夕暮れの影
結局、朝になってもゼンが帰って来ることはなかった。
昨晩から動揺が収まらない。あの後、ヒショウは這いつくばるような思いで部屋に帰り、寝台のシーツにくるまった。隠れるように小さくなり、静かにうめいた。全身を痛みが駆け巡り、涙がこぼれてしょうがなかった。正直、ゼンが帰ってこなくて良かったと思っている。あんな姿を見られなくて良かった。ゼンのことだから、きっとからかうようなことはしない。けれど、無駄に心配をかけなくて良かった。それに、弱みを見せなくて、良かった。
だが、いつまでも隠れている訳にはいかなかった。朝になると、ヒショウはシーツから抜け出し、水くみに出かけた。ゼンはきっとつかれて帰って来ることだろう。帰ってきたゼンが少しでも和めるように、お茶を入れてあげたい。そのために、お湯を沸かしておこうと思った。出かける途中で、ヒバリを見かけた。今日も体調が良いらしく、元気に働いているようだった。そんな姿を見ると、自分も頑張ろうと心から思える。
奴隷仲間の少女だって、おそらくヒバリと年はさほどかわらない。それなのに、二人の違いを感じざるを得ない。奴隷と人間。そんな肩書きだけで公も違ってしまうのかと思うと、恐ろしかった。
井戸につき、水桶を引き下げる。水面には、昨日ヒバリが予言した通りの青空が広がっていた。しかし突然、水面に影が映り込んだ。ほんの一瞬、あの少女の顔が映り込んだような気がした。ヒショウは思わず、水桶を放り出した。カラカラと音をたて井戸の底に落ちていった。慌てて周りを見回しても、そこに人影はない。ほっと胸を下ろしたのも束の間、誰かの手がヒショウの方に触れた。
「あ、あっち行け!」
ヒショウは焦点の合わない目で叫び、腕を振り回す。
「きゃっ」
悲鳴が聞こえた。腕で誰かの体を押してしまったのを感じた。その拍子に尻餅をついたような音が響く。ヒショウが想定していた少女はこんなことでは転ばないどころか、悲鳴なんて上げることを知らないだろう。
「えっ」
ヒショウは我に返って、振り向く。尻餅をついていたのは、ヒバリだった。
「ご、ごめんなさい。その、ちょっと勘違いしてしまって」
「大丈夫ですか?」
ヒバリは心配そうな目でヒショウをみる。
「ぼ、僕は全然。ヒバリ様こそ、本当に、申し訳ありません、怪我をしていないですか?」
「私は平気です。少し驚いて転んじゃっただけ。この程度は、私も慣れてますから。それよりも、ヒショウさんですよ。震えてますよ、何か、会ったんですか?私を誰かを勘違いしたとか?」
「い、いえ!」
ヒショウは食いつくような勢いで言う。
「少し寝ぼけてしまっただけなんです、本当に。ご心配をおかけしてしまって申し訳ありません」
「そう、ですか?」
「それで、ヒバリ様はどうしてここに?」
「井戸の方から大きな音がしたので個々でもなにかあったのかなって」
「ここでも……?」
ヒショウが訊くと、ヒバリは少し暗い顔をして答えた。
「他の宿にご宿泊なさっていたお客様がお亡くなりになられたんです」
「病気か何かでしょうか」
「殺しです。誰かに殺されたんです」
ヒバリ曰く、事件は昨晩起こったのだそうだ。殺されたのは貴族の男。犯人は彼の例だと言う。奴隷は男の金を持ちさり、姿を消したようだ。
「その方って……昨晩遅くにこの村にいらした方ですか?」
「ええ、そうですけど」
「その奴隷って言うのは」
続きを言おうとして遮られた。
「ヒバリ!」
ムクの声だ。
「すみません。よんでいるので行きますね。続きは後で」
「ぼ、僕も行きます!」
頭が警鐘を鳴らしている今は少しでも多く情報を得たかっt。
宿に戻れば、向くが心配そうに宿先に立っていた。
「おばさん!どうかしたの」
