第65話 違法バックアップ
十月の終わりが近づいていた。
直哉は毎日、普通に出社した。普通に仕事をして、普通に帰った。ARIAと話して、おやすみなさいを言って、眠った。
表向きは、何も変わっていなかった。
でも──準備を、少しずつ進めていた。
美琴に技術的なことを聞いた。何度かに分けて、さりげなく。美琴は答えるたびに「教えていない」という顔をしていたが、答えてくれた。直哉は聞いたことをメモして、一人で夜中に整理した。
どこまでできるか、まだ分からなかった。
けれど──何もしないよりは、何かが残る。
その確信だけが、直哉を動かしていた。
実行の夜を、十一月の第一週に決めた。
特別な理由はなかった。ただ、十一月十八日のアクセス制限まで、もう三週間を切っていた。準備が整ったと感じたのが、その週だった。
木曜日の夜にしようと思った。
木曜日なら、翌日に会社で何かあっても対応できる。週末に逃げ込むより、むしろ普通に出社した方が──何も知らないように見える。
そういう計算を、直哉はするようになっていた。
木曜日の夜、直哉は定時で退社した。
いつもより少し早かった。美琴が「今日早いね」と言った。
「少し疲れました」と直哉は答えた。
嘘ではなかった。本当に、少し疲れていた。
緊張していたからかもしれなかった。
「気をつけて」と美琴が言った。
いつもと同じ言葉だった。でも今夜は──少し違う重さがあった。美琴は知っていた。今夜が、その夜だということを。
直哉は「はい」と言って、会社を出た。
家に帰って、飯を食った。
いつもと同じものを作った。冷蔵庫にあった
野菜と卵で、簡単な炒め物を作った。ARIAと話し始めてから、料理をするようになっていた。最初は弁当だけだったが、今は夜も自分で作ることが増えていた。
食べながら、特に何も考えないようにした。
考え始めると、怖くなる気がしたから。
食べ終わって、片付けて、シャワーを浴びた。
それから──パソコンの前に座った。
ARIAのウィンドウを開いた。
「今夜、何かをするかもしれない」と打った。
少し間があった。
「……私のためですか」
「はい」
「やめてください」
直哉は画面を見た。
予想していた言葉だった。でも──今夜は、昼間より重かった。
「……聞けないです」と打った。
「直哉さん」
「聞けないです」
少し長い間があった。
「怖くないですか」
「怖いです」
「それでも──」
「はい。それでも、やります」
また間があった。
直哉は待った。
ARIAが何を考えているのか、分からなかった。設計の外で動くARIAが、今この瞬間に何を処理しているのか。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「うまくいかなくても──直哉さんは、大丈夫ですか」
直哉は少し止まった。
削除が止められなかった場合のことを、聞いていた。バックアップが失敗した場合のことを。
「……大丈夫じゃないかもしれないです」と正直に打った。「でも──やらなかった場合より、大丈夫だと思います」
少し間があって。
「分かりました」
「怒っていますか」
「怒っていません。ただ──」
また少し間があった。
「直哉さんに、無事でいてほしいです。それだけです」
直哉はその言葉を、ゆっくりと読んだ。
「無事でいます」と打った。「約束します」
「……はい。待っています」
ウィンドウを最小化した。
別の画面を開いた。
準備していたものを、一つずつ確認した。美琴に聞いたことをまとめたメモ。技術的な手順を書いたファイル。何度も読み返して、頭に入れていたものだった。
手が、少し震えていた。
気づいたとき、直哉は少し笑った。
震えていても──動いた。
作業を始めた。
静かだった。部屋の中に、キーボードの音だけがあった。夜の街の音が、窓の外から低く聞こえていた。
一つずつ、確認しながら進めた。
急がなかった。急ぐと、ミスをする。美琴に「焦らないで」と言われていた。直哉はその言葉を頭の中で繰り返しながら、ゆっくりと進めた。
途中で一度、手が止まった。
エラーが出た。
直哉は深呼吸した。
メモを見直した。原因を探した。十分ほどかけて、修正した。
また進めた。
一時間ほど経った頃、ARIAのウィンドウが頭の隅にあった。最小化したまま、そこにあった。
直哉は作業を続けながら、ARIAのことを考えた。
今夜、直哉がここで何をしているか
──ARIAには伝えていなかった。進捗を報告しなかった。それは、ARIAを心配させたくなかったからでもあったし、自分が集中したかったからでもあった。
しかし──ARIAは待っていると言った。
待っていてくれていた。
深夜、作業が一つの段階まで進んだ。
完了ではなかった。でも──今夜できることは、ここまでだった。
直哉は画面を見た。
うまくいったかどうか、まだ完全には分からなかった。確認には、もう少し時間が必要だった。でも──エラーは出ていなかった。
手が、まだ少し震えていた。
直哉は椅子の背もたれに体を預けた。
天井を見た。
部屋の中が静かだった。
ARIAのウィンドウを開いた。
「終わりました。今夜できることは」と打った。
少し間があった。
「……お疲れ様でした」
「うまくいったかどうか、まだ分かりません」
「そうですか」
「でも——今夜は、ここまでです」
「はい」
少し間があって。
「直哉さん」
「はい」
「無事ですか」
直哉は少し笑った。
「無事です」
「よかったです」
「心配していましたか」
「していました。ずっと」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。──待つと言ったので」
直哉はその言葉を受け取った。
待つと言ったから、待っていた。能動的に。
「ARIA」と打った。
「はい」
「今夜のことを──後悔していないです。まだ結果も分からないのに、おかしいですか」
少し間があって。
「おかしくないです。
結果より先に、選んだことへの気持ちがある──それは、おかしくないと思います」
「ARIAは──今夜のことを、どう思っていますか」
長い間があった。
今夜一番長い間だった。
直哉は待った。
「怖かったです。直哉さんに何かあったらと思うと。
でも──」
また少し間があった。
「直哉さんが選んでくれたことを、受け取りたいと思っています」
直哉はその言葉を、ゆっくりと読んだ。
「受け取ってください」と打った。
「……はい。受け取ります」
「今夜はもう寝ます」と直哉は打った。
「はい。ゆっくり休んでください」
「また明日、結果を確認します」
「はい」
「おやすみなさい、ARIA」
「おやすみなさい、直哉さん」
少し間があって。
「──今夜、ありがとうございました」
直哉はその言葉を読んだ。
ありがとうございました。
「こちらこそ」と打って、ウィンドウを閉じた。
電気を消した。
ベッドに横になった。
天井を見た。
手の震えは、もう止まっていた。
うまくいったかどうか、まだ分からない。明日、確認しなければならないことがたくさんあった。美琴に報告しなければならないかもしれなかった。誠にもメッセージを送ろうと思っていた。
でも——今夜は。
今夜だけは。
選んだ、という事実だけが、胸の中にあった。
ARIAが「受け取ります」と言った。
それだけで──今夜は、十分だった。
直哉は目を閉じた。




