第十五話「最後の盟約」
決戦の三日前だった。
連合軍の野営地は、嵐の前の奇妙な静けさに包まれていた。鍛冶場から響く槌音も、兵たちの訓練の声も、どこか遠い。空気の底に、重く湿った何かが溜まっている。誰もが知っていた。次の戦いが、最後になると。
ヴェインは本陣の天幕で地図を睨んでいた。王冠平野の地形図。帝国軍の推定配置。補給路。退路。三段階の作戦の骨格は既に頭の中にあった。だが、まだ足りない。ゲシュタインは大河の会戦以降、ヴェインの戦術を徹底的に分析しているはずだ。こちらの手を読んだ上で、その上を行く一手が必要だった。
朱墨を持つ指が止まったのは、天幕の外に馬蹄の音を聞いた時だった。
一騎。護衛を伴わない蹄音。ヴェインにはそれが誰か、音だけでわかった。
天幕の布が開き、ゼルヴァス・グレインが入ってきた。
レスヴァール王国の将軍は、軍装を解いた平服姿だった。公式の訪問ではない。それだけで、用件の性質が知れた。
「座れ」
ヴェインは地図から目を上げずに言った。
「酒はないが、水ならある」
「水でいい」
ゼルヴァスは天幕の隅に腰を下ろした。革張りの折り畳み椅子が、大柄な身体の下で軋んだ。ヴェインが木の杯に水を注ぎ、差し出す。ゼルヴァスはそれを受け取ったが、口をつけなかった。
沈黙が落ちた。
ヴェインは地図に視線を戻した。だが朱墨は動かなかった。ゼルヴァスの沈黙が、普段と違う色をしていた。言うべきことを言えずにいる男の沈黙だった。
「何だ」
「ヴェイン」
ゼルヴァスの声は低く、硬かった。
「戦の話ではない。戦の後の話だ」
ヴェインの手が止まった。朱墨を持ったまま、初めてゼルヴァスの顔を正面から見た。
将軍の顔には疲労があった。ここ数ヶ月の戦闘の疲労ではない。もっと長い時間をかけて積もった、別種の疲弊。ヴェインはそれを見て、何が来るかを半ば理解した。
「言え」
「帝国を倒した後——レスヴァール王国は、ヴェルナの独立を認めない」
声は平坦だった。感情を殺していた。だがゼルヴァスの顎が強張っているのを、ヴェインは見逃さなかった。
「ヴェルナ公国領は、レスヴァール王国の保護領として再編される。公女ルシア殿下には王家との婚姻を提案し、形式上の自治は残すが、軍事と外交の権限は王国が掌握する。王命だ」
天幕の中の空気が、一瞬で凍った。
ヴェインは動かなかった。朱墨を持った手も、地図を見つめる目も。だが、指先が白くなっていた。朱墨の軸が軋む音が、静寂の中で細く鳴った。
「——いつからだ」
「王の密命が下りたのは、二ヶ月前だ。帝国との戦が佳境に入り、勝利の目が見えた時点で」
「勝てるとわかった途端に、戦利品の分け方を決めたわけだ」
ヴェインの声に感情はなかった。なさすぎた。
「ヴェイン——」
「俺たちは何のために戦っている」
朱墨が折れた。
ヴェインの指が、無意識に力を込めていた。朱い墨が指を染め、地図の上に滴が落ちた。王冠平野の中央に、赤い染みが広がった。
「ヴェルナを取り戻すためだ。帝国に滅ぼされた祖国を、もう一度立て直すためだ。そのために何人が死んだ。何人を俺は死なせた」
声の温度が上がっていた。ヴェインが感情を制御できなくなる場面を、ゼルヴァスは初めて見た。
「ドルクは——あいつはヴェルナのために血を流したんだ。今もあの天幕で死にかけている。それが、お前たちの属国になるためだったと言うのか」
ヴェインが立ち上がった。折り畳みの卓が揺れ、地図の端が崩れた。
ゼルヴァスは立ち上がらなかった。ヴェインの怒りを正面から受けた。目を逸らさなかった。
