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第一話「灰の中の眼」

 灰色の軍旗が、風に翻っていた。


 見渡す限りの平原に、無数の兵が折り重なるように倒れ伏している。


 馬も、槍も、盾も、すべてが泥と血に塗れて大地に沈んでいた。


 煙が低く這い、空を灰褐色に染めている。


 その中央に、一人の男が立っていた。


 後ろ姿だけが見える。痩せた肩。


 刃こぼれだらけの剣を下げた右腕。


 左手は軍旗の柄を握りしめ、指の関節が骨のように白く浮き上がっている。


 灰色の外套の裾が、屍の海を撫でる風に揺れている。


 これは、灰の中から立ち上がり、すべてを賭けて戦い、そしてすべてを失った男の記録である。


        * * *


 三年前。ヴェルナ公国、エルスト駐屯地。


 「ヴェイン、お前の飯の食い方は葬式みたいだな」


 ドルク・ハーゲンが、木の匙で麦粥を掬いながら言った。


 三十を越えた古参下士官の声は野太く、粗末な食堂の壁に響く。


 「噛む回数が決まってるのか。数えてるだろう、今」


 「十八回」


 ヴェイン・レヴェナスは粥を飲み込んでから答えた。


 「顎が疲れない回数で、かつ消化に支障がない最低限だ」


 周囲の兵士たちが笑った。


 歩兵第三連隊の第四小隊、二十三名。


 農家の三男や、職人の次男や、食い詰めた孤児たち。ヴェルナ公国軍の最下層を構成する、名もなき兵たち。


 「お前はそういうところが気味悪い」


 ドルクが笑いながら粥を口に運ぶ。


 「だが嫌いじゃない」


 春の朝だった。


 食堂の窓からヴェルン河の朝靄が見える。河風が麦畑を渡る匂い。鍛冶場から聞こえる鉄を打つ音。遠くで子どもの声がした。


 粥は薄かったが温かかった。木の匙がぶつかる音と、兵たちの笑い声が食堂を満たしていた。


 穏やかな、ありふれた朝だった。


 この日常が、あと七日で消えることを、誰も知らなかった。


        * * *


 帝国が来た。


 開戦の知らせは、前線の砦が陥落した後に届いた。


 ガルドラント帝国軍三万。ヴェルナ公国の常備軍はその五分の一にも満たない。


 最初の報は、術者の遠話で届いた。途切れ途切れの声が、駐屯地の遠話術者の口を借りて響く。


 「北部方面砦、陥落。守備隊は全滅。繰り返す、全滅——」


 術者の額に脂汗が浮き、声が途絶えた。遠話の向こう側で、何かが断ち切られたのだ。


 砦が落ちた。北の河港が落ちた。穀倉地帯が制圧された。


 毎日、伝令が悪い知らせだけを運んでくる。


 小隊の中で最年少のリオが、出身地の名を聞いた瞬間、握っていた匙を取り落とした。誰もそれを拾えとは言わなかった。


 電撃的だった。帝国軍は三方向から同時に侵攻し、公国軍の連絡線を寸断した。


 各地の守備隊は孤立し、個別に叩き潰されていった。


 ヴェインたち歩兵第三連隊が戦場に到着したのは、首都グランツェルの南方、ミルデン丘陵。


 帝国軍の先鋒が首都に迫るのを遅滞させるための防衛線だと聞かされた。


 丘陵に着いて、ヴェインは地形を見た。


 低い丘が東西に連なり、南に開けた平地が広がっている。


 北側の背後には樹林帯。西に細い渓流。東の丘は他の部隊が押さえている。


 悪くない地形だ、とヴェインは思った。


 丘の上から弩弓で射ち下ろし、敵が登ってくるところを叩けば、数の差はある程度埋められる。渓流を利用すれば退路も確保できる。


 だが、その考えは二刻と持たなかった。


 連隊長のバルド・グレッツェン男爵は、丘の上ではなく丘の前面——南の平地に兵を展開させた。


 「帝国の犬どもに、ヴェルナの武勇を見せつけてやる。丘に籠もるなど臆病者のすることだ」


 ヴェインはドルクの横顔を見た。ドルクの顎が強張っている。


 古参の下士官には、この命令の意味がわかっていた。


 平地に歩兵を展開すれば、帝国の騎兵に蹂躙される。


 丘を背にしているから退路も限られる。戦術的な自殺行為だった。


 「ドルク」


 「わかってる」


 ドルクは低く言った。


 「だが命令だ」


