この辺りでは、果物は育たないの?
汽笛が短く鳴り、汽車が減速していく。
ここはイスグラン帝国の辺境、ニンルシーラ領。その中でもヴァン・エルダールは、領主ランディリック・グラハム・ライオールの邸宅が建つ地だ。
ニンルシーラは高地に位置し、冬の間は領地全体が雪に閉ざされる。その厳しさは王都エスパハレとは比べものにならず、吐く息はすぐに白く凍りつくほどだった。
窓の外には、王都では真冬でもほとんど見かけることのない雪が、厚く大地を覆っている。
白銀に染まった丘の斜面では、毛足の長い羊の群れがゆったりと雪をかき分けて進み、遠くには山岳牛の姿もあった。
外気とのわずかな温度差で、窓ガラスがうっすらと白く曇っている。リリアンナは指先でそっとその曇りをぬぐい、興味津々で外を見つめた。その視線の先、雪に覆われた森の縁には、獣の足跡が点々と続いていた。リリアンナの頭越しに彼女の視線を追ったランディリックが、「ニンルシーラはシカやキツネなど、野生動物の多い地域なんだ」とつぶやいた。「オオカミもいるから、気を付けて?」と付け加えられたリリアンナは、瞳を大きく見開いた。
見渡す限り雪原で、農作物の気配が感じられない。
リリアンナはこの地の名産が何であるか、景色だけでなんとなく分かった気がした。
きっと、肉や乳製品、毛皮などが主な生産品だろう。
***
「外は寒い。これを」
客室内はもちろんのこと、車両全体、暖房がきいていてとても暖かい。
下車前、ランディリックからあらかじめそんな声掛けをされて、エスパハレで購入していたふわふわの毛皮に覆われた厚手のコートを羽織らされ、羊毛で編まれた手袋と帽子を差し出されたリリアンナは、王都の気候を思い出して(こんなに重装備?)と小首をかしげたのだけれど……。
汽車の扉が開いて一歩外へ出たと同時、身を切るような寒風に吹きつけられて、ランディリックの言葉の意味を理解した。
無防備に吸い込んだ空気があまりに冷たくて、鼻の奥がツンと痛んで涙がにじむ。
思わず首をすくめて下車前にランディリックから羽織らされたコートの合わせ目をギュッと掻き抱いたら、
「大丈夫か?」
その様子にすぐさま気付いたランディリックが、自分の外套を広げてリリアンナを腕の中へ包み込んでくれる。
「あ、有難う、……ランディ」
涙目のまま、そっと背後を見上げてランディリックに礼を言えば、「どういたしまして」と優しい笑みを向けられた。
「――っ!」
そうして至極当たり前のように目元へ滲んだ涙を手袋を付けた指先で拭われて、リリアンナは驚かされてしまう。
(お父様もご存命の頃はこんな風に私を気遣って下さっていたわ)
道行の車両内で交わした会話から、ランディリックと自分とは、十六ほど年が離れていると知った。その年齢差は父デンサインほど離れてはいなかったけれど、十七歳で自分を生んだ、母マーガレットとはほぼ一緒だ。
そう考えると、とても若々しく見えるランディリックとは、親子ほどの歳の差があるということになる。
(ランディは私のお養父さまになるのかな?)
