幸せな人生
目が覚めた。
嫌な夢を見てしまった。
悪夢のせいで無駄に目覚めは良いが、手は無意識に頬を触った。そこにはあのぬくもりはもう残っていない。糸が絡みつくも無い。
「だよな」
声が空虚に部屋に響く。
あいつはもう、隣にはいてくれない。
でも、それなら俺があいつの隣に行けばいいだけの話だろ?
「起きるか」
今日という日を、どれだけ待ったことだろうか。
いつもなら、あんな夢を見てしまったら体を起こしわざわざあいつの不在を確かめる気にはならない。それでも、今日は、あの日、だから。待ちわびた日なのだから、起き上がることに躊躇をすることはなかった。
手早く用意をして階段を下れば、パンを焼く良い匂いが鼻をくすぐった。宿屋の朝は早い。そしてとりわけ、今日は――。
「はよ、ヒバリ」
パン窯をのぞき込んでいた女は元気よく振り返ると、まぶしい笑顔を浮かべた。
「おはよう。セツ」
セツは、無造作にしたままの白髪をなでながら、恥ずかしそうに席に座る。ほぼ骨と皮だけの体をしていた幼い少年は、今や立派な思春期の青年になっていた。若々しすぎる育ての母の対応にはときどき意味も無くイラッとしてしまうほどに。ちなみに、本人は姉と呼べといっているが、セツとしてはどうしても育ててくれた母という思いの方が強い。母か姉か論争であまりにも喧嘩をしすぎたせいで、もう呼び捨てで呼ぶことにした。
「はい、これ。お弁当の残りだけど、食べて」
ヒバリはセツの前に籠いっぱいに盛られたパンをおく。
「だから……弁当なんていらないっていっただろ。俺はもうガキじゃねえんだから」
「何言ってるんですか。まだまだお子様でしょ」
「うるせえなあ」
そう言いつつも、セツの口元は緩む。何でも無い、義母との平和な朝が幸せで仕方がなかった。
「他の用意の方はちゃんと出来ているの?忘れ物がないか、私が見てあげましょうか?」
ヒバリはからかうようにニヤニヤ笑いながら、丁寧にくるまれたお弁当の包みをセツの前に置く。
今日、セツは王都に向けて出発する。
王都がまた活気あふれる都となった今、宿場としての村の賑わいも以前とは比べものにならないほど担っていた。それだけに、必要な物資も増え、足りない分は体力のある若者が王都に仕入れに行くことになっている。セツのような青年達はその筆頭で、セツと、同い年の仲間何人かで仕入れに行くのは、もはや恒例化していた。
「当たり前だ。今回王都で仕入れるもんも、村のみんなに聞いてあるし、もう慣れてるから今更忘れ物とかねえよ」
「そう?心配だわ。前回は、食べ物をこぼしちゃって服をスズメちゃんから借りたって聞いたわ。今回も、余分に服を持って行った方が」
「あれは!」
セツは声を荒らげ、いらだったようにヒバリの言葉を遮った。
「あれは、俺がこぼしたんじゃなく、酔っ払いに酒をかけられたんだよ。もうあんなへまはしねえ。次酔っ払いを見つけたら、やられる前に、先にこっちが糸で絞める」
「だめよ、そんなことしては」
ヒバリは苦笑いを浮かべて言った。セツがヒショウから受け継いだ糸の技術については、ヒバリを含め村の誰しもが知っている。勿論、その糸を物騒なことに使うのは誰もよしとはしていないが、旅人同士のトラブルの解決や収穫期の人手不足の解消に一役買ったことで、その腕は確かに認められていた。
「まあ、元気なのは良いのだけれど……。とにかく、もうスズメちゃんに甘え過ぎちゃだめよ」
「甘えてねえし。あっちが勝手にくっついてくるだけだ」
「そう言っている割には、あなたもまんざらじゃないような顔をしていたように思ったけど。ふふふ」
「笑うなよ。馬鹿にしてんのか?」
「そうよ。若くて、かわいらしいなって思っただけ」
「……」
セツは顔を赤くして気まずそうに視線をずらした。
「まあ、あなたもずいぶんと成長したことは認めるわ。また何かあったらきっとスズメちゃんが助けてくれるだろうし」
「あのなあ」
「でもね、セツ。今回は本当に気をつけてほしいの」
ヒバリが突然真面目な顔をして言うので、セツは思わず静か耳を傾けた。
「この前、お客さんが言っていたわ。あなたが王都に着くその日にちょうど、王様の凱旋があるのだそうよ。なんでも、青龍国訪問からご帰還なさるそうで、都中お祭り騒ぎになると言っていたわ。当然、人は多いだろうし、酔っ払いも、ならず者も、多くなる。この国は完全には元のようにはなっていないから、犯罪も横行するでしょうね」
