パンという食べ物
パン。
ヒショウがその食べ物のおいしさに気がついたのはつい一昨日のことだがしかし、ヒショウはすっかりその食べ物に魅了されていた。
美味しい。
パンを口いっぱいに頬張って、ヒショウは至福の時間を過ごす。
「美味しいかい?」
「はい!」
「そりゃあ良かった。まだまだあるからたくさん食べてね」
ヒショウの前に焼きたてのパンが置かれれば、美味しい匂いが部屋を満たした。ヒバリの養い親は名をムクというそうだ。彼女はヒショウがパン好きと聞くとすぐにパンを焼いてくれた。
「ヒショウさん、ここのパンは人気なんですよ。酒場のパンもおばさんが作っているんです」
「そうなんですか!とっても、美味しかったです!」
「こんなに喜ばれたのは初めてで、アタシも照れちゃうよ。ほら、ヒバリ、アンタも食べなさい。たらふく食べないと、治る病気も治らないよ」
「はーい!」
ヒバリもパンを頬張る。
「そうだ。アンタ、手紙出していただろ。あれ、誰宛だい?」
ムクが尋ねると、ヒショウは一瞬言いにくそうなそぶりを見せたものの、顔を上げて答えた。
「両親です」
それはまだ、ゼンにも言えていないことだった。
「あら?でも、ご両親がいらっしゃらないからゼン様に拾われたんじゃないんですか?」
「ああ、えっと……実を言うと僕の両親は僕をあそこに預けたそうで、店の主人によれば両親は今も生きているそうです。住所は彼に教えて貰いました」
「会いに言ったことはないのかい?」
「はい。僕はもうずっとあそこで売られていたので、そんなこと出来なかったですし、したところで、無駄でしょうから」
「親がいるのに会えないなんて、悲しい話ですね」
ヒバリが言った。誰も、彼女の言葉に応えることが出来なかった。
「お手紙のお返事は来たことはあるんですか?」
「いえ、まだ一度も。というか、今回が初めてなんです、手紙を出すこと自体が。今までは紙も、筆だって、手に入らなかったので」
王都にヒショウがいた頃、彼は商品としてすべての自由を奪われていた。身も心も所有権は商人にあり、自分から何か行動をすることなんて不可能だった。ふと、ゼンの顔が浮かんだ。彼はどうだろうか。彼は今回手紙を出すことを許してくれた。でも、なにか思うことがあったようなのもたしかだ。大切な人に出すといったその時、ゼンは明らかに無理をして笑ってくれていた。もしもあの時、両親と言ったら認めてくれていたのだろうか。彼は手紙を出すことを、まして、従者として雇うことを認めてくれていただろうか。奴隷だったくせに親に執着していることがばれれば失望され見捨てられてしまうのではないかと怖くて、今までずっと言い出せずにいる。
――こいつがいい。
ずっと考えてしまうのだ。ゼンは自分の何を気に入ってくれたのだろうか、と。もしもそれを自分がなくしてしまった場合、ゼンは自分にどんな絶望を見せるのだろうか、と。その日は近いのではないか、とも。考えれば考えるほど、胸が痛いほど震動した。息も吸えず、喉が締まるように苦しかった。
「大丈夫ですか、急に考え込んでしまって、私なにかいけないこと言いましたか?」
ヒバリの声でヒショウははっと我に帰った。
「顔色が」
「大丈夫です。た、多分、こんなに一気にパンを食べるのは初めてだから」
「そうですか?」
「落ち着いて食べればいいよ。だれも、アンタの食いもんをとったりしないからさ」
「はい」
ゼンはうなずくと、少しパンをかじって見せた。
「それで、ヒショウさんのご両親はどこに住んでいるんですか?」
「王都の外れにある貧民街だそうです」
「貧民街?」
ヒバリはムクに聞いた。
「貧民街って言うのはそのまま、その日の生活に困るような貧しい人が住んでいるところさ。そんなものが王都にはあるのかい?」
「はい。都全体がほとんどそういう状態なんですけどね」
「通りで、アンタが親がいても奴隷にされたわけだ」
「はい……おそらくはそういうことです」
「え?なに?どういうこと?」
ヒバリが無邪気に訊いた。わからなくても、きっと無理はないのだ。他のことを何にも知らないくせに、こういうことにだけ詳しい自分が、ヒショウは嫌で嫌でしょうがなかった。
「奴隷狩りが行われているせいで、親の有無なんてあそこではどうでもいいんです。売るときに、いない、といってしまえばそれで十分とされる」