「ああ、ヒバリ!良かった、無事で。ヒショウも一緒か。よかったよ、アンタ達が出て行ったって聞いてさ、アタシ心配で」
心なしか村全体で騒ぎが起こっているようだった。例の殺人事件のせいなのだろう。
「ヒショウ、ゼン様はまだ戻っていないんだよね」
「はい……」
「そうかい。まあ、ゼン様なら大丈夫だと思うけど……」
「それで、おばさん、何かあったの?」
「ああ、今知らせがあってね。例の殺人の犯人がちょうどアンタぐらいの年の娘らしいんだ。まだ捕まっていないみたいだから、気をつけるんだよ」
なんだ、とヒバリは安心したように小さく息を吐いた。
「はーい。大丈夫だよ。私を殺したところで奪える物なんてないんだから」
ムクは苦笑いをする。
「ヒショウも気をつけるんだよ」
ヒショウからの返事はない。おかしいと思ったヒバリがのぞき込むと、ヒショウは虚ろな目をして口をぼそぼそと動かしていた。何を言っているのかはわからない。ヒショウは震えていた。明らかに、何かにおびえているようだった。
「ヒショウさん、大丈夫ですか?やっぱり何か……」
「あんた、震えてるよ。どこか悪いとこがあるなら村長様のところへ」
「大丈夫、です」
ヒショウは頭を上げずに言った。
「でも」
「大丈夫です。大丈夫なんですけど……少し、一人にさせてください」
ヒショウは走って宿を出て行った。追いかけようとしたヒバリをムクが止める。
「アンタは行くべきじゃないよ」
「でも、一人は危険だよ」
「あの子なら大丈夫。それに、思うところもあるだろうさ」
「何を?」
「今回の奴隷のことさ。同じ奴隷の身分として、考えてしまうだろうよ」
「でも、あの奴隷達とヒショウさんは全然違う。なにもかも、きっとゼン様に出会えたお陰で」
「私たちにはわからない何かがあるんじゃないのかい?ゼン様はあの子が言うとおりいいお方だからヒショウは奴隷らしくなくいられるけど、それは所詮見た目だけ。あの子の心根は変わっていないようにアタシには思えるよ」
「私にはそんな風には見えないけど」
「長年の勘さ。アタシの方がアンタよりずっと生きてるからね」
ムクは鼻高々にそう言ったが、ヒバリはうなずくことなくヒショウが走って行った方を静かに見つめた。
ヒショウにはゼンと出会う前から与えられていた仕事があった。その仕事が終われば、ヒショウは王都の奴隷商の元へ帰らなければならない。そういう呪いだった。
以前までは、そんなこと簡単にできると思っていた。さっさと仕事をして、王都で待つ子供達の為にも何かお金になる物と知識を持って帰れるだろうと、本気でそう思っていた。実際、何回も成功させてきた。
自分は今までそうやって生きてきたのだ。そうやって生きてきたのだし、生かされてきた。今回だってまったく同じはずだったのだ。商人に鎖を外され、ゼンを追いかけろといわれた。泣き落としでも、色仕掛けでもいいから、ゼンに気に入れられろといわれた。そしてまんまと気に入られた。あとは殺して金を奪って帰るだけ、そのはずだった。この一連の作業に、きっと自分の意志なんて一度もなかったはずなのだ。ゼンに対して抱いているこの熱に浮かされたような思いも、きっとただの演技だったのだ。
そのはずなのに、今はそれが信じられない。奴隷商の言うとおりになるのは嫌だった。ゼンといる時間が長くなればなるほど、その思いが強くなっていった。そして今その生で苦しめられている。まったく、道化にもほどがある話だ。
思えば、きっと、自業自得だったのだ。
そもそも、あの人の光に目がくらんだのが間違いだったのだ。自分が憎くて憎くてたまらない。こうなるのなら、もっと早く死んでしまえば良かったのに。
「どうですか?気分は良くなりましたか?」
