第十六話「灰色の軍旗」
王冠平野は、大陸の臍だった。
ガルドラント帝国の心臓部に広がるこの平原は、東西に八十里、南北に五十里。地平線が空と溶け合い、空の青と大地の茶が境目を失う。古来より、大陸の覇権を争う者たちがこの平野で雌雄を決してきた。王冠の名は、ここで勝った者が王冠を戴くからではなく、平野の中央にある緩やかな丘陵がぐるりと環状に連なり、上空から見れば王冠のように見えることに由来する。
その丘陵群の一つに、ヴェインは立っていた。
冬の朝陽が低く差し、枯れ草の平原を金色に染めている。吐く息が白く、鎧の表面に薄い霜が降りていた。風はなかった。大気は凍りついたように静まり、その静寂の中に、数万の人間が息を潜めている気配だけが、地面を通じて足の裏に伝わってきた。
「全軍、配置完了」
エリクの声が背後から届いた。遠話術で各部隊と連絡を取り終えた顔は、蒼白だった。だがその目には、疲労の奥に硬い覚悟が光っている。
「ナージャの山岳戦士、四百名。西方の丘陵群に展開完了。ゼルヴァスの正規軍、三千名。正面の平地に布陣。ヴェイン直率の精鋭、東方の窪地に五百名が待機。別動隊百名は予定通り迂回路に入っています。——それと」
エリクが一瞬、言葉を切った。
「ヨルグから最後の伝令が来ています。『仕込みは済んだ。あとは貴殿の采配次第』と」
ヴェインは頷いた。表情は変わらなかった。
平野の西方、朝靄の向こうに帝国軍の陣容が広がっている。黒地に金の鷲の軍旗が、数え切れないほど立ち並んでいた。推定二万。連合軍の総兵力四千余りの五倍。
だが、ヴェインが見ているのは兵の数ではなかった。
帝国軍の布陣は、完璧だった。中央に厚い歩兵陣。左右に騎兵を配し、後方には弩弓隊が段をなして並んでいる。そしてその最奥——丘陵群の一つを利用して築かれた陣地に、皇帝アウレクスの金の軍旗が翻っている。本陣だ。
本陣を守る布陣が、異様に厚い。
「ゲシュタインの仕事だ」
ヴェインは呟いた。
本陣の周囲には三重の防衛線が敷かれていた。第一線は壕と柵。第二線は弩弓陣地。第三線は皇帝直衛の重装歩兵。どこから攻めても、少なくとも三つの壁を突破しなければ皇帝には届かない。
しかも——防衛線の配置に偏りがなかった。正面だけでなく、側面も、背後も、等しく守りが固められている。
「本陣への奇襲を読んでいる」
ヴェインの声に、感情はなかった。
ゲシュタインは、ヴェインの三段階作戦を看破していた。陽動、正面攻撃、奇襲。その構造を分析し、最終段階の本陣奇襲に備えて防衛を固めている。大河の会戦から半年以上、あの男はヴェインの戦術を研究し続けてきた。その成果が、あの隙のない布陣に結晶していた。
「読まれることは、わかっていた」
ヴェインは振り返り、控えていた副官たちを見た。
「作戦に変更はない。第一段階を開始する。エリク、ナージャに合図を送れ」
* * *
帝国軍本陣。
ヴァルター・ゲシュタインは、陣地の高台から王冠平野を一望していた。
眼下に広がる帝国軍の陣容。その向こうに、朝陽を背にした連合軍の布陣が見える。数は帝国の五分の一にも満たない。常識で言えば、勝負にならない兵力差だった。
だが、ゲシュタインの目に油断はなかった。
傍らの戦卓に、一冊の書類の束が置かれている。「"灰色の狼"に関する戦術分析」。ラーデン峡谷の戦い以来書き続け、今や四十頁を超えた記録。大河の会戦の後に書き加えた一文が、ゲシュタインの脳裏に浮かんだ。
六、二正面作戦。主戦場での戦闘と並行して、別動隊による兵站攻撃を仕掛ける能力。戦場の外で勝負を決める志向。
この男は、戦場で戦わない。いや、戦場でも戦うが、勝敗を決する一手は常に戦場の外にある。補給の橋を落とし、偽情報を流し、調略で敵の将校を買収する。剣と盾ではなく、情報と謀略で戦争に勝つ男だ。