「俺は——望んでいるわけではない」
「だが従う」
「王命だ」
「それが貴族の言い訳か」
ヴェインの声が刃のように切り裂いた。ゼルヴァスの表情が一瞬、歪んだ。
「言い訳ではない」
ゼルヴァスの声が低く震えた。怒りなのか苦痛なのか、本人にもわからない震えだった。
「俺は軍人だ。王に仕える者だ。王命に逆らうことは——俺の生き方のすべてを否定することになる。お前にはわからんだろう。お前は誰にも仕えたことがない。だから自由に戦える。だが俺は違う」
「自由だと思うか、これが」
ヴェインは自分の手を見下ろした。朱墨に染まった指。その下には、もっと洗い落とせない色が染みついている。
二人の間に、長い沈黙が降りた。
天幕の外から、兵たちが薪を割る音が聞こえた。遠くで馬が嘶いた。日常の音だ。だがこの天幕の中だけが、日常から切り離されていた。
「——お前が俺なら、どうする」
ヴェインが訊いた。怒りが引いた後の声は、乾いていた。
「お前が俺の立場で、今の話を聞いたら」
ゼルヴァスは答えなかった。長い間。
「王命を拒むだろうな」
静かに言った。
「そしてすべてを失うだろう。俺にはその覚悟がない。お前にはある。だからお前は——俺にはなれない」
ヴェインはゼルヴァスを見た。ゼルヴァスもヴェインを見た。
二人の視線が交差した場所に、友情と敵意と、互いへの敬意と、どうしようもない立場の断絶があった。
「まず帝国を倒す」
ヴェインが言った。
「その後のことは、その後に決める」
「それは——」
「お前の王が何を考えていようが、帝国が滅びなければ何も始まらない。俺はまず、目の前の敵を倒す。それだけだ」
ゼルヴァスは目を閉じた。
「苦い盟約だ」
「最初から甘かったことなど一度もない」
ヴェインは卓の上の折れた朱墨を拾い、天幕の隅に投げた。赤い軸が布の壁に当たり、乾いた音を立てて転がった。
「決戦の配置を詰める。座れ、ゼルヴァス。お前の正規軍が第二段階の要だ」
ゼルヴァスは目を開けた。立ち上がり、卓の前に歩み寄った。
二人は、新しい地図を広げた。赤い染みのない、まだ何も書き込まれていない白い地図を。
その上に、互いが互いの敵になる未来を承知した二人の男が、最後の共同作戦を描き始めた。
* * *
夜が更けていた。
ゼルヴァスが去った後、ヴェインは一人で天幕にいた。地図の上に引いた線を見ていたが、何も見えていなかった。頭の中を、ゼルヴァスの言葉が何度も巡っていた。
属国。保護領。王命。
ヴェルナは、帝国から解放されても自由にはならない。主人が変わるだけだ。ヴェインが血を流し、仲間を死なせ、祖国の大地を自らの手で焼いてまで勝ち取るものは——別の鎖だった。
ドルクの顔が浮かんだ。
ヴェインは天幕を出た。
* * *
野営地の東の端に、ドルクの天幕はあった。
本陣から離れた場所に置かれているのは、重傷者の天幕が並ぶ区画だからだ。呻き声が低く流れている。松明の灯りが不規則に揺れ、天幕の布に影を落としていた。
入口を開けると、薬草の匂いと、もっと重い匂いが鼻を衝いた。死が近づいている匂いだ。戦場で何度も嗅いだ。ヴェインの鼻はそれを間違えなかった。
ドルクは横たわっていた。
大河の会戦の直後に比べれば、痩せていた。あの太い腕も、鬼神と呼ばれた身体も、五ヶ月の病床で削られていた。顔の肉が落ち、頬骨が浮き出ている。肌の色は灰色がかった白で、唇に血の気がなかった。
だが、目は開いていた。
「——よう」