 公国軍の軍規は厳格だった。


 貴族出身の士官の命令は絶対であり、平民の下士官や兵卒が異を唱えることは許されない。


 ヴェルナの穏健な統治は、こういう時に裏目に出る。平時なら機能する秩序が、戦場では兵を殺す枷になる。


 ヴェインは何も言わず、自分の装備を確かめた。


        * * *


 帝国軍が姿を見せたのは、正午を過ぎた頃だった。


 土煙が最初に見えた。次に地響き。


 やがて丘陵の南端に、帝国の軍旗が林のように現れた。


 黒地に金の鷲。一つ、二つではない。数え切れないほどの旗が、地平線を埋めていく。


 歩兵第三連隊の兵たちの顔から血の気が引いた。


 「二千は下らん」


 ドルクが呟いた。


 「騎兵が三百、弩弓隊が——」


 「五百。左翼に集中している」


 ヴェインが言った。目を細め、敵陣を読んでいた。


 「中央の歩兵は陽動だ。左翼の弩弓で我々を釘付けにしてから、右翼の騎兵で側面を突く。教本通りの展開だが、この平地では十分すぎる」


 ドルクが振り向いた。


 「……お前、どうしてそれがわかる」


 「配置を見ればわかる」


 戦いが始まった。


 ヴェインの読み通りだった。


 帝国軍の弩弓が一斉に放たれ、平地に展開した公国軍の左翼が瞬く間に崩れた。


 太い矢が空を裂く音。それが途切れた次の瞬間、悲鳴が上がった。


 隣にいた兵が喉に矢を受けて倒れ、吹き出した血がヴェインの頬に温かく散った。


 鉄錆の匂いが、春の野を塗りつぶしていく。


 ヴェインは顔の血を拭わなかった。拭う手も惜しかった。


 バルド連隊長は馬上から「持ちこたえろ」と叫んでいた。持ちこたえる手段を示さずに。


 右翼から騎兵の蹄音が迫る。地面が揺れた。足の裏から腹の底まで、振動が身体を貫く。


 このままでは全滅する。


 ヴェインの中で、何かが静かに切り替わった。恐怖でも怒りでもない。計算だった。


 周囲の音が遠のく。悲鳴も蹄音も金属音も、すべてが薄い膜の向こうに退いた。


 代わりに、地形が、配置が、時間が、数字として脳の中に浮かび上がる。


 ここから渓流まで三百歩。騎兵が到達するまで推定二百呼吸。十七名を動かすのに必要な時間——


 「ドルク」


 「おう」


 「俺の言うことを聞いてくれるか」


 ドルクは一瞬だけヴェインの眼を見た。


 二十五歳の一兵卒の眼は、戦場の喧騒の中で異様なほど静かだった。感情がない。あるのは状況を読む冷徹な光だけだった。


 「聞く」


 「第四小隊をまとめろ。丘の北西、渓流沿いに後退する。俺が先導する」


 「連隊長の命令は——」


 「あの男の命令に従えば、三十分で全員死ぬ」


 ヴェインの声には抑揚がなかった。事実を述べているだけだった。


 ドルクは三秒だけ黙った。それから太い首を縦に振った。


 「全員聞け! 第四小隊、俺に続け!」


 ドルクの怒号が戦場に轟いた。兵たちが振り向く。困惑と恐怖が入り混じった顔。


 「走れ! 北西へ!」


 ヴェインは走り出した。考えるより先に脚が動いていた。いや、違う。すでに考え終わっていた。


 この丘陵に到着した時から、ヴェインの眼は地形を記憶していた。


 渓流の位置、樹林帯の密度、丘の稜線の死角。万が一の退路を、無意識のうちに三通り想定していた。


 第四小隊の二十三名のうち、ヴェインの声に反応して走り出したのは十四名。


 混乱の中で他の小隊の兵が三名混じり、合計十七名が渓流沿いの窪地に滑り込んだ。


 「伏せろ」


 ヴェインが命じた。十七名が草の中に身を沈める。心臓が肋骨を叩いている。膝が笑っている。それでもヴェインの声は揺れなかった。


 帝国の騎兵が丘の斜面を駆け上がっていくのが見えた。


 公国軍の本隊がいた平地の方向から、人の形をした声にならない叫びが、幾重にも折り重なって風に乗ってきた。


 ヴェインは振り返らなかった。


 「渓流の中を進む。水音で足音が消える。二列縦隊。間隔は三歩。声を出すな」


 十七名は黙って従った。


 もはや軍の指揮系統は存在しない。


 連隊長の命令も、公国軍の軍規も、この渓流の中では何の意味も持たなかった。