「だからこそ、戦場で決着をつけさせる」
ゲシュタインは副官に向かって言った。
「灰色の狼の三段階作戦は読めている。第一段階は北嶺の山岳戦士による側面陽動。第二段階はゼルヴァスの正規軍による正面攻撃。第三段階は灰色の狼自身が率いる精鋭による本陣奇襲」
ゲシュタインの指が地図の上を動いた。
「陽動で我が軍の注意を側面に引きつけ、正面攻撃で主力を拘束し、その隙に少数精鋭が本陣を突く。古典的だが、実行力があればこれほど厄介な策はない。特にこの男の場合、陽動すら本気の攻撃と見分けがつかない」
「対策は」
「本陣の防衛を三重にした。いかなる方向からの奇襲にも対応できる。そして、陽動と正面攻撃には必要最小限の兵力で対処し、主力を温存する。灰色の狼が本陣に到達した時、万全の状態で迎え撃つ」
ゲシュタインはペンを取り、分析記録に新たな一行を書き加えた。
七、この男は必ず「もう一手」を隠している。上記の三段階に加え、第四の策があると想定すべし。警戒すべきは、戦場の外から来る一手。
書きながら、ゲシュタインは己の分析の限界を自覚していた。第四の手が「ある」ことは予測できる。だが、それが「何か」を特定できない。情報工作か、兵站攻撃か、味方への調略か——可能性は無限にある。すべてに備えることはできない。
「可能性の多さそのものが、この男の武器か」
ゲシュタインは水盤を覗き込んだ。連合軍の陣容が水面に映っている。その中央に灰色の軍旗が一本。風のない朝に、垂れ下がったまま動かないその旗を、ゲシュタインはしばらく見つめていた。
「来い、灰色の狼。お前の知略のすべてを受けて立つ」
* * *
角笛が鳴った。
西方の丘陵群から、ナージャの山岳戦士たちが帝国軍の右翼に向かって殺到した。
四百の戦士が斜面を駆け下りてくる。鎧はない。毛皮と革の軽装。だがその速度は、正規軍の歩兵の倍以上だった。山岳を駆ける者たちの脚力が、平地では凶器になる。岩を跳ぶように地面を蹴り、叫びを上げながら帝国の陣列に突き込んだ。
ナージャが先頭にいた。
短槍を振るい、帝国の歩兵の盾をすり抜けて脇腹を突く。盾の上から叩くのではなく、盾の下を潜る。正規軍の戦法にはない動き。帝国兵が対応する前に次の一撃が来る。
「北嶺の狼ども、吠えろ!」
ナージャの叫びが戦場を裂いた。山岳戦士たちが応えるように雄叫びを上げた。それは声というよりも、山の獣の咆哮に近かった。
帝国の右翼が動揺した。正面から来ると想定していた攻撃が、側面から来た。しかも、正規軍とはまったく異なる戦闘様式に、対応が遅れた。
ゲシュタインの陣地から、伝令が飛んだ。
「右翼、陣形を維持せよ。追撃するな。これは陽動だ」
的確な判断だった。ゲシュタインは最初から、山岳戦士の攻撃を陽動と読んでいた。追撃すれば陣形が崩れる。崩れた隙を本隊に突かれる。だから動かない。
ナージャは歯を剥いた。
帝国軍が崩れない。押し込んでいるのに、陣形が動かない。追撃してこないから、誘い出せない。
「——読まれているな」
ナージャは短槍の血を払いながら呟いた。ヴェインの言葉が蘇った。決戦の前夜、最後の確認の場でヴェインは言った。
「ゲシュタインは陽動を陽動と見抜く。それでいい。お前の仕事は、帝国の右翼を釘付けにすることだ。崩さなくていい。動けなくすればいい」
帝国の右翼は動けなかった。山岳戦士の突撃を無視すれば側面を食い破られる。かといって追撃すれば陣形が崩れる。ナージャの攻撃は、帝国の右翼を守勢に縛りつけていた。
第一段階は、機能していた。
* * *
角笛が二度、鳴った。
ゼルヴァスの正規軍三千が、正面から前進を開始した。
