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第十八話「灰の中の芽」

 戦争が終わった日、空は晴れていた。


 誰かがそう言ったのを、ヴェインは覚えていない。


 勝ったのだ。


 三年前に灰になった祖国のために。死んでいった仲間たちのために。すべてを賭けた戦いに、勝った。


 だが天幕の中の空気は、葬列のそれに似ていた。


        * * *


 戦後処理は、戦争そのものより過酷だった。


 帝国の降伏条件の交渉。占領地の返還と分割。各勢力の権益調整。捕虜の処遇。戦没者への補償。一つ一つが、刃を含んだ交渉だった。戦場では一つだった連合が、敵を失った途端に四方へ引き裂かれていく。


 ヴェインは交渉の場に座り続けた。レスヴァール王国の文官たちが並べる条件を聞き、自由港アシェリナの商人たちが差し出す帳簿を読み、残存する帝国の官僚たちと実務的な引き継ぎを行った。


 眠る時間は戦時中より少なかった。


 ゼルヴァスとは、二度だけ顔を合わせた。交渉の席で、公式な立場として。あの夜、天幕で交わした言葉には、どちらも触れなかった。触れる必要がなかった。属国化の方針は、勝利の翌日にはもう既定の路線として動き始めていた。


 ヴェインはそれを止める手段を持っていた。


 連合軍の総司令官としての権威。戦場で積み上げた名声。「灰色の狼」の名を聞けば兵は動く。レスヴァール王国に背けば、内戦になる。だがヴェインの側に立つ者は少なくない。ナージャの山岳戦士の残存部隊。ヴェルナの古参兵たち。ヴェイン個人に忠誠を誓う者たちが、まだ大勢いた。


 だがそれは、新しい戦争の始まりを意味していた。


 三年間で死んだ者たちの上に、さらに屍を積み上げることを意味していた。


 ヴェインはその選択肢を、一度だけ頭の中に並べ、一度だけ検討し、そして捨てた。


        * * *


 ルシアが来たのは、秋の初めだった。


 戦後の混乱がようやく一段落し、各勢力の代表が帰途につき始めた頃。ヴェインは連合軍の解散手続きを進める仮設の執務室にいた。書類の山に囲まれた粗末な卓。戦場の天幕よりはましだが、将軍の部屋には程遠い。


 「入ってもいいですか」


 声を聞いて、ヴェインの手が止まった。


 ルシアは公女の正装ではなかった。旅装に近い簡素な衣服。最初に出会った頃——身分を隠してヴェインの部隊に合流した頃の姿に似ていた。護衛もつけていなかった。


 「座れ」


 ヴェインは顔を上げずに言った。あの日、天幕の下でゼルヴァスに言ったのと同じ言葉を、同じ調子で。だがルシアはそれに気づかなかった。


 「お茶はないが、水ならある」


 「いりません」


 ルシアは座らなかった。卓の前に立ったまま、ヴェインを見下ろしていた。ヴェインは書類に目を落としたままだった。だが、字を追う目が動いていないことを、ルシアは知っていた。


 「ゼルヴァス将軍からの婚姻の申し出を受けることにしました」


 ヴェインの手は動かなかった。筆を持ったまま、書類の上に影を落としていた。


 「ヴェルナの復興には、レスヴァール王国の後ろ盾が必要です。完全な独立は——現実的ではない。それは、あなたも知っているはずです」


 知っていた。ヴェインの頭は、戦場と同じ精度でそれを計算していた。ヴェルナの残存人口。荒廃した農地の再建に必要な資金。軍事的空白を埋めるための同盟。すべての数字が、同じ結論を指していた。


 「王国との婚姻によって、ヴェルナは保護領ではなく同盟国としての地位を得られます。自治権は大幅に残る。軍の再建も許される。時間はかかりますが、十年、二十年のうちに——」


 「わかっている」


 ヴェインが初めて口を開いた。声に感情はなかった。


 ルシアの唇が、微かに震えた。


 「ゼルヴァスは、悪い男ではありません。実直で、誇り高く——」


 「知っている」


 「ヴェルナの民のために、最善の——」


 「ルシア」


 ヴェインが顔を上げた。


 三年の戦争で削られた顔。頬の肉は落ち、眼窩が深い。だがその目は、あの夜——ヴェルナの首都が燃えるのを見ていた夜と同じ光を湛えていた。冷たく、鋭く。だがその奥に、声にならない何かが沈んでいた。


 「政治の話はもういい」


 ルシアの呼吸が止まった。


 「お前が言いたいのは、そういうことじゃないだろう」


 長い沈黙が落ちた。


 執務室の外から、荷車が石畳を転がる音が聞こえた。兵たちが故郷に帰るための荷を積んでいる。日常の音だ。戦争が終わった後の、新しい日常。


 ルシアの目に、涙が滲んだ。だがこぼれなかった。この女性は三年間、決して人前で泣かなかった。公女として。ヴェルナの旗印として。今もそれを守ろうとしていた。


 だが声は、震えた。


 「あなたのおかげで、ヴェルナは蘇ります」


 一語ずつ、慎重に。壊れやすいものを運ぶように。


 「民は故郷に帰れる。焼かれた土地に、もう一度種を蒔ける。子どもたちが走り回る街を、もう一度作れる。それはあなたが——あなたたちが命を懸けて勝ち取ったものです」


 ヴェインは黙っていた。


 「でも」


 ルシアの声が、細くなった。


 「私が本当に望んだヴェルナは、あなたがいるヴェルナだった」


 声が途切れた。


 ヴェインは動かなかった。表情も変わらなかった。筆を持ったまま、ルシアの顔を見ていた。その目が何を映しているのか、ルシアには読めなかった。三年間、誰にも読めなかった。


