お母さん
ゼンが二人を連れて行ったのは、今ねぐらにしている家だという。簡素な寝台と長椅子が一つだけあるような殺風景な部屋だが、ゼン一人で暮らすには十分な広さがあった。
「それで」
ゼンは大きく息をはいて長椅子に座ると、自分の隣に座ったヒショウのほうをみた。
「よくここまで来られたな」
「ええ。あなたがここにいると信じていましたから。それに、あの子がずいぶんと助けてくれたんです」
「あいつ、ね」
ゼンは寝台の上に座っている少女に視線を移した。
「お前、こいつを危険にさらしてないだろうな。それに、余計なことをして、こいつに心配かけてねえよな」
「してないよ。むしろ、ここまで連れてきてあげたことを、感謝してほしい。本当は、私がお母さんを独り占めしたかったのに」
「最期なのにか?」
「だからだよ」
「そうか」
観念した、と言わんばかりにゼンはうつむく。
「お前も、お母さん役大変だっただろ?」
「いえ。でも、なんで僕が、あの子のお母さん、だったんですか?ゼン様はご存じで?」
「それは、まあ」
ゼンは言葉を切ると、少し目を泳がせて頬杖をついた。
「子供の戯言だ。気にしなくて言い」
「いや、でも、僕は」
「気にするな」
「じゃあ」
ヒショウは今度は少女の法を見た。
「君にとって、ゼン様はどういう存在なの?」
少女は目を見開くとがっくりとうなだれた。
「親父」
「えっ。親父?ということはまさか……」
ヒショウは顔を赤らめた。
「気にするな。そいつの戯言だ」
「え、あ、はい」
ゼンと少女がにらみ合っている。確かに、中は良さそうだし、こうしていると家族のように見えなくもない。
なぜだろうか。
うらやましい。寂しい。
そしてなぜか、誇らしい。
「それで、ヒショウ。お前は何をすべきかわかっているのか?」
「僕は、僕に出来ることなら何でもするつもりです。この都の人間を一人でも多くすく隊ですし、裂け目も塞ぎたい。僕は、あなたの為に出来ることは全てしたいです!」
「そうか。なら」
ゼンは、寝台の方を見た。だが、その目が捉えているのは明らかに少女ではない。その背後にある、何かのようだった。
「あの子供を、いやしてくれないか」
「あの、子供っていうのは……」
「俺が、俺たちが乗っ取ったその子供だ」
「ああ。やはり」
ヒショウはうつむく。
「やっぱりお前はもう知っているか」
「はい」
「幻滅しただろ。おれがは、そういうどうしようもない奴なんだよ」
「そんな!そんなことはありません。お二人は玄武国のために」
「理由は何であれ、俺たちは間違いと罪を犯したんだ。その過去は変えようがない」
ゼンが少女に少し指示をすれば、少女は寝台に横たわった。次の瞬間、寝台には、見たことのない少年が横たわっていた。
ゼンは立ち上がると少年に近づいて糸を出した。ヒショウには、これからゼンがすることがわかっていた。
ゼンは、目を戻していた。
今まではホトの目として生きていたこの子供の目。あるべき場所にあるべきものが戻ったのに、子供は動かない。
喜びも。
叫びも。
悲しみも。
怒りも。
恨みも。
何も示さない。
「この子。お母さん、直してあげて」
いつの間にか少年の脇に立っていた少女が言う。
「俺からも頼む。身勝手で、無責任だってことはわかっているんだ。でも、その子供を救えるのはもうお前しかいないんだ」
「はい」
ヒショウは立ち上がると一歩、その少年に近づいた。
足が震える。
その少年は、少女よりもずっと幼く見えた。五歳ほどだろうか。全てが小さすぎる。体は成長をやめたようで、話に聞いたのと同じ幼い子供のままだ。骨に皮膚がかろうじてついているようにしか見えず、頬が瘦けた顔は青白い。近づいてもピクリ友動くことはなく、固く閉ざされた目は開くことを忘れてしまっているようだった。
ヒショウは震える手で少年に触れた。少年の体は驚くほどに冷たい。この冷たさは、ヒショウが痛いほど知っているものだった。
「この子はもう」
「いや、生きているんだ」
ゼンが力強い声でそう断言した。
「その子はまだ生きている。胸に触れてみろ」
薄い胸。あばら骨が浮き出た胸に触れれば、確かに、ほんのわずかな鼓動が手に伝わってきた。
「本当だ。生きている」
「そいつを、いやしてくれ。頼む。これからちゃんと、一人の人間として生きられるように」
「わかりました。任せてください」
ヒショウはゼンの方に振り向いて自信ありげに鼻を鳴らすと、改めて少年の胸に手を置いた。淡い光が二人を包み込む。
うっとりとその光と、その中の悲壮を眺めていたゼンだったが、しばらくすると立ち上がって家を出て行こうとした。
「ちょっと待ってください!」
ヒショウはもう片方の腕でゼンの外套をつかむ。
「少し出てくるだけだ。帰って来る。頼んだぞ」
「何をしに、どこへ行かれるおつもりですか」
「仕事」
「僕はここに置き去りにしてですか?」
「お前は自分の仕事を放り出すのか?」
「いえ――。でも、せっかく会えたのに、あなたはまた僕の前からすぐに消えてしまう。僕はまた、あなたを待つことしか出来ない」
「一人にはしない。そいつは残す」
ゼンは少女を視線で示す。