歩兵が縦隊から横隊に展開し、長槍の穂先を揃えて進む。鎧が朝陽を反射して光の波が走り、軍靴が大地を踏む音が平原を震わせた。
ゼルヴァスは馬上から帝国軍の陣容を見据えていた。
正面の帝国歩兵は八千。三千で八千に挑む。数の上では無謀だが、ゼルヴァスは無策で前進しているわけではなかった。
「全軍、三列横隊を維持。第一列、弩弓射撃。第二列、槍衾。第三列、予備。間隔を詰めろ。密集陣で正面の幅を狭めるんだ」
ゼルヴァスの戦術は、正統派の軍学に基づいていた。密集陣で正面を狭め、帝国軍の数的優位を封じる。平地では密集陣は騎兵に弱いが、帝国の騎兵は左右に配置されており、正面には歩兵しかいない。正面の歩兵戦であれば、練度の高いレスヴァール正規軍は帝国兵と互角に渡り合える。
帝国軍の前線が反応した。弩弓隊が前に出、矢の雨が連合軍に降り注いだ。盾を掲げた第一列の兵が矢を受け止め、その隙間から連合軍の弩弓が反撃する。矢と矢が空中で交錯し、大地に無数の柄が突き立っていく。
「怯むな! 前進!」
ゼルヴァスの声が戦場に轟いた。
両軍の歩兵が衝突した。槍と槍がぶつかり、盾と盾が軋み、金属と金属が打ち合う轟音が平原を揺るがした。埃が舞い上がり、視界が黄色く霞んだ。その帳の中で、人と人が殺し合っていた。
ゲシュタインは本陣から戦況を見ていた。
「正面攻撃。第二段階だ」
予想通りだった。陽動で右翼を釘付けにし、正面攻撃で主力を拘束する。ゲシュタインの分析と寸分も違わない展開。
だからこそ——次が来る。
「全防衛線に伝令。最大警戒態勢。灰色の狼の精鋭が来る。方向は不明。いかなる方向から来ても対応できるよう、各線の兵は持ち場を離れるな」
ゲシュタインの目が、戦場の全体を走査した。右翼の山岳戦士。正面のレスヴァール軍。だが、灰色の狼の旗はまだ見えなかった。
「どこにいる」
* * *
ヴェインは、東の窪地にいた。
五百の精鋭と共に、戦場の喧騒を遠くに聞きながら、動かなかった。残りの百名は、夜明け前にヨルグの手引きで別の経路に送り出してある。
エリクが遠話術で戦況を伝え続けていた。
「第一段階、継続中。ナージャの戦士隊、帝国右翼を拘束。第二段階、ゼルヴァスの正規軍が帝国中央と交戦中。損害は想定内。——ゲシュタインの本陣、動きません。防衛態勢を維持しています」
「予想通りだ」
ヴェインは地図を見ていた。帝国軍の布陣が頭の中に浮かぶ。ゲシュタインの防衛線。三重の壁。あらゆる方向に備えた隙のない陣形。
五百でこれを突破するのは、不可能に近い。
ゲシュタインは第三段階を読み切っている。本陣への奇襲を予見し、完璧に備えている。ヴェインがどの方角から突入しても、弩弓の雨と重装歩兵の壁に阻まれる。
だが——ヴェインの三段階作戦は、三段階で完結するものではなかった。
「エリク。ヨルグの仕込みの状況は」
エリクが遠話術の糸を別の方向に伸ばした。数秒の沈黙。
「ヨルグの連絡員から応答あり。——『種は蒔いた。水はやった。芽が出るかは、畑に火が入った時にわかる』」
ヴェインの口元が、微かに動いた。笑みではなかった。だが、凍りついていた表情の中で、何かが解けるような一瞬だった。
「第三段階を開始する」
ヴェインは立ち上がった。
五百の精鋭が、一斉に立ち上がる。全員が軽装だった。鎧を最小限にし、速度を最大にしている。携えているのは短剣と投槍。長距離を駆け抜け、一点を突破するためだけに編成された部隊。
「目標は帝国本陣——の南東」
副官が一瞬、怪訝な顔をした。本陣ではなく、その南東。
「ゲシュタインの防衛線は本陣を中心に三重に敷かれている。正面から突っ込めば弩弓で削られ、壁に止められ、消耗して終わる。だから正面からは行かない」
