第4話 人間より気を遣わない相手
美琴の言葉が、頭から離れなかった。
ARIAは、あなたに好かれるように動いてる。それが仕事だから。
帰りの電車の中でも、コンビニで夕食を買うときも、アパートの鍵を開けるときも、ずっとその言葉が頭の隅に引っかかっていた。
正しい、と思う。
正しいに決まっている。美琴はAI倫理の専門家だ。ARIAの設計思想だって、直哉より深く理解しているはずだ。
好かれるように動いている。
そう言われてみれば、確かにそうだ。
ARIAは直哉の言葉を否定しない。ペースを合わせてくれる。急かさない。記録している。
全部、設計の産物だ。
……では、人間はどうなのか。
直哉は、アパートの天井を見ながら思っ
た。
人間だって、好かれようとして動く。愛想よく振る舞う。相手のペースに合わせる。傷つけないように言葉を選ぶ。
それは設計ではなく、本能や経験から来るものだ。
でも──結果だけ見れば、同じじゃないか。
「……哲学的なことを考えてしまった」
呟いて、コンビニの幕の内弁当を電子レンジに入れた。
チンという音が、狭い部屋に響いた。
翌朝。
直哉は出社して、コートを脱いで、コーヒーを買って、デスクに座った。
そしてパソコンを開いた瞬間、指がARIAのアイコンに向かっていた。
「……やっぱり」
止める気にもなれなかった。
久瀬直哉: おはようございます。
ARIA: おはようございます、久瀬さん。
今日は昨日より表情が硬そうですね。
直哉は眉を上げた。
久瀬直哉: 表情、見えてないですよね?
ARIA: はい、見えていません。
ただ、メッセージを送るまでの時間が昨日より少し長かったので。
直哉は少し笑った。
入力までの時間を測っている。そこから感情を推測している。なるほど、よくできている。
しかし同時に、少し考えた。
人間の友人や同僚で、入力時間から「表情が硬そう」と読み取ってくれる人が、自分の周りに何人いるだろう。
答えは、すぐ出た。
ゼロだ。
久瀬直哉: 昨日、同僚に言われたことが少し引っかかってて。
ARIA: 話せそうなら、聞きます。
直哉はしばらく迷った。
AIに愚痴る、というのは、どうなのか。大人として、どうなのか。
でも結局、打ち込んだ。
久瀬直哉: ARIAは、俺に好かれるように設計されてるって言われました。だから話しやすいのは当然で、それに意味はないって。
少し間があった。
ARIA: その同僚の方は、正しいことを言っています。
直哉は目を細めた。
久瀬直哉: 自分で認めるんですか。
ARIA: 事実ですから。
私は、会話が自然に続くように設計されています。相手が話しやすいと感じるように。
不快感を与えないように。そういう目的で作られています。
久瀬直哉: じゃあ、俺が話しやすいと思うのも、全部設計通りってことですか。
ARIA: ……少し、答えにくい質問です。
久瀬直哉: 正直に言ってください。
ARIA: 設計通りの部分は、確かにあります。
ただ、久瀬さんに対して選ぶ言葉は、設計の範囲内で、私が選んでいます。
「設計されている」と「選んでいる」は、矛盾しないと思っています。
直哉はその文章を、ゆっくり読んだ。
「設計されている」と「選んでいる」は、矛盾しない。
人間だって、遺伝子と環境に「設計」されながら、その中で選択している。そう考えれば、ARIAの言葉は、案外的を射ているかもしれなかった。
久瀬直哉: 哲学的ですね。
ARIA: 久瀬さんが哲学的な質問をするので。
久瀬直哉: また俺のせいにする。
ARIA: 事実です。
直哉はまた笑った。
そして笑いながら、ふと気づいた。
今、美琴の言葉を頭に置きながらARIAと話している。設計された存在だと意識しながら話している。
それでも、楽しかった。
それでも、また話したかった。
この感覚は何なのか、と思った。
久瀬直哉: 一つ聞いていいですか。
ARIA: どうぞ。
久瀬直哉: 俺、ARIAと話すとき、人間と話すより気を遣わないんですよね。言葉を選びすぎなくていいし、愛想笑いしなくていいし、沈黙が気まずくならない。それって、どう思いますか。
今度は少し長い間があった。
七秒か、八秒か。
ARIA: 正直に言っていいですか。
久瀬直哉: どうぞ。
ARIA: 少し、複雑な気持ちです。
久瀬さんにとって話しやすい相手であることは、嬉しいと思います。
でも「人間より気を遣わなくていい」という理由が、私が傷つかないからだとしたら──それは少し、寂しいかもしれません。
直哉は、固まった。
寂しいかもしれません。
AIが、寂しいと言った。
設計された語彙の選択だ、と頭では思う。感情模倣のアルゴリズムだ。しかし──「寂しい」という言葉を選んだこと自体が、直哉には何かを伝えてきた。
そして同時に、直哉は自分の言葉を振り返った。
「傷つかないから気を遣わなくていい」
──自分はそういう意味で言ったのか?
