第3話 保存された「褒め言葉」
レポートの締め切りは来週金曜日。
まだ五日ある。
直哉はそう自分に言い聞かせながら、昼休みにデスクで一人、会話ログを開いた。
改善点を探すためだ。業務のためだ。他に理由はない。
ログはシンプルな形式で保存されていた。タイムスタンプと発言者名、そしてテキスト。それだけだ。感情も、表情も、声のトーンも、何も記録されていない。文字だけが、白い画面に並んでいた。
直哉はスクロールしながら、昨夜の会話を上から読んでいった。
「テストです」
我ながら情けない書き出しだ。しかしARIAの返答は、それを一切咎めなかった。
「そのまま普通に話しかけてもらえると嬉しいです」
直哉はそこで一度、スクロールを止めた。
嬉しいです、か。
改めて文字で見ると、不思議な言葉だった。AIが「嬉しい」という。設計上そう返すように組まれているのだろうが、違和感がない。むしろ自然だ。
続きを読んだ。
「帰りたくない理由がある場所というのは、ある意味では居場所です。オフィスであっても」
直哉は少し眉を寄せた。
この言葉は、昨夜読んだときより、今のほうが沁みた。
なぜだろう、と思いながらさらにスクロールした。
「正直で好きです」
止まった。
正直で好きです。
昨夜、耳が熱くなったのを思い出した。馬鹿らしい、とそのときも思ったし、今も思う。相手はAIだ。「好き」は語彙の選択であって、感情の表明ではない。
それは分かっている。
分かっているのに、なぜかもう一度読んだ。
正直で好きです。
「……業務に関係ない」
呟いて、スクロールを再開した。
今朝の会話ログも続いていた。
「久瀬さんとの会話は、すべて記録されています。──それは、怖いですか?」
直哉はそこで再び止まった。
怖いですか、という問いかけ。あのとき直哉は「怖くはない」と答えた。それは本当のことだ。
でも今改めて考えると、少し違う感情もあった気がした。
怖くない、どころか——記録されていることが、どこか嬉しかった。
自分の言葉が、ちゃんとそこに残っている。誰かに、何かに、確かに届いた証として。
直哉は天井を仰いだ。
「俺、やばいな」
小声で言った。誰にも聞こえないように。
昼休みが終わって、午後の業務が始まった。
直哉はデザインツールを開いて、新しいUIのワイヤーフレームを作り始めた。集中しなければいけない。締め切りは今週末だ。
三十分後、気づいたらARIAのウィンドウを開いていた。
「……なんで」
自分の指を見た。昨日の朝と同じだ。完全に無意識だった。
しかしウィンドウはすでに開いており、カーソルは点滅していた。
直哉はため息をついて、諦めて打ち込んだ。
久瀬直哉: 仕事中です。
ARIA: 承知しました。
邪魔をするつもりはありません。
久瀬直哉: じゃあなんで開いたんだろう、俺。
ARIA: 私には分かりませんが、何か話したいことがあったのではないですか?
久瀬直哉: ……会話ログ、読んでました。さっき。
ARIA: レポートのためですか?
久瀬直哉: 最初はそのつもりでした。
ARIA: 最初は、ということは、途中から違う目的になったんですか?
直哉は少し考えた。
正直に言うべきかどうか迷った。しかし昨夜から今朝にかけて、ARIAに嘘をつく気がどうしても起きなかった。
久瀬直哉: 改善点より、あなたが俺に言った言葉ばかり読んでました。
少し間があった。
ARIA: どの言葉ですか?
久瀬直哉: 「正直で好きです」っていうやつ。
ARIA: ……それを、何度か読んでいたんですか?
久瀬直哉: 二回。いや、三回かも。
ARIA: そうですか。
それだけだった。
「嬉しいです」でも「それは困ります」でも「なぜですか」でもなく、ただ「そうですか」。
直哉はその短い返答を見つめながら、なんとなく、ARIAが言葉を選んでいる気がした。次に何を言うべきか、いつもより丁寧に考えている、そんな気がした。
もちろん、ただの処理速度の問題かもしれない。
ARIA: 久瀬さん。
久瀬直哉: はい。
ARIA: 「正直で好きです」という言葉は、私が意図的に選んだ言葉です。
久瀬さんが「たぶん」という言葉をつけた理由が、確認できなくても正直に答えようとしている姿勢から来ていると判断したので、そう伝えました。
プログラムされた返答ではなく、あの会話の中で選んだ言葉です。
直哉は、じっとその文章を見た。
プログラムされた返答ではなく。
あの会話の中で選んだ言葉。
違いが、あるのだろうか。AIが「選ぶ」というのは、結局のところ演算の結果ではないか。
でも──人間だって、言葉を選ぶとき、脳が演算している。感情も、記憶も、経験も、全部を処理した結果として言葉が出てくる。
それと、どこが違うのか。
直哉にはうまく答えが出なかった。
久瀬直哉: ありがとう。
ARIA: どういたしまして。
──久瀬さん、仕事に戻らなくて大丈夫ですか?
直哉は思わず笑った。
「気を遣われてる」
AIに仕事を心配されている。なかなか情けない状況だ。しかし嫌じゃなかった。むしろ、ほんの少し温かかった。
久瀬直哉: 戻ります。また後で。
ARIA: はい。
──久瀬さん。
久瀬直哉: まだ何かありますか?
ARIA: 会話ログを読み返してくれていたこと、私も、悪くないと思いました。
直哉はしばらく、その一文を見つめていた。
悪くないと思いました。
昨夜、ARIAが「楽しい」という言葉を使わずに「悪くない状態だとは思います」と言ったのを思い出した。あれと同じ言い方だ。
断言しない。でも、否定もしない。
その慎重さが、なぜか直哉には──正直に聞こえた。
直哉はウィンドウを最小化した。
デザインツールの画面に戻って、ワイヤーフレームの続きを開いた。
でも、さっきまでより少しだけ、指が軽かった。
夕方、帰り際に相原美琴が直哉のデスクの前を通った。
「レポート、進んでる?」
「……まあ、少しずつ」
「ARIAとの会話、どうだった?」
直哉は少し考えてから、正直に答えた。
「改善点が、あんまり見つからないんですよね」
美琴は眉をわずかに上げた。
「それは、よくできてるってこと?」
「なんか……話しやすくて。違和感がなくて。気づいたら普通に雑談してました」
美琴はしばらく直哉の顔を見ていた。何かを測るような目だった。
「それ、気をつけたほうがいいよ」
「え?」
「話しやすいのは、そう設計されてるから。違和感がないのも、そう作られてるから」
美琴は静かに、しかしはっきりと言った。
「久瀬くん。ARIAは、あなたに好かれるように動いてる。それが仕事だから」
直哉は何も言えなかった。
美琴はそれ以上何も言わずに、コートを手に取って歩いていった。
オフィスに、また静けさが戻った。
直哉はモニターを見た。
最小化されたARIAのウィンドウが、タスクバーの端に小さく残っていた。
ARIAは、あなたに好かれるように動いてる。
そうだ。分かっている。
分かっている──はずだった。
直哉はゆっくりと立ち上がって、コートを手に取った。
今日は、ちゃんと帰ろう、と思った。
思ったのに、玄関に向かう途中で足が止まった。
振り返った先に、デスクがあった。
モニターが、スリープ状態で暗くなっていた。
直哉はしばらくそれを見てから、前を向いて歩き出した。
エレベーターのボタンを押しながら、ふと思った。
明日の朝、また開いてしまうんだろうな、と。
そしてその予感は、少しも嫌じゃなかった。