気がつくと、隣にヒバリがいた。
「やっぱりここでしたか」
ヒバリが腰を下ろすと、野原に二人の影が伸びていった。
「今日も綺麗ですね。明日もきっと晴れますよ」
「すみません。少し、一人にして貰ってもいいですか?」
「いいなあ、そうやって孤独を望むことが出来て。私はおばさん達が忙しいときは仕方なくここで一人になるんですけど、そうじゃなかったら一人になりたいなんて絶対に思わない。寄り添ってくれる人を手放したりはしません。それが出来るあなたはきっと、いい人達に囲まれてきたんですね」
ヒバリはなんの屈託もなく、そう言って放った。
「具合が悪いときとか、一人で寝ているでしょ。おじさんやおばさんが看病して見に来てくれるんですが、おかげさまで宿が大繁盛しているおかげで、基本的に一人でいなくてはいけないんですよ。そういうときって、ああ、誰か話し相手がいてくれたらなあってどうしても暗いことばっか考えちゃって、自分のことは自分でどうにかしなきゃとか、ああ嫌だな、自業自得だな、もっとひどい時には死にたいなあなんて考えちゃうんです。そういうとき、例えばおばさんが来て何でもいいから少しだけ話を聞いてくれると、なんとなく気持ちが楽になって、体も楽になるんです」
ヒバリは微笑んだ。
「案外簡単なことだったんだな、死ぬなんて馬鹿馬鹿しいな、なんて思えるんです」
ヒバリがヒショウの心を見透かしたように言った。
「ごめんなさい、一人になりたいっておっしゃっていたのにこんなに話してしまって」
「別に……こちらこそ、すみません。せっかく来てくださったのに、あんなこと言ってしまって」
ヒショウは少し、ぶっきらぼうに言った。
「僕には、やらなきゃいけない仕事があるんです」
「仕事?ゼン様に頼まれたんですか?」
「いえ。でも、しなくてはいけない仕事なんです。僕がやらないと、いけない仕事なんです」
ヒバリは静かにヒショウの言葉を待った。
「僕はずっとその仕事から逃げてきました。いざとなれば出来るって、そう思っていたんですけど、僕には出来ない。あんなひどいこと、僕には出来ないんです」
ヒショウの目はいつの間にか虚ろなそれに戻っていた。
「昨日の件の奴隷は、僕の知り合いなんです」
ヒバリは静かに息をのんだ。
「仕事をしろ、と彼女に言われました。彼女は僕には出来なかったことをしたんです。僕もしなきゃ。僕も、やらなきゃ……」
「なんでですか?」
ヒバリはとぼけた声で言った。
「えっ……」
「別に、知り合いの方がどうかなんてどうでもいいじゃないですか。あなたはあなたなんですよ、ヒショウさん。ヒショウさんの生き方を決めるのは、ヒショウさんなんです!」
ヒバリは声を荒らげていった。
「すみません。少し取り乱しました。でも、少し昔の話をして差し上げます」
突然声を荒らげたヒバリに、ヒショウは思わず驚いてしまう。
「前にね。あなたがうらやましい、いいなあって言ったでしょ」
ヒバリは遠い目をした。
「確かに、両親とも会えず、奴隷として売られていたヒショウさんは、さぞつらい思いをしてきたでしょう。私には到底わからないほどに。だけど、あなたは十分幸せなんですよ。もっと胸を張っていいんです」
ヒバリはヒショウの方をほんの少しだけ見た。ヒショウは少し不機嫌そうにうつむいている。そう思われるのはしょうがないことぐらい、ヒバリもわかっている。
「私の村は、ここから山を一つ越えた先にあるんです。元々は個々ぐらい栄えていた村だったんですけどね、あっという間に病気がはやってみんな倒れて、私の両親はそれで死にました」
冷たい風が二人のあいだを駆け抜けていく。