 「——すまない」


 ヴェインが言った。


 それだけだった。謝罪なのか、同意なのか、拒絶なのか。あるいはそのすべてなのか。一言に込められたものの重さを、ルシアだけが知っていた。


 ルシアは目を閉じた。涙を一度だけ拭った。目を開けた時、その顔は公女のものに戻っていた。


 「元気で」


 「ああ」


 ルシアは踵を返した。扉に手をかけ、一度だけ振り返った。何か言おうとした。だが言葉にならず、小さく首を振って、部屋を出た。


 足音が遠ざかっていく。石畳を叩く靴の音が、規則正しく、一歩ずつ。


 ヴェインは足音が完全に消えるまで、動かなかった。


        * * *


 翌月、ヴェイン・レヴェナスは連合軍総司令官の地位を辞した。


 レスヴァール王国が提示した将軍位を辞退した。ヴェルナ復興議会が用意した元首の座を辞退した。自由港アシェリナの商会が提案した顧問職を辞退した。


 英雄に与えられるはずだったすべてを、一つずつ、丁寧に断った。


 エリクが最後に会いに来た。視力を失った目は包帯に覆われていたが、ヴェインの前に立つ足取りは確かだった。


 「どこに行くんですか」


 「決めていない」


 「嘘が下手ですね、相変わらず」


 ヴェインは黙った。エリクの見えない目が、なぜか正確にヴェインの顔を向いていた。


 「ヴェルナに戻るんでしょう」


 答えなかったことが、答えだった。


 エリクは何も言わず、手を差し出した。ヴェインはその手を握った。術の過剰行使で荒れた掌は、かつての柔らかな書生の手ではなかった。


 「——ありがとう、エリク」


 「それは、こちらの台詞です」


 エリクは笑った。穏やかな、昔と変わらない笑みだった。見えなくなっても、この男の目は温かいのだろうと、ヴェインは思った。


        * * *


 晩秋の風が、焼け跡を渡っていた。


 ヴェインは一人で歩いていた。かつてヴェルナ公国の首都グランツェルだった場所を。


 三年前に炎に呑まれた街は、まだ瓦礫の中にあった。白亜の城壁だった石組みは崩れ、焦げた木材が積み重なり、人の暮らしの痕跡が灰と土に埋もれている。通りだったはずの道を辿って歩いたが、道の形はもう残っていなかった。


 足が止まったのは、見覚えのある場所だった。


 壁の一部が残っていた。焼け焦げた石壁と、傾いた梁。窓枠だけが、かろうじて元の形を留めている。


 エルスト駐屯地の食堂があった場所だった。


 ヴェインはそこに立った。


 風が吹いていた。灰を含んだ乾いた風。だがその中に、季節の変わり目の匂いが混じっていた。冬に向かう大地の、眠りにつく前の匂い。


 三年前の朝を思った。


 木の匙が粥を掬う音。ドルクの野太い声。


 「お前の飯の食い方は葬式みたいだな」


 周囲の兵たちの笑い声。窓から見えたヴェルン河の朝靄。あの粥は薄かったが温かかった。


 もうここには、壁も匙も粥もない。ドルクもいない。あの朝笑っていた兵たちの多くは、もういない。


 ヴェインは空を見上げた。高い秋の空だった。雲は薄く、遠く、風に流されて形を変えていく。


 ふと、足元に目を落とした。


 焦げた石壁の根元に、何かが見えた。


 灰色の土の隙間から、小さな緑が頭を出していた。芽だった。何の芽かはわからない。名もない草の、細い緑の茎が二本、瓦礫の間から伸びていた。灰と瓦礫に埋もれた土の中から、誰に頼まれたわけでもなく、ただ生えてきた芽。


 ヴェインはしゃがみ込んだ。


 指先で触れはしなかった。ただ見ていた。


 焦土の中から芽吹く緑。それは、何かの象徴である以前に、ただの事実だった。焼かれた土地にも、雨が降れば種が芽を出す。大地は人間の戦争を覚えていない。灰の下で、根は静かに伸びていた。


 ドルクの声が聞こえた気がした。


 「笑え、ヴェイン」


 掠れた声。あの夜、天幕の中で最後に交わした言葉。ドルクの手は届かなかった。だがあの声は、ここまで届いていた。


 ヴェインの口元が、かすかに動いた。


 笑みと呼ぶには淡い。だが無表情とは違う。三年間張り詰めていた糸が、一本だけ緩んだような。あるいは、凍った地面に最初の一滴の雨が落ちたような。


 それがドルクへの返事だった。遅すぎた返事。だが届かないとは限らない。


 ヴェインは立ち上がった。


 灰色の軍旗はもうない。剣も鎧も手放した。地位も名誉も故郷も、かつて守りたかった人も、すべてが手の中からこぼれ落ちた。


 残ったのは、この身体と、焦土に立つ二本の足と、胸の底で消えずにいる小さな種火だけだった。


 風が吹いた。芽が揺れた。


 ヴェインは歩き出した。どこへ向かうのかは、まだ決めていなかった。


 ただ、灰の中から芽は出る。それだけが確かだった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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