「そうじゃないんです。そういうことじゃないんです。あなたは自分勝手だ。僕は――僕だって――」
「わかった。すまないな」
ゼンはしゃがみ込むと、ヒショウと視線を合わせた。まるで子供の駄々だ。ヒショウだってわかっている。こんなことをしても何にもならないと。でも、今はこうしなくてはいけないと思った。こうしなければ、きっと後悔してしまうと。
「でも、俺は行かないといけない。早急に塞がないといけない裂け目があるんだ。実はかなり手こずっているんだが……でも、一人でも多くの人間を救いたいから、俺もお前もこうするしかない」
ゼンは笑った。これが本当の笑顔なのか、ヒショウにもわからない。
「それは僕が手伝ったら塞がりますか?」
「いいや。これは多分、俺の問題なんだ。それに、あの裂け目はかつてのお前のねぐらの近くなんだ。お前が言ったら何か面倒なことに巻き込まれるぞ」
ヒショウはうつむく。
「お前はここで今の仕事をしてくれ。この家からむやみに出るな。万が一にでもあの子供達に会ったら、お前は覚悟できているのか。もしも襲ってきたら」
「覚悟は出来ています」
ヒショウは床に向って叫んだ。
「出来てます。ここに来たときからずっと。それに、僕はその覚悟に見合った強さも、いまなら」
ヒショウは指に絡まっている糸を握りしめた。
「そうか」
ゼンが困っているのが痛いほどわかってしまった。ヒショウは軽く息を吐くと、ゼンの方を仰ぎ見た。
「わかりました。僕はここで、この子を癒やします。それが、今の僕がやるべきことです。でも、これは約束してください。必ず、ここに帰ってきてください。急に、僕の前から消えないで」
ヒショウはまっすぐゼンの目を見た。ゼンは驚いたように目を見開いたが、すぐになにかを懐かしむように軽く笑うとヒショウの頬をなでた。
「お前は本当に強くなったな。人間らしくて、うらやましい。本当に、あいつは良い奴を選んだよ」
ゼンは立ち上がる。深くフードをかぶると顔を隠すように布をまき、家を出て行った。振り返ることはない。
「何も、きっと、本当のことは教えてくれなかった」
それでも、信じてる。ゼンはきっと――。
「お母さん」
少女の声がした。
「お母さん、あの男と仲いい」
「え?」
「イチャイチャしないで!」
「え?ふ、はっ、はっ!」
ヒショウは思わず吹き出した。すねて頬を膨らます少女の顔はあまりにも面白く、かわいらしく、愛おしく思えたからだ。
「ふふっ。ごめんね」
ヒショウは今度はすり寄ってきた少女の頭をなでた。
「さあ。仕事、仕事。僕はこの子を癒やすんだ」
座りこんなヒショウの横に、少女も座る。
「お母さん、お兄ちゃんを治して」
「うん。任せて」
遙か昔。
遙か天高く、遠い場所。
ある夫婦とその娘、髭の長い老人に虎という数奇な組み合わせの家族がいた。
「朱雀」
「あら。あなた。お帰りになったのですか?本日の会議は、いかがでした?」
「どうせ、あの案が決まったんじゃろ」
「正式に決まったよ。俺たちが、人の世に堕とされることになった。俺たち四人と、一匹が、それぞれの国に降り立つ。人の世がここのように地平になるまでの間だ」
「ぐるるる」
「そう、ですか。やはり――」
「そう、つらい顔をするな。俺たちにとっては、ほんの一瞬だ。それに、悠久の時を生きるお前にとってはなおさらな」
「いえ。私が心配しているのは、あなたの方です。そんなに暗い顔をしないでください。人を救うのは、私たちの本来のお役目なのです。これは、喜ばしいことなのですよ?」
「あはは。お前意は隠し事は無理か――。お前と離れるとなると、どうも気乗りがしない」
「なに子供みたいなことを言っているんですか。それに、私たちと違って、あなたは一人で降りるわけじゃないのですよ。ね?」
「私、お母さんといっしょがいい!親父といっしょ、すっごくやだ!お母さんと離れたくないよ!お母さんはさびしくないの?」
「うふふ。もう。甘えん坊さんね。私も寂しいわ。でも、お父さんのこと頼めるのはあなたしかいないのよ。お父さんとちゃんと仕事をして、私に成長した姿を見せてくださいな」
「そしたら、お母さん、うれしい?」
「うれしいわ。とっても」
「じゃあ、ぎゅっとして!」
「ええ。勿論!」
「お母さん大好き!親父はだめだめだから、私がちゃんとお仕事してみせるよ!」
「おいおい、散々だな」
「あなたのことも、頼りにしてますよ。ほら、そこで嫉妬していないで、こっちにおいで」
「し、してない!」
「うふふ。さあ」
「……すまない。お前にはかなわないな」
「親父あっちいってよお!きつい!」
「ぐるるる」
「猫ちゃんもおいで!」
「ほっほっほ」
「ねえ、あなた」
「ん?」
「約束してください。あなたは優しすぎるから、心配です。だから、お願い。かならす、ここに戻ってきて。また超して、私を抱きしめて」
「……ああ。もちろんだ。何をしてでも、必ずここに。お前質を見捨てる訳がない。お前達の、お前の為なら俺は何だって出来る」
「ふふ。私、本当に幸せです」
「朱雀、改めて言うが、その……愛してる」
「ええ。私もです。私も、あなたのことが、玄武様のことが――」