思えばランディリックは、ウールウォード邸で叔父ダーレンに代わって、リリアンナの後見人になると宣言してくれた。
こうして今、リリアンナを自領ニンルシーラまで連れて来てくれたのも、自分を手元に置いて立派な淑女に……というよりウールウォード領を守る若き伯爵――後継者――として如才なく育て上げるためだと説明されている。
今の厚意だってきっとその一環。伯爵令嬢として当然の扱いをされただけ。そう分かってはいても、こんな風に誰かから貴人扱いされるのが本当に久しぶりで、リリアンナはなかなかその変化に馴染めない。
困惑した表情でランディリックを見上げたら、「ああ。レディの顔に許しも得ず勝手に触れてしまったね。すまない」と謝罪されてしまった。
「あ、あのっ、いえ、それは全然気にしてなくて……」
慌てて取り繕えば、「ではその表情はどういった感情の表れか、教えてもらっても?」と優しく問い掛けられた。
リリアンナがしどろもどろに理由を話せば、ランディリックが一瞬だけ悲しそうな顔をする。
「ランディ?」
それを不安に思ってランディリックを見上げたら、「リリー。最初は難しいかも知れないけど、少しずつで構わない。誰かから大切にされることへ慣れていってくれると嬉しい」と優しく微笑まれた。
リリアンナはランディリックの言葉にハッとして、「頑張ります」と返すので精一杯だった。
***
「さぁ、いつまでもこんなところに立っていては、凍えてしまう。行こうか」
ランディリックに促されて少し歩いた先。ホームの端に、二台の馬車が並んで待機していた。
一台は雪をかぶった黒塗りの四頭立て馬車。扉には白銀の毛皮で縁取られた深緑の盾が描かれていた。上半分には金色の剣と絡み合う草カズラ、下半分には白銀の山脈と濃い青の波紋――ニンルシーラ辺境伯ランディリック・グラハム・ライオールを示す家紋である。だが、このときのリリアンナはまだ、それが彼の家の象徴であると知らなかった。
もう一台は、厚手の濃茶色の幌で覆われた実用的な四頭立ての幌馬車。
側面には、同じくライオール家の簡略紋――深緑の盾に金の「L」だけを配した意匠が染め抜かれている。
幌の内には十名ほどの侍従や従者を運ぶ座席が備えられ、長旅に備えて荷物も積み込まれていた。
四頭の馬は毛布のような防寒覆いを掛けられ、白い息を吐きながら静かに待っている。
(立派な馬車……)
リリアンナが白い吐息をほぅっと吐き出してそう思ったと同時、御車台に座っている若い男が、こちらに気付いて軽く手を上げた。
「えっ?」
その反応にリリアンナが思わず声を漏らしたら、背後のランディリックから「迎えの馬車だよ」と告げられて驚かされてしまう。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして……リリアンナお嬢様」
御者台から降りてきた家臣が「カイルと申します」と名乗り、白い息を吐きながら深く礼をした。
その呼びかけに、リリアンナはわずかに目を見開き、戸惑いの色を浮かべる。
ランディリックに保護されて二日。役立たずだの穀潰しだの薄汚い小娘だのと散々罵られてきた日々から一変。急に令嬢扱いされてなんとも落ち着かない。
ランディリックからは〝少しずつでいいから慣れて?〟と言われたけれど、かつてのように、貴族としての誇りを取り戻すにはもう少し時間が必要に思えた。
背後では、王都まで付き従っていた家臣たちが汽車から降りてきていた。長旅と寒さに、外套の襟を深く合わせ、肩の鎧紐を緩める者もいた。
「皆さんはあちらの馬車で屋敷までお戻りください。道中は護衛が付きます」
カイルの指示に、家臣たちは大きめの幌付き実用馬車へ次々と乗り込み、安堵したように息を吐いた。護衛の数名が、騎馬のまま両馬車の前後を固める。
「どうぞ、こちらへ」
カイルが扉を開き、ランディリックとリリアンナを黒塗りの専用馬車へ案内する。分厚い毛布が座席に用意され、外套のままでもすぐに温もりが感じられた。
乗り込んだ途端、室内の暖気で窓ガラスが内側からふわりと曇る。
リリアンナは指先で小さく円を描くように曇りを拭い、その隙間から外の景色を覗いた。
車輪が雪を踏みしめる音と、馬の蹄の鈍い響きが、ヴァン・エルダールの静かな空気に溶けていく。
道の脇では白い雪原に点々と柵が並び、その向こうで羊や山岳牛が冬毛を揺らしながら餌を食んでいた。飼い葉桶には秋の終わりに刈り取って干した草がこんもりと盛られ、吐く息が白く煙る中、もふもふの冬毛に覆われた家畜たちがゆっくりと顎を動かしていた。
見渡す限り畑らしい畑はなく、果樹園みたいなものも見当たらなかった。
「……この辺りでは、果物は育たないの?」
ふとリリアンナが窓の外を眺めながら尋ねれば、
「ほとんどは難しいが、特別な果樹なら育つ」
ランディリックが短く答えた。
その声に、御者台からカイルの声が飛んでくる。
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