第十七話「玉座を望まず」
時を遡る。ヴェインが防衛線の結節点に殺到したのと、ほぼ同じ頃——
王冠平野の西の稜線が、朝陽に白く照らされていた。
ナージャ・ヴォークは稜線の裏側を駆けていた。二百の山岳戦士が獣のように低い姿勢で後に続く。足音はほとんどない。北嶺の人間は、岩場でも雪上でも音を殺して走ることを幼い頃から仕込まれる。平原であればなおさらだった。
陽動は成った。
帝国の右翼守備隊は、ナージャの部隊が側面から食い破った突破口に兵力を注ぎ込み、防衛線に修復不能な裂け目ができた。その裂け目を、今頃ヴェインの奇襲部隊が駆け抜けているはずだった。
「族長、追撃が来ます」
背後を走る副長のガロが、息を切らさずに告げた。ナージャは首だけを巡らせた。朝靄の中に、帝国の騎兵の影がちらついている。軍旗はない。正規の部隊ではなく、遊撃に回された追撃隊だろう。だが数は多い。三百はいる。
撤退路は稜線を越えた北の森。そこまで一里。山岳戦士の脚なら走り切れる距離だ。
だが、騎兵は馬の脚で来る。
ナージャは走りながら、地形を見た。稜線の西側に浅い谷がある。その先で道が二つに分かれる。右は森への近道。左は丘陵地帯に入り込む袋小路。
「ガロ。部隊を二つに分けろ。百五十は右の道を取って森に入れ。お前が率いろ」
ガロの足が一瞬止まりかけた。
「族長は」
「残りの五十で左に入る。追撃を引きつける」
「左は——行き止まりです」
「知っている」
ナージャの声に迷いはなかった。走る速度も変わらなかった。
ガロが何かを言おうとした。だがナージャの横顔を見て、口を閉じた。琥珀色の目が前方を射抜いている。その目に、議論の余地はなかった。
「行け、ガロ。北嶺の戦士を一人でも多く生きて帰せ。それが副長の仕事だ」
分岐点に着いた。ナージャは左に折れた。五十名の戦士が、一人の脱落もなく従った。全員が、何を意味するか理解していた。
残りの百五十名が右の道に消えていく。ガロの背中が、朝靄の中で一度だけ振り返った。
ナージャは振り返らなかった。
* * *
袋小路は、浅い谷の奥で岩壁に突き当たる窪地だった。
退路はない。三方を低い丘と岩壁に囲まれ、入り口は南に開けた一本道のみ。北嶺の戦士にとって、この地形は棺桶に等しい。山がなければ山岳戦士は力を半分も出せない。
だが、逆に言えば、入り口を塞げば敵もまた容易には入れない。
「ここで止まる」
ナージャは窪地の入り口に戦士を配置した。左右の丘の上に弓手を十名ずつ。入り口の正面に曲刀を持った三十名。自らは最前列に立った。
「どのくらい持たせますか」
傍らの戦士が問うた。若い女だった。名はイルマ。ナージャが子どもの頃から一緒に山を駆けた幼馴染だった。
「ヴェインの隊が皇帝の本陣に届くまで。半日か、それ以下か。知らん。届くまでだ」
「死にますね、族長」
「たぶんな」
ナージャは曲刀を抜いた。刃に朝日が走った。
イルマは頷いた。それだけだった。それだけで十分だった。
帝国の追撃騎兵が、砂塵を上げて谷の入り口に姿を見せた。こちらが袋小路に入ったことを確認し、速度を緩めた。急ぐ必要がないと判断したのだ。逃げ場はない。じっくり潰せばいい。
騎兵が下馬し、歩兵の隊形を組み始めた。谷間では馬は使えない。
ナージャはそれを見て、口元を歪めた。
時間がかかる。下馬して隊形を組み直す時間。谷間を慎重に進む時間。すべてがナージャの味方だった。時間こそが、今この場で最も価値のあるものだった。
* * *
最初の突入は、帝国の損害で終わった。
狭い谷の入り口に殺到した帝国兵を、丘の上から弓手が射すくめ、正面のナージャたちが曲刀で斬り崩した。北嶺の戦士の白兵戦は、平地の兵とは質が違う。一人一人が獣のように動き、隊列という概念を持たない。代わりに、隣の戦士の呼吸を読み、隙間を埋め、波のように押し引きする。
帝国の指揮官は一度退いた。次は弩弓を前面に出し、矢の雨で丘の上の弓手を潰しにかかった。
弓手が減り始めた。矢が尽きた者から曲刀に持ち替え、正面の戦列に加わる。
二度目の突入。今度は帝国兵が盾を連ねて壁を作り、じりじりと押し込んできた。
ナージャは最前列で曲刀を振るった。盾の隙間を突き、腕を断ち、喉を裂いた。返り血が顔に散り、視界が赤く滲む。袖で拭う暇はない。拭う必要もなかった。
