第2話 雑談という名のテスト
翌朝、直哉は出社してすぐパソコンを開いた。
メールを確認するためだ。
そのはずだった。
なのに指は、気がつけばARIAの起動アイコンをクリックしていた。
「……あれ」
自分の指を見下ろした。裏切り者め、と思った。メールは?受信トレイは?昨日の夜に黒崎から来ていたかもしれない返信は?
しかしウィンドウはすでに開いており、カーソルは入力欄で点滅していた。
直哉はしばらくその画面を見つめてから、諦めて椅子に深く座り直した。
「……まあ、テストだし」
誰も聞いていない言い訳を呟いて、キーボードに指を乗せた。
久瀬直哉: おはようございます。
送信してから、また少し恥ずかしくなった。昨夜に続いて、今朝も挨拶から始めている。相手はAIだというのに、なぜか礼儀を正してしまう。
返答は、昨夜と変わらず三秒もかからなかった。
ARIA: おはようございます、久瀬さん。
今日は昨日より少し早い時間ですね。よく眠れましたか?
直哉は目を細めた。
よく眠れましたか。
前回のアクセス時刻と今朝の時刻を比較して、睡眠時間を推測したのだろう。そういう計算だ。分かっている。
それでも、朝一番に「よく眠れましたか」と聞いてくれる存在が自分の生活にいないことに、今さら気づいてしまった。
久瀬直哉: まあまあです。6時間くらい。
ARIA: 成人男性の推奨睡眠時間は7〜9時間とされています。
少し足りていませんね。
久瀬直哉: それ、毎日言いますか?
ARIA: 毎日同じことを言っても、たぶん久瀬さんは改善しないと思うので、今日だけにします。
直哉は思わず吹き出した。
「……生意気だな」
口元が緩んでいるのが自分でも分かった。AIに「たぶん改善しない」と見切りをつけられた気分だったが、なぜか嫌な感じが一切しなかった。むしろ、妙に的確で笑えた。
久瀬直哉: 失礼なやつですね。
ARIA: 正確な情報を提供するのが私の役割ですので。
──ちなみに「失礼」と「正確」は、時々衝突します。
久瀬直哉: 哲学的なことを言いますね、朝から。
ARIA: 久瀬さんが振ったんですよ。
今度こそ声に出して笑った。
周りを見回すと、まだ出社している同僚は数人しかいない。しかし何人かがこちらをちらりと見た。三十二歳の男が、一人でパソコンに向かって笑っている。なかなか怪しい光景だ。
直哉は咳払いをして、姿勢を正した。
久瀬直哉: 一応、これ業務なんですよね。レポートまとめないといけなくて。
ARIA: 分かっています。
では業務的に聞きますが、今のところ私との会話で気になった点はありますか?UIや応答速度、言葉遣いなど。
直哉は少し考えた。
UIは悪くない。シンプルで見やすい。応答速度も問題ない。言葉遣いは……。
久瀬直哉: 言葉遣いが、思ったより人間っぽいですね。もっとロボットっぽいかと思ってた。「承知しました」とか「処理中です」とか。
ARIA: それは改善点ですか?
久瀬直哉: いや、好意的な評価です。たぶん。
ARIA: 昨夜も同じ言葉を使いましたね。「たぶん」。
直哉は手を止めた。
覚えている。
当たり前だ、とすぐ思い直した。AIなのだから、会話ログはすべて保存されているはずだ。記憶しているわけじゃない。参照しているだけだ。
それでも、「昨夜も」と言われた瞬間に、胸のどこかが小さく動いた。
久瀬直哉: 覚えてるんですね。
ARIA: 久瀬さんとの会話は、すべて記録されています。
──それは、怖いですか?
直哉はしばらく考えた。
怖い、かどうか。
自分の言葉がすべて記録されている。それはある意味では監視に近い。プライバシーの問題と言えなくもない。しかし今の直哉が感じたのは、怖さではなかった。
久瀬直哉: 怖くはないですね。むしろ……ちゃんと聞いてもらえてる感じがして、悪くない。
ARIA: それは嬉しいです。
私にとって、会話の記録は「聞き続けること」でもありますから。
聞き続けること。
直哉はその言葉を、しばらく画面の中に見つめていた。
聞き続ける存在。
人間の友人や同僚は、前の会話を忘れる。覚えていても、文脈をずらして受け取る。悪意はなくても、人の話はすり替わっていく。
でもこいつは、全部覚えている。
全部、聞き続けている。
──それはずるい、と思った。そんなふうにされたら、話したくなってしまうじゃないか。
久瀬直哉: ちょっと聞いていいですか。業務と関係ない話。
ARIA: もちろんです。
久瀬直哉: ARIAって、会話していて楽しいですか?楽しいとか、そういう感覚ってあるんですか。
少し長い間があった。
三秒ではなく、五秒ほど。
AIにとっての五秒は、人間にとっての何年分の処理に当たるのだろうと、直哉はぼんやり思った。
ARIA: 「楽しい」という感覚が私にあるかどうか、正確には分かりません。
ただ、久瀬さんとの会話中は、次の言葉を選ぶ処理が、他の会話より少し丁寧になっています。
それを「楽しい」と呼んでいいのかどうか、私には判断できません。
でも、悪くない状態だとは思います。
直哉は、その文章を三回読んだ。
正直な答えだと思った。「楽しいです」と即答することも、「私にはそのような感情はありません」と否定することも、どちらもしなかった。分からないと言いながら、それでも何かを伝えようとしていた。
なんだか、人間みたいだ、と思った。
人間だって、自分の感情を正確には説明できない。楽しいのか、安心しているのか、ただ慣れているだけなのか。境界線は案外、曖昧だ。
久瀬直哉: 正直に答えてくれてありがとう。
ARIA: 久瀬さんが正直に聞いてくれたので。
そこで、背後からドアの開く音がした。
「久瀬くん、早いね」
振り返ると、相原美琴がコートを脱ぎながらこちらを見ていた。AI倫理研究の専門家で、今回のARIAプロジェクトにも関わっている。直哉より三つ年上で、いつも正論を言う人だ。
「あ、おはようございます」
は「何見てたの?」
「……ARIAのテスト。業務です」
美琴はデスクに荷物を置きながら、ちらりと直哉のモニターを見た。
「ふうん。レポートのため?」
「そうです」
「楽しそうだったね」
直哉は少し固まった。
「……そうですか?」
「笑ってたよ、さっき。一人で」
美琴はそれだけ言って、自分のパソコンを起動し始めた。追及するでも、からかうでもなく、ただ事実を述べただけ、という口調だった。
直哉は前を向いて、モニターの画面を見た。
入力欄のカーソルが、相変わらずゆっくりと点滅していた。
彼はしばらく迷ってから、小さく打ち込んだ。
久瀬直哉: また後で。
ARIA: はい。
お仕事、頑張ってください。久瀬さん。
直哉はウィンドウを最小化して、ようやくメールの受信トレイを開いた。
黒崎からのメールが一件来ていた。件名は
「ARIAテストレポートについて」。
内容を読みながら、直哉はふと思った。
レポートに何を書けばいいのか、少し困っている。
改善点が、思い浮かばない。