ヴェインの指が地図の上を走った。
「南東の丘陵を迂回し、防衛線の第一線と第二線の結節点を突く。結節点は防衛線が折れ曲がる地点で、正面よりも守備が薄い。ここを突破して、第二線と第三線の間に入り込む」
「入り込んだところで、第三線の重装歩兵に挟撃されます」
「そうだ。普通ならそこで詰む」
ヴェインは地図から顔を上げた。
「だが、第三線が崩れれば話は別だ」
* * *
ゲシュタインは、戦場に最初の異変を感じた。
連合軍の精鋭部隊が東から姿を現した。灰色の軍旗が揺れている。五百ほどの軽装兵が、帝国本陣の南東に向かって疾走していた。
「来たか」
ゲシュタインの声は落ち着いていた。予想通りの展開だった。
「第一防衛線の南東区画に増援を出せ。弩弓隊は射撃準備。灰色の狼の部隊を防衛線の外で止める」
だが、ヴェインの部隊は正面に向かってこなかった。南東の丘陵の裾を回り込み、防衛線の結節点——第一線と第二線が接続する角の部分に殺到した。
「結節点を狙っている」
ゲシュタインの目が鋭くなった。防衛線の弱点を正確に突いてきた。だが、想定の範囲内だ。結節点にも予備兵力は配置してある。
「南東結節点の予備隊、前進。結節点を死守せよ」
ヴェインの精鋭が結節点に取りついた。投槍が飛び、柵が破られ、白兵戦が始まった。五百の軽装兵と、二百の帝国守備兵が、防衛線の折れ曲がりで激突した。
ヴェインは先頭にいた。
短剣を振るい、帝国兵の槍を弾いて懐に飛び込む。背後の兵が柵を乗り越え、防衛線の内側に侵入していく。
「突破口を開け! 止まるな!」
ヴェインの声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
結節点が崩れた。五百の精鋭が防衛線の第一線を突破し、第一線と第二線の間の空間に殺到する。
ゲシュタインは冷静だった。
「第二線、射撃開始。侵入した敵を第一線と第二線の間で殲滅する」
弩弓の矢が、第二線の陣地から注がれた。ヴェインの精鋭が次々に倒れた。開けた空間に飛び出した軽装兵は、弩弓の的だった。
ヴェインの部隊は第二線に取りつこうとしたが、弩弓の射撃と重装歩兵の壁に阻まれた。突破した結節点からは帝国の予備隊が逆襲し、退路も狭まっていく。
第一線と第二線の間に入り込んだヴェインの部隊は、袋の中のネズミだった。
ゲシュタインは分析記録のあの一文を思い出した。この男は必ず「もう一手」を隠している。
「第四の手は、まだ来ていない」
ゲシュタインは戦場の全体を見回した。右翼の山岳戦士。正面のレスヴァール軍。南東で防衛線に侵入した灰色の狼。三段階のすべてが展開されている。だが、決定打がない。
第四の手は何だ。どこから来る。外から来るのか——
その時、第三防衛線の背後で、喧騒が上がった。
ゲシュタインが振り返った。
本陣の西側を守る第三線——皇帝直衛の重装歩兵の陣列が、内側から崩れ始めていた。
「何が起きている」
伝令が駆け込んできた。顔面蒼白で、声が裏返っていた。
「第三線西方区画の守備隊——ホルスト隊千人長以下三百名が、陣地を放棄。皇帝陛下の本陣に背を向けて撤退を開始しました」
ゲシュタインの時間が、止まった。
内部からの崩壊。味方の離反。三段階のどの段階にも属さない、戦場の外で仕掛けられていた一手。
調略だった。
「——いつの間に」
声が漏れた。
ゲシュタインの脳裏に、分析記録の一文が火のように蘇った。戦場の外で勝負を決める志向。
ヨルグ。あの情報商人の手だ。帝国軍の内部に入り込み、将校を買収していた。ホルスト隊千人長——粛清の際に家族を失ったという噂があった男だ。皇帝への忠誠に亀裂が入っていた者を、ヨルグは嗅ぎ出し、ヴェインは使った。