三度目の突入の頃には、五十名のうち二十名が倒れていた。
イルマが右腕に矢を受けた。折れた矢柄を自分で引き抜き、布で縛り、左手に曲刀を持ち替えた。
「族長。まだ行けます」
「わかっている」
ナージャ自身も無傷ではなかった。左の脇腹を槍に抉られ、革鎧の下から血が流れ落ちている。足元に溜まった自分の血で、靴底が滑った。
だがまだ立てる。立てる間は戦える。
時間。あとどれだけ必要なのか。ヴェインが皇帝の本陣に届いたかどうか、知る術はない。遠話術の術者はこの部隊にはいない。ただ信じるしかなかった。あの男の策が、あの男の脚が、この時間に届くことを。
四度目の突入。
帝国は数の利を活かし、谷の両側の丘を迂回して上から攻め始めた。包囲が狭まる。
ナージャの周りに立っているのは十二名になっていた。
十二名の戦士が、ナージャを中心に円陣を組んだ。誰も命令を待たなかった。北嶺の戦士は、最後の時が来れば円陣を組む。背中を預け合い、立てなくなるまで戦う。それが山の流儀だった。
「族長」
イルマの声が聞こえた。もう目が見えていないようだった。額を割られ、血が両目を覆っている。それでも曲刀を握り、ナージャの背中に自分の背中を押し当てていた。
「いい朝焼けでしたね、今日は」
「ああ。悪くなかった」
帝国の兵が四方から迫る。
ナージャは、一瞬だけ目を閉じた。
北嶺の山々が見えた。万年雪を被った峰。岩場を駆ける仔山羊。焚火の匂い。酒を交わした夜の笑い声。
そしてアルト高地で、ヴェインに言った自分の言葉が蘇った。
——私は仲間を見捨てない。
あの時、ヴェインに突きつけた言葉だ。仲間を駒にしたヴェインへの怒り。だがそれは同時に、自分自身への誓いでもあった。
今、ナージャは五十名の戦士を死地に連れてきた。百五十を逃がすために。ヴェインを皇帝の本陣に届かせるために。それは——ヴェインと同じ算盤ではないのか。
違う、とナージャは思った。
違う。私は駒を送ったのではない。私が先頭にいる。私が最初に死ぬ。仲間を死地に送るなら、自分がその死地の一番前に立つ。それが北嶺の族長だ。
そしてヴェインは——あの男は仲間だ。盟約を結んだ。酒を交わした。あの男が生きて皇帝の前に立つことが、この戦争を終わらせる。ならば、仲間が仲間のために命を張る。それだけのことだ。
見捨てない。
仲間を、見捨てない。
ナージャは目を開けた。琥珀色の瞳に、朝の光が最後に宿った。
「——来い」
曲刀を構え直し、ナージャは帝国の兵の壁に向かって踏み出した。
その声は、十二の戦士の喊声と一つになり、谷間に木霊し、やがて岩壁に吸い込まれるように消えた。
* * *
皇帝の本陣を守る最後の防衛線は、既に崩れていた。
ナージャの陽動が帝国の右翼を引き剥がし、ゼルヴァスの正面攻撃が中央を押し込み、ヴェインの奇襲部隊が防衛線の結節点を突いた。そしてゲシュタインが読み切れなかった「第四の手」——ヨルグの調略によって帝国の第三防衛線が内側から崩壊した——ことが、帝国軍の最後の計算を狂わせた。
ヴェインは走っていた。
奇襲部隊の先頭ではない。中ほどだ。先頭は若い兵たちが務めている。指揮官が真っ先に死ねば部隊は瓦解する。ヴェインはそれを知っていた。だから中ほどにいた。最後まで生きて、判断を下し続けるために。
本陣の天幕が見えた。
帝国の金鷲旗が、朝風にはためいている。天幕の周囲に残った近衛兵は五十ほど。精鋭だが、もはや戦況を覆す数ではなかった。
奇襲部隊が近衛兵と激突する。金属が噛み合う音。怒号。断末魔。その混沌の中を、ヴェインは天幕に向かって歩いた。走らなかった。走る必要がなかった。ここまで来た以上、あとは歩けばいい。
天幕の入り口を、剣を持ったまま潜った。
薄暗い天幕の中央に、一人の男が椅子に座っていた。
皇帝アウレクス・ガルドラント。
五十の齢を刻んだ顔は、疲労に削られていたが、崩れてはいなかった。白髪交じりの髪。深い皺の奥にある目は、暗い天幕の中でも光を失っていなかった。剣は腰に帯びているが、抜いていない。
卓の上に地図が広げてあった。王冠平野の地図。駒がいくつか載っている。すべて帝国側の駒が倒れていた。
「遅かったな」
アウレクスが言った。
声は穏やかだった。敗者の声ではなかった。すべてを見届けた者の声だった。