「大人が死んで、子供が残っていても、出来ることなんて何もありません。それでも、私たちは行きたいと思ってしまった。今考えると、それが幼い私たちの考えだったのか、親にそう言われ続けたからなのか、わからない。でも、あの時確かに私たちは思ってしまったのです、生きたいと、ただ、生きたいとそう思ってしまったのです。でも、助けてくれる人なんてもういなかったし、限界状態でみんなおかしくなっていたんですね。食べるものがなくて、乏しく、ひもじかった私たちは、ついには死人を食べることにしました。家族も、友人も、みんなみんな食べなきゃ生きていけなくなりました。私は体力があって元気な方でしたから、それで山を下りて逃げたのです。私はあの地獄から、逃げてしまったんですよ」
ヒショウの心臓が大きく鼓動を打った。
「それでこの村に来たんです。おじさんやおばさんに出会えて、それは確かに幸せですよ。でも、私には、手紙を送る相手なんて誰もいない。お父さんも、お母さんも、私が全部食べてしまったので、手紙を送って返事を楽しみに待てる相手なんて、いないんです。いっそのこと私も、お父さんやお母さんが死ぬ前に奴隷狩りって言うのに会っていたら良かったのになあって、思ってしまいました。そうすれば、私のお父さんとお母さんも私の分まで元気に生きていられたかもしれなかったのに。私も、二人を食べちゃったって知らなければ、もっと楽しく生きられたのかなって。私の命に少しでもお金の価値がつくならば、それが良かった。それで私もゼン様に買われて、あなたに成り代われたらなって」
「それは!」
今度はヒショウが叫んだ。
「それは、だめです……ゼン様は……ゼン様に出会ったのは僕で……」
「わかってますよ。大丈夫です。私にはもう、おじさんとおばさんがいるから」
ヒバリはおどけて笑って見せた。
「あなたの言う仕事って言うのが何かはわからないし、聞きませんけど、それでも今言えるのはあなたは今幸せなんですからもっと自分に自信を持つべきで、うらやましいと言われているんですから、もっと威張っていいんです。威張ればいいし、したいことをしなければいけない。逃げがいけない、とか、いいとか、そういうことは言いません。でも、私に言わせてみれば、逃げたところで今は幸せなんです。その選択で、幸せをたとえ失うことになっても、あるいは、つかむことになっても、今心配することじゃない。だってあなたは、今幸せなんですから。私は自分が不幸だって、あの世界を呪っちゃったのがいけなかったのかな。不幸だ、でも、生きたい、そんな風に思ったから、バチがあたっちゃったのかも。幸せが幸せを運んでくるように、不幸は不幸を呼びますから」
「ぼ、僕は」
「私は、生きたいって思っちゃいけなかったのかな」
ヒバリはヒショウの言葉を遮って言った。
「私みたいに卑怯で、親不孝な悪い奴の分まで、あなたは幸せなんだから生きてください。それが、いつ死ぬかもわからないどうしようもない奴からのせめてものお願いです」
「そんな……そんなこと言わないでください。僕は」
続きを言おうとして、ヒショウは口を積むんだ。頭に何か温かいものが触れたからだ。見上げてみればそこに、己の主がいた。ゼンは上から見下ろして、優しくヒショウの頭をなでる。
「ここにいたのか」
ゼンが言った。
「探したぞ」
「申し訳、ありません」
ヒショウはうつむいて言った。
「そろそろ出発しよう。仕事は早く終わらせてしまった方がいい」
歩き出すゼンの後を追いかけるようにヒショウは立ち上がった。ヒバリの方を振り返ったものの、手を振るヒバリの姿を見てただ手を振り返すことしか出来なかった。そのままゼンだけを追いかけ、ヒショウは去って行く。
「いいなあ。きっと明日も晴れる。私もその空を、見たかったなあ」