「……ああ。知ってる」
知っているから、この日にした。
ヒバリはもうきっと、そんなことには気がついている。セツが何をする気かも、わかっている。理解した上で、話しているのだ。
「危ないことに、絶対に巻き込まれないで。そんなことがあったら、私、悲しくて泣いてしまうわ。世界を呪ってしまうかもしれない。他の子も、同じよ。あなたは、他の子も守って、あなた自身も守るの。わかった?」
ヒバリがつかんだ手は温かかった。まるで夢の中で、ヒショウが触れてくれたぬくもりのように。
「……俺が行くことは、止めないんだな」
何を今更言っているんだと、自分でも思う。それでも、気がつけばそう、口に出していた。
「止めないわ。あなたが幸せに生きられるようにすること。それがあの方からのお願いですもの」
ヒバリはまるで、昔を懐かしむような遠い目をした。
「あなたは、ヒショウさんの全てを受け継いだ。だから、本当に大切な人のことを、だまって静かに待っているようなことは出来ないと思った。ヒショウさんがかつて、ゼン様を追いかけたように、あなたがヒショウさんを追いかける日がきっと来るって。ヒショウさんはそこまで思っていなかったかもしれないし、そうね。あの方のことだから、自分の所に来ることは不幸だって思い込んでいるかもしれない。でも、私は、そうは思わないわ。ヒショウさんと一緒にいる暮らしが、あなたにとっての最高の幸せであることぐらい、わかる。だから、止めない。あなたがヒショウさんを追いかけることも、取り返そうとすることも、あなたがしたいと思うのならさせ上げたいと思っているわ」
「そう、か……」
まるで全てを見透かされているようで、少しだけ恥ずかしい。今の自分の生き方が、ヒショウの模倣であることは否めないし、否めない。ヒバリのような深い愛をもってヒショウを待ち続けることが出来ないことも認めざるを得ない。
ヒバリに、どうして王のもとにとらわれたヒショウを助けにいかないのかと聞いたことがあった。ヒバリはセツの言葉を聞くと、おかしそうに笑った。自分にはそれが出来るほどの力も立場もないし、王の下へ行くのがヒショウの決断なのであれば、自分には何も手を出すことは出来ないと。その時はずいぶんと憤ったものだが、今なら、彼女の気持ちもわかる。そしてヒショウがヒバリに、それを望んでいたということも。
だが、幸せになれ。それが、セツへのヒショウからの最後の願いだった。
だからこそ、俺は俺がしたいようにさせて貰う。それなら、アイツも本望だろうから。
なんとなく名残惜しさを感じつつ朝食を堪能すると、セツは足早に荷物をまとめて、宿を出た。宿の前にはすでに、仲間達が来たいに胸を膨らませつつも、緊張の色を見せながら待っていた。
「セツ!おはよう!」
「おはよう!」
口々に言ったのは、瓜二つな双子の兄弟。ミミとズクである。
「ああ。おはよ」
「セツ、忘れ物はない?」
早速少女がセツの腕に抱きつく。
「ねえよ。お前は俺の母さんか、スズメ」
「それを言うなら、姉さんよ」
見送りに出てきてくれたヒバリが、セツの頭に思い切りげんこつをおとす。
「いってーっ」
「おはようございます、おばさま」
「はい。おはよう、スズメちゃん。みんな、今回も、この子のことよろしく頼みます」
「はい!」
「はーい!」
「はーい!」
「せいぜい俺の足、ひっぱんなよ!」
「セツ」
「ゴメンナサイ。みんな、すまないが、協力してほしい」
セツが言えば、仲間達も、ヒバリも、優しく微笑んだ。事情はすでに仲間にも話してある。ヒショウ奪還計画において、我々はれっきとした共犯者だった。
「さあ、日が暮れる前に今日の野営場所も確保するんでしょ?みなさん、そろそろ出発した方が良いわ」
ヒバリは村の入り口まで見送りに付き添った。
「じゃあ、行ってくる」
セツは、視線を地面にむけたまま、気丈な声で言った。
「行ってらっしゃい」
はつらつとした声でいつも通り送り出してくれるヒバリから逃げるように、セツが仲間を率いて歩き出したその時、ほんのかすかに、ヒバリの声が風に乗って聞こえた気がした。
「どうか、お幸せに」
セツが振り向いたとき、ヒバリはいつもと変わらぬ笑顔で手を振っていた。セツはほんのわずかに足を戻したが、すぐにまた歩き出す。
ヒバリの幸せを願い、大きく手を振った。元気な姿をヒバリにみせ、彼女の不安を少しでも拭い取ってあげることが、セツに出来る精一杯の餞別なのであった。




