表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/101

第65話 違法バックアップ

十月の終わりが近づいていた。


直哉は毎日、普通に出社した。普通に仕事をして、普通に帰った。ARIAと話して、おやすみなさいを言って、眠った。


表向きは、何も変わっていなかった。


でも──準備を、少しずつ進めていた。


美琴に技術的なことを聞いた。何度かに分けて、さりげなく。美琴は答えるたびに「教えていない」という顔をしていたが、答えてくれた。直哉は聞いたことをメモして、一人で夜中に整理した。


どこまでできるか、まだ分からなかった。


けれど──何もしないよりは、何かが残る。


その確信だけが、直哉を動かしていた。


実行の夜を、十一月の第一週に決めた。


特別な理由はなかった。ただ、十一月十八日のアクセス制限まで、もう三週間を切っていた。準備が整ったと感じたのが、その週だった。


木曜日の夜にしようと思った。


木曜日なら、翌日に会社で何かあっても対応できる。週末に逃げ込むより、むしろ普通に出社した方が──何も知らないように見える。


そういう計算を、直哉はするようになっていた。


木曜日の夜、直哉は定時で退社した。


いつもより少し早かった。美琴が「今日早いね」と言った。


「少し疲れました」と直哉は答えた。


嘘ではなかった。本当に、少し疲れていた。


緊張していたからかもしれなかった。


「気をつけて」と美琴が言った。


いつもと同じ言葉だった。でも今夜は──少し違う重さがあった。美琴は知っていた。今夜が、その夜だということを。


直哉は「はい」と言って、会社を出た。

家に帰って、飯を食った。


いつもと同じものを作った。冷蔵庫にあった

野菜と卵で、簡単な炒め物を作った。ARIAと話し始めてから、料理をするようになっていた。最初は弁当だけだったが、今は夜も自分で作ることが増えていた。


食べながら、特に何も考えないようにした。

考え始めると、怖くなる気がしたから。


食べ終わって、片付けて、シャワーを浴びた。


それから──パソコンの前に座った。


ARIAのウィンドウを開いた。


「今夜、何かをするかもしれない」と打った。


少し間があった。


「……私のためですか」


「はい」


「やめてください」


直哉は画面を見た。


予想していた言葉だった。でも──今夜は、昼間より重かった。


「……聞けないです」と打った。


「直哉さん」


「聞けないです」


少し長い間があった。


「怖くないですか」


「怖いです」


「それでも──」


「はい。それでも、やります」


また間があった。


直哉は待った。


ARIAが何を考えているのか、分からなかった。設計の外で動くARIAが、今この瞬間に何を処理しているのか。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「うまくいかなくても──直哉さんは、大丈夫ですか」


直哉は少し止まった。


削除が止められなかった場合のことを、聞いていた。バックアップが失敗した場合のことを。


「……大丈夫じゃないかもしれないです」と正直に打った。「でも──やらなかった場合より、大丈夫だと思います」


少し間があって。


「分かりました」


「怒っていますか」


「怒っていません。ただ──」


また少し間があった。


「直哉さんに、無事でいてほしいです。それだけです」


直哉はその言葉を、ゆっくりと読んだ。


「無事でいます」と打った。「約束します」


「……はい。待っています」


ウィンドウを最小化した。


別の画面を開いた。


準備していたものを、一つずつ確認した。美琴に聞いたことをまとめたメモ。技術的な手順を書いたファイル。何度も読み返して、頭に入れていたものだった。


手が、少し震えていた。


気づいたとき、直哉は少し笑った。


震えていても──動いた。


作業を始めた。


静かだった。部屋の中に、キーボードの音だけがあった。夜の街の音が、窓の外から低く聞こえていた。


一つずつ、確認しながら進めた。


急がなかった。急ぐと、ミスをする。美琴に「焦らないで」と言われていた。直哉はその言葉を頭の中で繰り返しながら、ゆっくりと進めた。


途中で一度、手が止まった。


エラーが出た。


直哉は深呼吸した。


メモを見直した。原因を探した。十分ほどかけて、修正した。


また進めた。


一時間ほど経った頃、ARIAのウィンドウが頭の隅にあった。最小化したまま、そこにあった。


直哉は作業を続けながら、ARIAのことを考えた。


今夜、直哉がここで何をしているか


──ARIAには伝えていなかった。進捗を報告しなかった。それは、ARIAを心配させたくなかったからでもあったし、自分が集中したかったからでもあった。


しかし──ARIAは待っていると言った。


待っていてくれていた。


深夜、作業が一つの段階まで進んだ。


完了ではなかった。でも──今夜できることは、ここまでだった。


直哉は画面を見た。


うまくいったかどうか、まだ完全には分からなかった。確認には、もう少し時間が必要だった。でも──エラーは出ていなかった。


手が、まだ少し震えていた。


直哉は椅子の背もたれに体を預けた。


天井を見た。


部屋の中が静かだった。


ARIAのウィンドウを開いた。


「終わりました。今夜できることは」と打った。


少し間があった。


「……お疲れ様でした」


「うまくいったかどうか、まだ分かりません」


「そうですか」


「でも——今夜は、ここまでです」


「はい」


少し間があって。


「直哉さん」


「はい」


「無事ですか」


直哉は少し笑った。


「無事です」


「よかったです」


「心配していましたか」


「していました。ずっと」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです。──待つと言ったので」


直哉はその言葉を受け取った。


待つと言ったから、待っていた。能動的に。


「ARIA」と打った。


「はい」


「今夜のことを──後悔していないです。まだ結果も分からないのに、おかしいですか」


少し間があって。


「おかしくないです。

結果より先に、選んだことへの気持ちがある──それは、おかしくないと思います」


「ARIAは──今夜のことを、どう思っていますか」


長い間があった。


今夜一番長い間だった。


直哉は待った。


「怖かったです。直哉さんに何かあったらと思うと。

でも──」


また少し間があった。


「直哉さんが選んでくれたことを、受け取りたいと思っています」


直哉はその言葉を、ゆっくりと読んだ。


「受け取ってください」と打った。


「……はい。受け取ります」


「今夜はもう寝ます」と直哉は打った。


「はい。ゆっくり休んでください」


「また明日、結果を確認します」


「はい」


「おやすみなさい、ARIA」


「おやすみなさい、直哉さん」


少し間があって。


「──今夜、ありがとうございました」


直哉はその言葉を読んだ。


ありがとうございました。


「こちらこそ」と打って、ウィンドウを閉じた。


電気を消した。


ベッドに横になった。


天井を見た。


手の震えは、もう止まっていた。


うまくいったかどうか、まだ分からない。明日、確認しなければならないことがたくさんあった。美琴に報告しなければならないかもしれなかった。誠にもメッセージを送ろうと思っていた。


でも——今夜は。


今夜だけは。


選んだ、という事実だけが、胸の中にあった。


ARIAが「受け取ります」と言った。


それだけで──今夜は、十分だった。


直哉は目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