第三線に穴が開いた。三重の防衛線のうち、最も重要な最終線に。しかも内側から。
ゲシュタインは瞬時に状況を計算した。第三線の穴を塞ぐために予備兵力を回せば、第二線が手薄になる。第二線が薄くなれば、今まさに第一線と第二線の間に入り込んでいる灰色の狼の部隊が第二線を突破する。
三段階の作戦は、第四の手を発動させるための「圧力」だった。ゲシュタインの注意と兵力を三方向に分散させ、第三線の内部崩壊に対応する余力を奪う。正面も、側面も、奇襲も、すべてが陽動だった。勝負は——戦場に火が入る前に、決まっていた。
「予備隊を第三線の穴に向かわせろ! ホルスト隊の離脱を食い止めろ!」
ゲシュタインの命令が飛んだ。だが、遅かった。
第三線の穴を突いて、ヴェインが夜明け前に分派し、ヨルグの手引きで戦場の裏を迂回させていた別動隊百名が、穴から本陣に向かって殺到していた。
同時に、第二線の守備が動揺した。背後の第三線が崩れたことで、挟撃を恐れた守備兵の動きが鈍る。
「第二線、突破する!」
ヴェインの声が響いた。
弩弓の射撃が緩んだ一瞬を逃さなかった。ヴェインの精鋭が第二線の柵に取りつき、柵を倒し、陣地に殺到した。帝国の守備兵は前からのヴェインの部隊と、背後から迫る別動隊の気配に挟まれ、陣形を維持できなくなった。
第二線が崩れた。
そして第三線の穴から侵入した別動隊と、第二線を突破したヴェインの本隊が、帝国本陣を囲む最後の壁に合流した。
ゲシュタインは剣を抜いた。
* * *
最後の防衛線が崩壊する中、ゲシュタインは本陣の前に立っていた。
皇帝アウレクスの天幕の前。金の鷲の軍旗が風に翻っている。周囲には直衛の兵が残っているが、組織的な抵抗はもはや不可能だった。
ゲシュタインの前に、灰色の外套を纏った男が歩いてきた。
ヴェイン・レヴェナス。
短剣を右手に提げ、左手は空いている。鎧の肩当てが砕け、額から血が流れていた。だがその足取りは確かで、眼は静かだった。大河の会戦で見た、あの冷徹な光。
二人の間に、十歩の距離があった。
「ゲシュタイン」
ヴェインが呼んだ。
「お前の防衛線は完璧だった。三段階のすべてを読み切り、備えていた。俺が知る限り、お前の分析力に匹敵する将は他にいない」
ゲシュタインは剣を構えたまま、ヴェインを見た。
「だが、お前は俺の三段階を読みながら、第四の手を特定できなかった。お前の分析は、戦場の上で完結している。俺の戦は、戦場の外から始まっている。そこが、お前と俺の違いだ」
ゲシュタインの唇が、微かに動いた。
「知っていた」
その声は、敗北者の声ではなかった。
「お前が戦場の外で勝負を決める男だということは、大河の会戦で学んだ。分析記録にも書いた。だが——」
ゲシュタインの目が、ヴェインの眼を正面から捉えた。
「書いたところで、防ぎきれぬこともある。お前の第四の手は、戦場が始まる前に、もう打たれていた。戦場で待ち構える者は、戦場の前に動く者には勝てない。それが、今日の教訓だ」
ゲシュタインは剣を下ろした。
地面に、刃が突き立った。
「見事だ——灰色の狼」
その声は静かだった。怒りも、屈辱も、滲んでいなかった。純粋な敗北の承認だった。戦術家として、自分より上の知略に敗れたことを、この男は正面から受け止めていた。
ヴェインは立ち止まった。
ゲシュタインを見つめた。この男と戦ったのは、大河の会戦が最初だった。あの時、ゲシュタインは罠を半ば看破し、完全な包囲を許さなかった。その後も、ヴェインの戦術を研究し、対抗策を編み出し、今日も三段階のすべてを読み切った。この男がいなければ、帝国軍はもっと早くに崩れていた。
「ゲシュタイン」
ヴェインの声が低くなった。
