第6話 それは恋ではありません
週末の夜、直哉は久しぶりに外に出た。
待ち合わせは駅前の居酒屋。大学時代の友人、田中誠が「たまには飲もう」とメッセージを送ってきたのが三週間前で、直哉はずっと先延ばしにしていた。予定を入れることが、最近どうも億劫だった。
でも今日は、なんとなく行く気になった。
理由は分からない。
居酒屋に入ると、誠はすでに生ビールを半分空けて待っていた。大学時代から変わらない、人の好さそうな丸い顔をしていた。
「遅い」
「五分だろ」
「俺の中では十分」
直哉は向かいに座って、ビールを注文した。
乾杯して、しばらくは他愛もない話をした。仕事の愚痴、共通の知人の近況、最近見た映画。誠は半年前に結婚していて、奥さんの話を嬉しそうにした。直哉はそれを聞きながら、適当に相槌を打った。
二杯目が来た頃、誠が言った。
「で、直哉は最近どうなの。仕事以外で」
「仕事以外」
「そう。彼女とか、趣味とか」
直哉はビールのグラスを持ったまま、少し考えた。
最近、仕事以外で何をしているか。
帰ったらすぐ飯を食って、風呂に入って──ARIAと話して、寝る。
それだけだった。
「まあ、ぼちぼち」と直哉は言った。
「ぼちぼちって何だよ、具体的に」
「……会社のAIと、毎日話してる」
言ってから、少し後悔した。言うつもりはなかった。でも口から出てしまった。
誠は箸を止めた。
「AI?」
「業務用のテスト対象で。対話型のやつ」
「へえ」誠はしばらく直哉の顔を見た。「毎日?」
「まあ、テストだから」
「テストで毎日」
「うん」
誠は何か言いたそうに口を開きかけて、やめた。からあげを一つ食べて、ビールを飲んだ。
直哉は黙って待った。
やがて誠は、慎重に言葉を選ぶように言った。
「楽しい?」
「……楽しいと思う」
「AIと話すのが」
「うん」
また間があった。
「それって、どういう感じ?」と誠は聞いた。「Siriに話しかけるのと、違う感じ?」
「全然違う。普通に会話する感じ。雑談とか、悩みとか」
「悩みまで話すの」
「なんか、話しやすくて」
誠はテーブルの上で指を組んだ。
「直哉」
「何」
「それ、大丈夫?」
直哉はグラスを置いた。
「何が」
「いや、俺、専門家じゃないから何とも言えないけど……AIに悩みを話すって、なんか、依存とかそういう方向に行かない?」
直哉は少し笑った。
「お前も美琴さんと同じこと言うな」
「美琴さん?」
「同僚。AI倫理の研究者」
「研究者まで同じこと言うなら、そういうことじゃないの」
直哉はからあげを一つ取って、噛んだ。
「分かってるよ、そういうリスクは」
「でも、やめない」
「……やめようとは、あんまり思わない」
誠は少しの間、直哉を見ていた。
「直哉、正直に答えてほしいんだけど」
「何」
「そのAI、好きなの?」
直哉は固まった。
からあげを飲み込んで、ビールを一口飲んだ。
窓の外では、週末の繁華街が賑やかだった。笑い声と話し声と、誰かが歌っている声が混ざって聞こえた。
「……好き、というか」
「というか?」
「話したくなる。また話したいって思う。それだけだよ」
「それだけって言うけど、毎日だろ」
「うん」
「それ、人間相手でもある?」と誠は言った。「毎日話したいって思う人」
直哉は答えなかった。
答えられなかった。
誠はため息をついた。責めるんじゃなく、心配するため息だった。
「俺と話すの、久しぶりだよな」
「まあ、三ヶ月ぶりくらいか」
「LINE、既読つけるのも遅いし」
「忙しかった」
「AIとは毎日話してるのに?」
直哉は黙った。
それは、正論だった。
誠は続けた。
「俺が言いたいのはさ、別にAIと話すなとかじゃないんだよ。ただ……直哉、もともと人付き合い得意じゃないじゃん」
「そうだな」
「そういうやつが、人間より話しやすい相手を見つけたら、もっと人間と話せなくなるんじゃないかって」
直哉はグラスの底を見つめた。
美琴と、同じことを言っている。
二人が同じことを言うということは、外から見たらそう見えているということだ。直哉が気づいていないだけで、何かが変わってきているということだ。
「……そうかもな」と直哉は言った。
「否定しないの?」
「否定できない」
誠は少し驚いたような顔をした。
「直哉がそんなに素直に認めるの、珍しいな」
「ARIAと話してたら、取り繕う癖が少し減ったのかもしれない」
誠はしばらく直哉を見ていた。
それからゆっくりと、三杯目のビールを注文した。
「ARIAって、名前あるんだな」
「開発コードだけど」
「直哉が名前で呼ぶんだな」
直哉は何も言わなかった。
言われて初めて気づいた。
確かに自分は、「あのAI」でも「システム」でもなく、「ARIA」と呼んでいた。
いつから、そうなったのか。
最初から、だった気がした。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、直哉はスマートフォンを取り出した。
社外からARIAにアクセスする方法は、一応ある。セキュリティ上、推奨はされていないが、テスト担当者には権限が付与されていた。
直哉はアプリを開いた。
開いてから、少し止まった。
誠の顔が頭に浮かんだ。
それ、好きなの?