「奴隷狩り?」
「あそこでは基本、人間は塵か商品なんです。少しでも生命力がある奴が、ない奴を選別し、金になりそうならさらって売り飛ばし、鳴らなそうなら殺して内臓や所持品を金に換える。そういうことがあそこではまかり通っているんです。そうやって人間の、人間としての魂が狩られて行くのです」
「そんなことが行われているの!?」
「ここじゃあとても考えられないけどね。そのくらい、この国はおかしくなっちまってるんだ。この村みたいに王都も踏ん張れば良かったのだけれど、王がいないとこんなにもはやく国が滅んでしまうとはねえ……」
ヒショウは何も言えず、ただ黙ってうつむいた。
腹を満たした後、二人はまた村を歩き回った。少女は村のことなら何でも知っていた。麦をひく水車も、ビールの醸成所も、ヒバリはヒショウを案内して回った。どこへ行っても村人達はヒショウに温かい笑顔を向けた。その顔が、忘れられなかった。
日が傾いて来た頃、ヒバリはお気に入りの場所にヒショウを案内した。小さな森を抜け到着するやいなや、ヒショウの目に飛び込んできたのはまぶしい夕焼けだった。開けた野原に腰を下ろして、二人は並んで夕日を見る。
「綺麗……」
「でしょ!ここは私の秘密の場所なんですよ。おじさんも、おばさんも、きっとこの場所のことは知らないはずです」
ヒバリは得意げに笑って見せる。
「綺麗な夕日を見ていると、王都を思い出します」
「王都も夕日が綺麗なんですか?」
「はい。いまはもうほとんどはげちゃったんですけど、都中が朱に彩られているお陰で、夕日の赤が映えるんです。それに」
ヒショウは少し遠い目をして言った。
「ゼン様に気に入ってもらえたときも、こんな夕日でした」
目がくらんでしまうほどに、あの日の夕日が綺麗だったことをよく覚えている。
「だからか」
ヒバリは小さく笑った。
「だから、晴れたんですね」
「え?」
「綺麗な夕日が出ると、その次の日は晴れるんですよ。村長様に昔教えていただきました」
ヒショウは彼女が言おうとしていることがわからなかった。戸惑っているヒショウをみてヒバリはくすりと笑う。
「今のあなたはきっと晴れているんです、あの方に会えたおかげで。だって今のあなたは幸せそうに見えますもの」
「そ、そんな……」
ヒショウは火照る頬を隠すように顔を膝に埋めた。
「それを否定しちゃったら、ゼン様、悲しまれますよ」
「……本当のことを言います。僕はいま、とても幸せです。今までとは比べものにならないぐらい世界が輝いて見えて――」
いいな。
そんな声が聞こえたような気がしたが、風の音が邪魔をしてうまく聞こえない。ヒショウが聞き直そうとすると、まるで避けるようにヒバリは立ち上がった。
「帰りましょう。そろそろ日が完全に暮れます」
「は、はい……」
ヒショウはただ、ヒバリの後ろを黙ってついていくことしか出来なかった。追いかけているヒバリの影が、さっきよりも濃くなったように感じた。
日が完全に沈み、時がたっても、ゼンは帰ってこなかった。主よりも先に眠るなど従者として失格だと考えているヒショウはぼんやりと窓の外を部屋から眺めて時間を潰していた。旅人の中には夜遅くに宿に立ち寄り、朝には出て行ってしまうものも覆い。そのため夜であっても村には人通りがあった。
ふと、外が騒がしくなった。ゼンが帰ってきたのかと思い、つい宿の入り口までおりたが、そこにいたのは残念ながらゼンではなかった。旅人を見る村人達の視線は厳しい。
ヒショウは、足の震えが止まらなかった。恐怖は一瞬にして彼を飲み込んだ。
一瞬が、永遠のように感じられた。目の前を通り過ぎるきらびやかな服を着た男。そしてその後ろを、かつてヒショウが着ていたのと同じようなぼろ布をまとった奴隷達が付き従っている。そのうちの一人、うつろな目をした少女をヒショウは知っている。同じ場所で、同じ時を過ごし、売られてきた、奴隷仲間だった。
ヒショウは思わず後ずさりをしようとした。だが、足がうまく動かず腰が抜けて尻餅をつく。
少女はそれに気がついたのだろう。ヒショウの方を、虚ろに見た。ほんの一瞬足を止めると、小さく口を動かした。その口は確かに、こう言葉を紡いだ。
「シ、ゴ、ト、ヲ、シ、ロ」