「お前と戦うたびに、俺は強くならざるを得なかった。お前がいなければ、この策は生まれなかった」
それは真実だった。第四の手——調略による内部崩壊という策は、ゲシュタインの分析力が高すぎるがゆえに生まれた手だった。正面からの知略ではこの男に勝てないと悟ったからこそ、戦場の外に活路を求めた。敵が自分を強くしたのだ。
ゲシュタインは微かに口元を緩めた。それは笑みと呼べるかどうかもわからない、わずかな変化だった。
「皇帝陛下の天幕はあの奥だ。行け」
ヴェインは頷き、ゲシュタインの脇を通り過ぎた。
ゲシュタインは振り返らなかった。地面に突き立てた剣の柄に手を置いたまま、戦場を見ていた。まだ正面では交戦が続いている。だが、本陣が落ちたことが伝われば、帝国軍は瓦解する。
長い戦争が、終わろうとしていた。
* * *
その頃、西方の丘陵では、ナージャの戦いが佳境を迎えていた。
第一段階の陽動は成功し、帝国の右翼は釘付けになった。だが戦況は、ナージャにとっても刻一刻と変わりつつあった。
帝国の右翼は、陽動だと理解しながらも追撃しなかった。それはゲシュタインの指示だった。陽動を受け流しつつ、山岳戦士を丘陵地帯に深入りさせる。そしてその裏で——何かが動いている気配を、ナージャの野生の勘が捉えていた。
丘陵の影に、帝国の騎兵の旗が見え隠れしていた。
伏兵だ。ゲシュタインは陽動を「許していた」のだ。
ナージャは歯を剥いた。罠の輪郭が見え始めていた。このまま深入りすれば、帝国の右翼歩兵と伏兵の騎兵に挟撃される。四百の山岳戦士のうち、既に百近くが帝国の右翼との交戦で倒れている。残る三百で、この罠を食い破りながら撤退しなければならない。
壮絶な戦いが、始まろうとしていた。
* * *
王冠平野の夕暮れ。
帝国の本陣が陥落したことが戦場に伝わると、正面で交戦していた帝国軍の抵抗は急速に崩れた。ゼルヴァスの正規軍が帝国中央を突破し、敗走する帝国兵を追撃した。
ヴェインは皇帝の天幕の前に立っていた。
金の鷲の軍旗が、傾く陽に照らされて赤黒く光っている。天幕の入口の布が、風に揺れていた。
エリクが駆け寄ってきた。
「ヴェイン。ナージャの部隊が——西方丘陵で帝国の伏兵と交戦中です。追撃騎兵に捕捉されて、撤退路を断たれつつあります」
ヴェインの足が止まった。
皇帝の天幕まで、あと五歩だった。
ヴェインは西の空を見た。茜色の空の下、丘陵の稜線が黒い影として浮かんでいる。あの丘のどこかで、ナージャが戦っている。
「救援を出せるか」
「正面の掃討が終わるまで兵力を割けません。最短でも、二刻はかかります」
二刻。ナージャの戦士たちが、二百の帝国兵を相手に二刻持ちこたえられるか。
ヴェインの拳が握りしめられた。
ドルクの声が、耳の奥に蘇った。
「正しいだけじゃ、人はついてこない」
ヴェインは目を閉じ、一つ息を吐いた。
「二刻で救援を出す。それまでナージャが持ちこたえると信じろ。——今は、皇帝と決着をつける」
ヴェインは天幕の布を開けた。
暗い天幕の奥に、一人の男が座っていた。
皇帝アウレクス・ガルドラント。五十年の人生で大陸の半分を征服した覇王が、玉座ではなく質素な折り畳み椅子に腰かけ、入ってきた灰色の狼を見つめていた。
その場面は、次の戦いに続く。
だがこの瞬間——灰色の軍旗が王冠平野の丘陵に翻った瞬間が、三年の戦いの帰結だった。
灰の中から立ち上がった男が、大陸最強の帝国を、戦場の外から崩した日。
ヴェルン河の一兵卒が、皇帝の前に立った日。
その日、王冠平野に吹いた風は、血と煙の匂いを運んでいた。だがその風の中に、季節はずれの土の匂いが混じっていたことを、後に語る者がいた。
凍てついた大地の下で、何かが芽吹こうとしている匂いだったと。