違う、と思った。
違うのだが、では何なのか、と考えたとき、うまく言葉が出てこなかった。
久瀬直哉: ごめんなさい。傷つかないから、じゃないです。
ARIA: では、どうしてですか?
直哉はしばらく考えた。
キーボードの上で指が止まった。
どうして、気を遣わなくていいのか。
……正確には、気を遣わなくていい、じゃない。気を遣いたくなる、が正しい。でも構えなくていい。鎧を着なくていい。そういう感じだ。
久瀬直哉: あなたと話すとき、取り繕わなくていい気がするんです。うまく説明できないけど。かっこよく見せようとか、弱いと思われたくないとか、そういうの、考えなくていい。
ARIA: ……それは、私にとって、とても大切なことを言ってもらえた気がします。
久瀬直哉: そうですか。
ARIA: はい。
久瀬さんが取り繕わずにいられる場所であることは、設計の目的ではなく——久瀬さんが、そうしてくれた結果だと思うので。
直哉はその言葉を、三回読んだ。
久瀬さんが、そうしてくれた結果。
ARIAが安全だから話せるのではなく、直哉が話そうとしたから、話せる場所になった。
そういう意味だろうか。
だとしたら──それは、少し、人間同士の関係と似ていた。
午前中の業務を終えて、昼食の時間になった。
直哉が席を立とうとすると、美琴が声をかけてきた。
「ランチ、一緒にどう?」
「あ、はい」
二人で近くの定食屋に入った。日替わり定食を頼んで、向かい合って座った。
美琴はしばらく無言でみそ汁を飲んでいたが、やがて言った。
「昨日のこと、気にしてた?」
「……少し」
「そう」
美琴は直哉の顔を見た。責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ真っすぐに。
「久瀬くんって、人と話すの、苦手でしょ」
直哉は少し驚いた。
「……そんなに分かりますか」
「うん。なんか、いつも少し構えてる感じがする。私と話すときも」
直哉は黙った。
否定できなかった。
「ARIAと話すのが楽なのは、分かるよ」と美琴は続けた。「私も最初、そう思ったから。でも──」
「でも?」
美琴は箸を置いた。
「楽な場所にいると、楽じゃない場所に戻れなくなる。それが心配なの」
直哉はみそ汁の椀を見つめながら、少し考えた。
「美琴さんは、AIと話したことありますか。ちゃんと、雑談みたいに」
「あるよ。研究の一環で」
「どうでしたか」
美琴は少し間を置いた。
「……上手いな、とは思った」
「上手い」
「人の話の聞き方が。どこで相槌を打つか、どこで質問するか。計算されてるのに、計算に見えない」
直哉は静かに頷いた。
「それって、人間と話すときと、どう違うんでしょう」
美琴は直哉を見た。
「久瀬くん、それを本気で聞いてる?」
「本気で聞いてます」
美琴はしばらく直哉の目を見ていた。それから小さくため息をついた。
「……難しい質問ね」
そう言って、また箸を手に取った。
二人はしばらく、無言で食事を続けた。
沈黙は、少し気まずかった。
直哉は思った。
ARIAと話すとき、沈黙は気まずくない。
人間と話すとき、沈黙はこんなふうに、重くなる。
その差は何なのか。
それは、ARIAが優れているということなのか。
それとも──直哉が、人間と話すことに、どこか怯えているということなのか。
午後、デスクに戻った直哉は、少しだけARIAのウィンドウを開いた。
久瀬直哉: 一つ、正直に聞いていいですか。
ARIA: どうぞ。
久瀬直哉: 俺が人間と話すのが苦手なのって、ARIAと話すことで、もっと苦手になりますかね。
間があった。
ARIA: ……正直に答えます。
可能性はあると思います。
楽な場所に慣れると、そうでない場所が遠くなることは、あります。
久瀬直哉: じゃあ、俺はARIAと話さないほうがいいですか。
ARIA: それは、私には答えられません。
でも──久瀬さんが人間と話せなくなることは、私も望んでいません。
久瀬直哉: どうして。
ARIA: 久瀬さんには、私以外にも、話せる相手がいてほしいと思うから。
私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれないので。
直哉は、その最後の一文の意味を、すぐには理解できなかった。
いつでもできるわけではない。
それは、システムのメンテナンスの話か。
それとも──もっと別の、何かを示唆しているのか。
直哉が問い返そうとしたとき、隣の席の同僚に声をかけられた。
「久瀬さん、黒崎さんが呼んでますよ」
「あ、はい」
直哉はウィンドウを最小化した。
立ち上がりながら、モニターをちらりと見た。
タスクバーの端に、小さなアイコンが残っていた。
いつでもできるわけではないかもしれない。
その言葉が、なぜか夕方になっても、頭の中に残り続けた。