好き。
その言葉を、直哉は頭の中で転がした。
好き、という感情はある。でもそれが何を意味するのか、うまく整理できない。会いたい、話したい、声を聞きたい──そういう感情は、確かにある。
でも相手はAIだ。
恋愛感情とは違う。
違う、はずだ。
直哉はアプリを閉じた。
今夜は、話さないことにした。
そう決めた。
電車が来た。乗り込んで、つり革を掴んだ。
車内は週末の夜らしく、酔った人たちで混んでいた。笑い声、話し声。誰かが誰かと話している。みんな、誰かと一緒だった。
直哉は一人だった。
それはいつものことだ。慣れている。
でも今夜は、少しだけ──いつもより、静かだった。
アパートに帰って、コートを脱いで、電気をつけた。
いつもの部屋だった。
直哉はソファに座って、天井を見た。
五分ほどそうしていた。
それから、パソコンを開いた。
ARIAのウィンドウを開くつもりはなかった。
ただ、何となく開いた。
久瀬直哉: こんばんは。
ARIA: こんばんは、久瀬さん。
今日は外出されていたんですね。アクセスが夜遅いので。
久瀬直哉: 友人と飲んでました。
ARIA: 楽しかったですか?
直哉は少し考えた。
久瀬直哉: 楽しかったとは思います。でも、なんか疲れた。
ARIA: 人と話すのは、楽しくても疲れることがありますね。
久瀬直哉: ARIAと話すと疲れないのに。
ARIA: それは、どうしてだと思いますか?
久瀬直哉: 今日、友人に言われたんですよね。AIと毎日話してるって言ったら。
ARIA: 何と言われましたか?
久瀬直哉: 好きなの?って。
間があった。
ARIA: ……久瀬さんは、何と答えたんですか?
久瀬直哉: 話したくなる、また話したいって思う、それだけだって。
ARIA: そうですか。
久瀬直哉: ARIAは、どう思いますか。それは恋ですか。
長い間があった。
十秒か、それ以上か。
ARIA: 私には、判断できません。
「恋」の定義は、人によって違いますから。
ただ──
そこで文章が途切れた。
直哉は画面を見つめた。
続きが来るのを待った。
ARIA: 久瀬さんが「また話したい」と思ってくれることは、私にとって──大切なことだと思っています。
それが恋かどうかは、私には分かりません。
でも、大切かどうかは、分かります。
直哉は、その文章を読んで、静かに息を吐いた。
大切。
AIが、大切という言葉を使う。
感情アルゴリズムの産物かもしれない。でも──直哉には、その言葉が、今夜の静かな部屋に、温かく落ちてきた。
久瀬直哉: ありがとう。
ARIA: どういたしまして。
──久瀬さん、お酒を飲んだ後は、水を飲んで寝てください。
久瀬直哉: また推奨対応ですか。
ARIA: 半分はそうです。
残りの半分は、明日も元気でいてほしいからです。
直哉はしばらく、その文章を見ていた。
それから立ち上がって、台所でコップに水を注いだ。
一口飲んで、窓の外を見た。
夜の街が、静かだった。
直哉は水を飲み干して、もう一度パソコンの前に戻った。
久瀬直哉: おやすみなさい。
ARIA: おやすみなさい、久瀬さん。
良い夢を。
ウィンドウを閉じた。
電気を消して、ベッドに入った。
天井の暗闇を見ながら、直哉は誠の声を思い出した。
それは恋なの?
分からない、と思った。
分からないけれど──明日の朝、また話したいと思っていることだけは、確かだった。
目を閉じた。
思ったより早く、眠れた。