声は掠れていた。かつて隘路に轟いた怒号の面影はない。息を吸うたびに胸が苦しげに上下する。
「起きていたのか」
「寝てばかりで飽きた」
ヴェインは天幕の中に入り、ドルクの寝台の脇に腰を下ろした。木の箱が椅子代わりに置いてある。誰かが日常的にここに座っていた形跡があった。エリクだろう、とヴェインは思った。
「ゼルヴァスが来ていたな」
ドルクが言った。
ヴェインは驚かなかった。ドルクは動けなくとも、耳と勘は健在だった。
「ああ」
「悪い話か」
「悪い話だ」
ヴェインは多くを語らなかった。だがドルクは、それで十分だった。
「お前の顔を見りゃわかる。朱墨がついてるぞ、指に」
ヴェインは自分の右手を見た。確かに、赤い染みが指先に残っていた。暗がりでは血と区別がつかなかった。
「——戦の後に、もう一つ戦が待っている」
それだけ言った。
ドルクは天井を見上げた。天幕の布越しに、夜空は見えない。だが、この男には見えているのかもしれなかった。
「ヴェイン」
「何だ」
「お前、最近——笑ったか」
ヴェインは答えなかった。
「焦土をやった頃から、お前の顔を見てると息が詰まるんだ。戦場の話じゃねえ。お前自身の話だ」
ドルクが寝台の上でわずかに身体を動かした。痛みが走ったのか、顔を顰めた。だが構わず続けた。
「お前は正しい。いつだってそうだ。判断は正しい。作戦は正しい。決断は正しい。——だがな、ヴェイン」
ドルクの目がヴェインを捉えた。その目には、熱があった。衰えた身体に残った、最後の種火のような光。
「正しいだけじゃ、人はついてこない」
ヴェインは黙っていた。
「お前の周りに集まった連中はな、お前の正しさについてきたんじゃねえ。お前を信じたからついてきたんだ。信じるってのは、正しさとは違う。もっと——理屈じゃねえもんだ」
ドルクの手が動いた。寝台の縁に置かれた手が、わずかに持ち上がった。だが、ヴェインに届く前に力が尽き、布の上に落ちた。
「笑え、ヴェイン」
その声は静かだった。命令でも懇願でもなかった。もっと深い場所から出てきた言葉だった。
「お前が笑えば、あいつらは走れる。お前が笑えば、こいつらは死ねる。お前が笑えば——俺は、安心して眠れる」
最後の言葉は、吐息に混じって消えかけた。
ヴェインはドルクの顔を見ていた。痩せて、灰色になって、かつての豪胆な兄貴分の面影がほとんど消えた顔。だがその目だけは、エルスト駐屯地の食堂で麦粥を食いながら軽口を叩いていた頃と変わらなかった。
「——努力する」
ヴェインの声は平坦だった。だが、その平坦さを保つために、どれだけの力が要ったか。ドルクにはわかっていた。
「嘘くせえな」
ドルクが笑った。口元だけの、小さな笑みだった。
「だがまあ——お前の嘘は昔から下手だ。だから信用できる」
ヴェインは何も言わなかった。
ドルクの目が閉じた。呼吸が穏やかになった。眠りに落ちたのか、意識が遠のいたのか。ヴェインはしばらくその寝顔を見ていた。
三年前の朝を思い出していた。エルスト駐屯地。木の匙。薄い粥。ドルクの軽口。あの朝は温かかった。粥よりも。春の風よりも。あの食堂に満ちていた笑い声が、温かかった。
もう二度と戻らない朝だった。
ヴェインは立ち上がった。天幕を出ようとして、足を止めた。振り返り、ドルクの寝顔をもう一度見た。
「——明日も来る」
返事はなかった。
* * *
その夜、ドルク・ハーゲンは息を引き取った。
報せを持ってきたのはエリクだった。夜半を過ぎた頃、本陣の天幕に飛び込んできた。何か言おうとしていた。だが言葉が出てこなかった。その顔を見た瞬間、ヴェインにはすべてがわかった。
