勇者は来たが、何も始まらなかった
勇者は、来るものだ。
魔王がいれば、なおさらだ。
世界が危機に陥り、
人々が希望を託し、
剣と運命が交差する――
そう決まっているはずだった。
だが、この世界では、
勇者が来ても、物語は動かなかった。
魔王はいる。
城もある。
会議も、続いている。
それでも、
討伐は始まらず、
結論は出ず、
勇者だけが、場違いなほど真剣だった。
これは、
役目を果たす準備だけが整ったまま、
何も起きない世界に立ち尽くす、
一人の勇者の記録である。
魔王城の前に立ち、俺は深く、深く息を吸った。
肺の奥まで空気を入れ、勇者としての覚悟を整える。
「……よし」
城は、ある。
禍々しい装飾もある。
尖塔も、黒い石壁も、見るからに「最終決戦はこちら」と言わんばかりだ。
空気も、重い。
肌にまとわりつくような緊張感がある。
間違いない。条件は、すべて揃っている。
「俺は勇者だ」
誰も聞いていないが、名乗った。
名乗りは大事だ。
ここから物語が動き出す――はずだからだ。
門は、開いていた。
警備兵はいない。
威嚇も、怒号も、警告文も、罠の気配すらない。
(……入りやすいな?)
嫌な予感が、ほんの少しだけ胸をよぎる。
だが、勇者は迷ってはいけない。
俺はそのまま城内へと足を踏み入れた。
そして、すぐに見えた。
机。
書類。
整えられた室内。
落ち着きすぎている空気。
――受付?
「ご用件を伺います」
感情の起伏を感じさせない声で、受付係が言った。
「俺は勇者だ。
魔王討伐のために来た」
言った。
ちゃんと言えた。
ここで物語が加速する。剣が抜かれ、世界が動く。
……はずだ。
「確認します」
受付係は淡々と紙をめくり、ペンを走らせる。
その仕草が、妙に手慣れている。
「……現在、魔王は会議中です」
「会議?」
思わず聞き返した。
勇者の想定語彙に、その単語はなかった。
「はい」
「……討伐は?」
「予定は入っておりません」
「世界の危機は?」
「今のところ、保留です」
(保留)
胸の奥で、何かがきしんだ。
剣でも、運命でもなく、概念が折れる音がした。
「つまり……俺は、どうすれば?」
「お待ちください」
「どれくらい?」
「未定です」
即答だった。
迷いも、ためらいも、申し訳なさもない。
後ろを見る。
誰もいない。
前を見る。
受付は開いている。
腰を見る。
剣は、まだ鞘の中だ。
(いや、これは……おかしいだろ)
勇者は、待たされる存在だったか?
世界を救う者は、順番待ちをするものだったか?
「……何も起きないな」
思わず、口からこぼれた。
「はい」
受付係は即答した。
「最近は、そういう日が多いです」
多いです、じゃない。
多いです、で済ませていい話じゃない。
俺は城の奥を見た。
重厚な扉の向こうから、かすかに話し声が聞こえる。
だが、言葉は拾えない。
結論は、もちろん聞こえない。
(……なんで俺、こんなに置いていかれてるんだ)
剣を抜く理由もない。
叫ぶ相手もいない。
立っているだけで、物語が進まない。
「……まあ、今日はいいか」
口に出してから、自分で驚いた。
勇者が言っていい台詞じゃない。
剣は、まだ抜かなくていい。
勇者は、ここにいる。
何も起きないだけだ。
――それが、一番困る。
俺はその場に立ち尽くした。
受付係は、何事もなかったかのように書類を整えている。
「……どうする?」
自分に問いかける。
だが、答えは出ない。
何かしなければならない。
だが、何も起きていない以上、何もできない。
「ここで待っているべきなのか?」
「待機していただければ、後日連絡いたします」
何も起きない日が、淡々と積み重なっていく。
勇者は、次の一手を考え続ける。
だが――
「とりあえず、今日はここで待ってみようか」
そう決めて、俺は受付の椅子に腰を下ろした。
会議室の奥で、話し声だけが続いている。
内容は分からない。
結論も、見えない。
それでいいのだと、誰かが決めたのだろう。
魔王が決めるべきことを、
勇者が決めるわけにはいかない。
……本当に、そうなのかは分からないが。
とりあえず、待ってみることにしよう。
勇者の役目は、いずれ来る。
来るはずだ。
来なかったら――
それはそれで、また困るのだから。