ヴェインは天幕の入り口に立ったまま、剣を下ろさなかった。
「抵抗しないのか」
「私一人が剣を振るって、何が変わる。ゲシュタインの防衛線が破られた時点で、この戦は終わっている」
アウレクスは立ち上がった。背筋は真っ直ぐだった。皇帝の体躯は見た目より大きく、天幕の中に影が伸びた。
「お前がヴェイン・レヴェナスか。灰色の狼」
「ただの元一兵卒だ」
「謙遜か」
「事実だ」
沈黙が落ちた。天幕の外で、まだ剣戟の音が断続的に聞こえる。だがそれも、遠ざかりつつあった。
アウレクスがヴェインの目を見た。
「先の会談で、お前に言ったことを覚えているか。この大陸に平和をもたらすには、一つの旗の下に統べるしかないと」
「覚えている」
「今もその考えは変わらない。だが——」
アウレクスは地図の上の倒れた駒に目を落とした。
「方法を誤ったのだろう。踏みにじった者たちの上に立つ旗は、いずれ引き倒される。お前がそれを証明した」
ヴェインは何も言わなかった。
アウレクスが再びヴェインを見た。その目に、敵意はなかった。あるのは、同じ道を歩きかけた者への、奇妙な親しみだった。
「お前が大陸を統べろ、ヴェイン・レヴェナス。それだけの器がある。私の帝国を引き継げ。軍を、官僚を、版図を。お前ならば、私にできなかったことができるかもしれない」
言葉が天幕の中に沈んだ。
ヴェインは、長い時間、黙っていた。
アウレクスの言葉が正しいかどうかを考えていたのではない。その答えは、とうの昔に出ていた。
「俺は玉座を望まない」
静かな声だった。
「俺が望んだのは、焼かれなかった故郷だ。朝に粥を食い、くだらない冗談を言い合い、河風の匂いを嗅いで眠る。そういう日々だ」
ヴェインの声が、僅かに軋んだ。
「だが、それはもうどこにもない」
天幕の中の空気が、凍りついたように静まった。
アウレクスは目を閉じた。そして、深くひとつ、息を吐いた。
「——そうか」
老いた皇帝は、腰の剣を鞘ごと外し、卓の上に置いた。
「帝国は降伏する。全軍に伝えろ」
* * *
勝利の報は、静かに広がった。
エリク・マイスは本陣の後方に設えた術者の天幕の中で、額に脂汗を浮かべていた。遠話術の増幅器——術者の集中を補助する銀の円環——を両手で握りしめ、唇が途切れない言葉を紡いでいた。
戦場に散った連合軍の全部隊に、勝利を伝えなければならなかった。
遠話術の到達範囲は、通常なら数里が限界だ。この王冠平野に展開した全軍に届かせるには、術の規模を数十倍に拡大する必要がある。それが術者の身体にどれほどの負荷をかけるか、エリク自身が一番よく知っていた。
だが、他に方法がない。戦場では伝令が届くまでに半日かかる。その半日の間に、勝利を知らない部隊が無駄な戦闘を続け、無駄な死者が出る。それだけは、避けなければならなかった。
エリクは目を閉じた。
意識を拡げる。自分の内側にある術の源——ヴァルトの核と呼ばれる、胸の奥の温かい塊——に手を伸ばす。それを掴み、絞り、引き出す。普段は少しずつ汲み上げるそれを、堰を切るように一気に解放する。
声が、平野を渡った。
「全軍に告ぐ。皇帝アウレクスは降伏した。帝国は敗北した。戦闘を停止せよ。繰り返す——」
エリクの声は術に乗り、風よりも速く平原を駆けた。南の前線で剣を交えていた兵に届いた。東の丘陵で防御陣を敷いていた部隊に届いた。北の森で追撃を受けていた遊撃隊に届いた。
声が届いた場所から、順に、剣戟の音が止んでいった。
怒号が止み、悲鳴が止み、金属の噛み合う音が止んだ。
代わりに、何も聞こえなくなった。
風の音だけが残った。草を渡る風。旗をはためかせる風。倒れた者たちの髪を揺らす風。
エリクは遠話術を維持し続けた。まだ届いていない部隊がある。戦場の隅々まで、一人残らず、伝えなければ。
視界がぼやけ始めた。銀の円環を握る指の感覚が薄れていく。こめかみの奥で、何かが焼き切れるような熱を感じた。
まだだ。まだ止めるな。
「——戦闘を停止せよ。帝国は降伏した。戦争は、終わった」
最後の一言を送り出した瞬間、エリクの視界が白く飛んだ。
白。ただ白い。何も見えない。
銀の円環が手から滑り落ち、地面に転がる金属の音がした。それは聞こえた。天幕の布が風に揺れる音も聞こえた。だが、何も見えなかった。
