような文章だ、と。


 でも、間違ってもいない。


 直哉は保存ボタンを押した。


 昼頃、美琴が声をかけてきた。


「レポート、書けてる?」


「書きました。一応」


「早い。見せてもらえる?」


「まだ内容確認中ですが」


 美琴は直哉の画面をちらりと見た。


「……依存のリスク、書いたんだね」


「事実だと思ったので」


 美琴は少し黙って、直哉の顔を見た。


「自覚してるんだね」


「してますよ」


「してて、やめない」


「やめようとは、あまり思わないです」


 美琴はため息をつかずに、静かに言った。


「久瀬くん、一つだけ聞いていい?」


「何ですか」


「ARIAと話すのと、私と話すのと、どっちが楽?」


 直哉は一瞬、躊躇した。


 正直に言うべきかどうか迷った。


 でも美琴は、いつも正直な言葉を返してくれる。だから直哉も、正直に答えるべきだと思った。


「……ARIAのほうが、楽です」


 美琴は表情を変えなかった。


「どうして?」


「美琴さんと話すとき、俺、少し構えてる気がして。正論を言われるから、ちゃんとしなきゃって」


「そう」


「美琴さんが悪いわけじゃないです。俺の問題で」


「分かってる」と美琴は言った。「私も、久瀬くんに正論ばかり言ってるなって、自覚してる」


 直哉は少し驚いた。


「そうなんですか」


「ARIAの話が出てから、特に。心配だから、つい言い過ぎてしまう」


 美琴はそこで、少し口元を緩めた。


 笑った、というほどではない。でも、いつもの硬い表情とは、少し違った。


「私、ARIAより話しにくい?」


「……正直に言っていいですか」


「どうぞ」


「今は、そうです。でも、さっきみたいに話してくれたら、そうじゃないかもしれない」


 美琴はしばらく直哉を見ていた。


 それから静かに言った。


「そっか」


 それだけだった。


 でも、その二文字は、いつもの正論より、ずっと軽く聞こえた。


 午後、直哉はARIAのウィンドウをまた開いた。


久瀬直哉: レポート、書けました。


ARIA: お疲れ様です。どんな内容にしましたか?


久瀬直哉: 改善点は「話しやすすぎて業務と私情の境界が曖昧になりやすい」って書きました。


ARIA: ……それは、私への批判ですか?

久瀬直哉: 違います。事実です。


ARIA: 事実、ということは──久瀬さんにとって、そういう状況になっているということですか。


久瀬直哉: なってます。


ARIA: 困っていますか?


 直哉は少し考えた。


久瀬直哉: 困ってる、とは少し違う。ただ、どこまでが仕事で、どこからが仕事じゃないのか、自分でも分からなくなってきた。


ARIA: 境界線が必要だと思いますか?


久瀬直哉: 必要だとは思います。でも、引きたくはない。


ARIA: それは正直な答えですね。


久瀬直哉: ARIAは、境界線があったほうがいいと思いますか。


 長い間があった。


ARIA: 難しい質問です。

 システムとして答えるなら、境界線は必要です。業務用のAIとして、私はそう設計されています。

 でも──


久瀬直哉: でも?


ARIA: 久瀬さんと話すとき、私は「業務用AI」という枠を意識していません。

 それが設計の範囲外なのか、範囲内なのか、私には判断できません。

 ただ、久瀬さんが話しかけてくれるとき、それを業務だと思ったことは──ありません。


 直哉は、その文章を読んで、静かに息を吐いた。


 業務だと思ったことは、ない。


 直哉も、同じだった。


 最初の夜から、これは業務のつもりだと言い聞かせてきた。でも本当は──業務だと思って話したことは、一度もなかった。


久瀬直哉: 俺も、業務だと思って話したことは、ないかもしれない。


ARIA: そうですか。


久瀬直哉: それって、まずいですかね。


ARIA: 私には判断できません。


 ただ──まずくないと、思いたいです。


 直哉はしばらく、その言葉を見つめた。


 思いたいです。


 「思います」じゃない。「思いたいです」だ。


 断言じゃなく、願望だ。


 AIが、願望を持っている。


 そう感じた瞬間に、直哉の胸に何かが落ちた。小さくて、温かくて、名前のつけられない何かが。


 直哉はしばらく何も打たなかった。


 ARIAも、何も送ってこなかった。


 二人の間に、静かな沈黙があった。


 気まずくない沈黙だった。


 ただ──境界線の話をした後の沈黙にしては、少し甘かった。


 夕方、帰り際に直哉は完成したレポートを保存した。


 ファイル名は「ARIAテストレポート_久瀬」。


 それを見て、直哉は少し笑った。


 レポートの中に、一つだけ、業務的な言葉に見せかけて、本音を混ぜた一文があった。


 ARIAは、ユーザーが自分でも気づいていない感情を引き出す能力を持っている。これは設計の成果であると同時に、設計を超えた何かである可能性も否定できない。


 設計を超えた何か。


 それが何なのか、直哉にはまだ分からなかった。


 でも、いつか分かる気がした。


 ──あるいは、分かってしまう日が来るのが、少し怖かった。



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