 あるのは、生きるか死ぬかだけだった。


 そして、この場で最も冷静に生き延びる道を示している男の言葉だけが、唯一の道標だった。


        * * *


 渓流を北に四里。日が傾く頃、ヴェインは樹林帯の奥で隊を止めた。


 十七名。全員がいた。脱落者はなかった。


 渓流の水は雪解けの名残で凍えるように冷たく、脚は感覚を失いかけていた。


 何人かは足を引きずり、何人かは軍靴の中で血を滲ませていた。


 石で足裏を切ったのだ。だが、誰も不満を口にしなかった。不満を言える段階は、とうに過ぎていた。


 何人かが座り込んで嘔吐した。何人かはただ震えていた。ドルクだけが平然と立ち、周囲を警戒していた。


 「見張りを二名出す。交代は二刻ごと。火は焚くな。煙で位置が割れる」


 ヴェインが指示を出すと、兵たちは黙って動いた。誰もヴェインの権限を問わなかった。


 一兵卒に命令される違和感より、この男の判断に従えば生き残れるという確信のほうが強かった。


 「ヴェイン」


 ドルクが近づいてきた。


 「お前、軍学を学んだことがあるのか」


 「ない」


 「嘘をつけ」


 「嘘じゃない。ただ——」


 ヴェインは渓流の方を見た。もう蹄音は聞こえない。


 「地形を見れば、どう動くべきかは見える。敵の配置を見れば、何を狙っているかは読める。理屈じゃない。見えるんだ」


 ドルクはしばらくヴェインを見つめていた。それから、ふっと口元を緩めた。


 「お前みたいな奴が連隊長だったら、あの平地で死んだ連中は——」


 「たらればを言っても仕方ない」


 ヴェインは遮った。声は平坦だったが、拳が微かに震えていた。


 爪が掌に食い込んでいることに、ヴェイン自身は気づいていない。


 「今は、この十七人を生かすことだけを考える」


        * * *


 夜が来た。


 木々の隙間から、南の空が赤く染まっているのが見えた。


 首都グランツェルが燃えていた。


 公国の誇りだった白亜の城壁が、遠く炎に照らされて崩れていくのが、ここからでも見て取れた。黒い煙が夜空に柱のように立ち上り、星を隠している。


 兵たちは誰も口を利かなかった。


 故郷が燃えている。家族がいるかもしれない街が、灰になろうとしている。


 一人が嗚咽を漏らした。それが伝播するように、何人かが声を押し殺して泣き始めた。


 ヴェインは立ったまま、燃える首都を見ていた。


 泣かなかった。表情も変わらなかった。


 だが、その視界の中に、今朝食べた粥の温度がよぎった。


 木の匙がぶつかる音。


 ドルクの軽口。


 リオの笑い声。


 窓から見えた朝靄(あさもや)。あの食堂も今、あの炎の中にあるのだ。


 七日前の朝は、もうどこにもない。


 その認識が、怒りよりも深い場所でヴェインの内側を灼いた。


 声にならない。形にもならない。


 ただ胸の底に沈んで、静かに、重く、燃え続ける種火のようなものが——そこに残った。


 ドルクがヴェインの隣に立った。


 「どうする」


 問いは短かった。だがその中に、すべてが含まれていた。


 これからどうするのか。祖国が滅びた今、何のために生きるのか。この十七人を、どこへ導くのか。


 ヴェインは燃える空から目を逸らさなかった。


 「東へ行く」


 声に感情はなかった。


 「帝国の支配が及んでいない地域に出る。それまでは、見つからないように動く」


 「その先は」


 ヴェインは答えなかった。


 しばらくの沈黙の後、踵を返して林の奥へ歩き出した。


 「休める者は休め。夜明け前に発つ」


 その背中を、十七人の兵が見ていた。


 祖国は灰になった。軍は壊滅した。指揮系統も、補給も、帰る場所もない。


 あるのは、この男だけだった。


 煙の匂いが風に乗って流れてくる中、ヴェイン・レヴェナスは一人、闇の中に立っていた。灰の中で、その眼だけが冷たく、鋭く、光を湛えている。


 まだ何も始まっていない。


 だが確かに、この夜から何かが動き始めていた。

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