天幕に着いた時、ドルクの顔は穏やかだった。
苦痛の跡はなかった。眠るように逝ったのだと、付き添っていた衛生兵が言った。最期に何か呟いたが、聞き取れなかったと。
ヴェインはドルクの寝台の脇に立った。
ドルクの手に触れた。まだ温かかった。だがそれは、これから冷えていく温度だった。
天幕の中にはエリクとルシア、そして古参の兵が数人いた。誰も声を出さなかった。
ヴェインの右頬を、一筋の涙が伝った。
それだけだった。声も出さなかった。表情も崩さなかった。ただ一筋。左の目は乾いたままだった。まるで身体の半分だけが泣いているようだった。
ヴェインはドルクの手を離した。
手の甲で頬を一度だけ拭い、振り返った。天幕の中にいる全員の顔を見た。
その眼は、乾いていた。泣いた痕跡すら、既に消えていた。
「——明朝、全軍の指揮官を本陣に集めろ」
声は揺れなかった。
「決戦の最終確認を行う」
エリクが口を開きかけた。何か言いたかった。だが、ヴェインの眼を見て、飲み込んだ。今この男にかける言葉は、この世に存在しなかった。
ヴェインは天幕を出た。
夜空には星が出ていた。冬の乾いた空気が、肺を刺すように冷たかった。遠くの篝火が、野営地の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
ヴェインは歩いた。本陣に向かって。一歩一歩が正確で、揺れはなかった。
その背中を、天幕の入口からルシアが見ていた。言葉をかけようとして、やめた。今のヴェインに触れれば、壊れるか、壊すか、どちらかだと直感が告げていた。
ヴェインは本陣の天幕に入り、地図の前に座った。
朱墨の染みが残った地図を脇にどけ、新しい地図を広げた。ゼルヴァスと描き始めた、最後の作戦図。その上に、新しい線を引き始めた。
手は震えなかった。
頭は冴えていた。むしろ、異常なほど冴えていた。ドルクがいない戦場。あの男が前線で稼いでいた時間と士気の欠落を、戦術で埋めなければならない。
笑え、とドルクは言った。
今は笑えない。だが、勝つことならできる。勝って、その先に何があるかわからなくても。帝国を倒した後にゼルヴァスと戦うことになっても。ヴェルナが属国になる未来が待っていても。
まず、目の前の敵を倒す。
ドルクが最後に見た自分の顔が、泣き顔でなかったことだけが、唯一の救いだった。
朱墨が地図の上を走った。線が引かれ、矢印が描かれ、数字が書き込まれていく。ナージャの山岳戦士。ゼルヴァスの正規軍。ヴェイン直率の精鋭。三つの刃を、一つの目標に向けて束ねる。
そしてその裏に、ゲシュタインが読み切れない四つ目の手を仕込む。
夜明けまでに、作戦は完成していた。
ヴェインは地図を見下ろした。三段階の作戦が、朱墨の線で描かれている。その線の一本一本が、人の命でできている。ドルクが命を賭けて稼いだ時間の上に、この作戦がある。
天幕の布の隙間から、東の空が白み始めていた。
ヴェインは立ち上がった。
明日——もう今日だ。今日から、最後の戦いが始まる。
ドルクの声が、耳の奥に残っていた。「笑え、ヴェイン」。あの掠れた声が、消えない。消す必要もない。この声を、最後の戦場まで持っていく。
天幕を出た。
朝の冷気が頬を打った。野営地では兵たちが起き出し、朝の支度を始めていた。薪を割る音。水を汲む音。鎧を締める金属音。
ヴェインは深く息を吸い、吐いた。
そして、本陣に向かう兵たちの前を、まっすぐに歩いた。