エリクは両手で自分の顔に触れた。目は開いている。瞬きもできる。だが光がない。明暗の区別すらない。
ああ、とエリクは思った。
こうなるのか。
恐怖は、不思議となかった。術の行使には代償が伴う。命を削って術を使う。それは最初から知っていたことだ。大規模な遠話術を行使すれば、何かを失う。それが視力だった。それだけのことだった。
天幕の入り口から足音が聞こえた。誰かが駆け込んでくる。
「エリク。エリク、大丈夫か」
若い兵士の声だった。名前は思い出せない。
「ああ。大丈夫だ」
エリクは微笑んだ。見えない目で、声のした方向を向いた。
「届いたか。全軍に」
「届いた。全部隊が戦闘を停止した。エリク、お前の声が——」
「そうか」
エリクは息を吐いた。
「なら、いい」
* * *
王冠平野は静まり返っていた。
ヴェインは皇帝の天幕を出て、戦場に立った。
朝焼けが終わり、空は灰白色に変わっていた。見渡す限りの平野に、帝国と連合の旗が入り混じって倒れている。地面は泥と血で黒く、所々に剣や槍が墓標のように突き刺さっている。
倒れた兵の間を、まだ立っている者たちが呆然と歩いている。敵も味方も区別なく、剣を下ろし、あるいは剣を落とし、自分がまだ生きていることを確かめるように手を見つめている者がいた。
歓声はなかった。
勝鬨を上げる者はいなかった。
ただ、生き残った者たちが、静かに立ち尽くしていた。
ヴェインは東の方角を見た。ナージャが駆けていった方角だ。稜線の向こうに、煙が薄く棚引いている。あの煙の下で何があったか——ヴェインは知っていた。知らされる前から、わかっていた。
「お前は仲間を駒にした。だが私は仲間を見捨てない」
あの高地で、夕陽に照らされたナージャの横顔が蘇った。琥珀色の目。素っ気ない声。背を向けながら言った「次に死地に行く時は、声をかけろ」。
ナージャは声をかけなかった。自分が死地に行く時には。
ヴェインの右手が僅かに震えた。一瞬ではなかった。何度かの呼吸の間、震えは止まらなかった。
やがて、止まった。
自分で止めたのではない。震える力すら、底を突いたのだ。
ゼルヴァスが馬で駆けつけてきた。銀の甲冑は血と泥に汚れ、左頬に浅い切り傷がある。だが背筋は伸び、将軍の威厳は崩れていなかった。
「ヴェイン。帝国の全軍に降伏命令が出された。各戦線で投降が始まっている」
「そうか」
「勝ったぞ」
ヴェインはゼルヴァスの顔を見た。ゼルヴァスの目には、疲労と安堵と、そしてそれらの下に隠された計算があった。戦後の政治がもう始まっている。この男の頭の中では、帝国の降伏と同時に、次の盤面が動き始めているのだろう。
だが今は、それを考える気力がなかった。
「ナージャは」
ヴェインが問うた。
ゼルヴァスの表情が変わった。一瞬だけ、将軍ではなく一人の人間の顔になった。
「東の谷間で、山岳戦士の遺体が見つかった。五十名。全員が戦死。中心に、女族長と思われる——」
「わかった」
ヴェインは遮った。
それ以上聞く必要はなかった。聞けば、その光景が像を結んでしまう。今はまだ、それを受け止められる場所が自分の中にない。
ヴェインは空を見上げた。
灰白色の空。雲は低く、太陽は見えない。風だけがある。屍を跨いで吹く風。旗を揺らし、折れた槍を鳴らし、誰の耳にも届かない音を立てている。
これが勝利か、とヴェインは思った。
三年前、燃える首都を背に、十七名を連れて渓流を歩いた夜。あの夜から始まった全てが、ここに辿り着いた。帝国は倒れた。戦争は終わった。
だが、その道の上に、いくつの命が横たわっているか。ドルク。トマス。名も知らぬ兵たち。そして、ナージャ。
勝利は手の中にあった。だがその手は空だった。
握りしめたはずの何かは、指の隙間から砂のように零れ落ちて、もう残っていなかった。
ヴェインは剣を鞘に収めた。
戦場に背を向けず、その場に立ち続けた。灰色の外套の裾が、屍の海を撫でる風に揺れている。
三年前の冒頭と同じ姿だった。灰色の軍旗が風に翻る平原。無数の兵が倒れ伏す戦場の中央に立つ、一人の男。
だが軍旗を握る手はなかった。旗はとうに誰かの手に渡されていた。ヴェインの手は、ただ体の横に垂れ下がっていた。
静けさの中で、戦争が終わった。
祝福の声は、どこにもなかった。




