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恩人

「な、なつかしい」

ヒショウはついそうつぶやいた。いままで王都への道程の中で懐かしいと思う景色はごまんとあった。朱雀の力を得ている村、ホトに詰め寄られた宿と焼き尽くされた仮屋。それらを見れば自然とホトの足取りは速まっていった。ゼンのことを思い出すとともに、ゼンに対して定まらない気持ちを振り払おうとしたのも確かだ。

 だが、つい、ヒショウはあまりの懐かしさに足を止めてしまった。

 香ばしいパンの香り。少ないながらにも豊かにくらしている村の人々、そして、見慣れない姿をした旅の者達。

「お前、見たことあるぞ!」

「こいつ、ゼン様が前に連れてきた奴じゃないか!」

パタパタと足音を立てて、子供達が走ってくる。

「ほんと?なんか全然違って見えるよ」

「別人みたいだ!」

「でも、兄ちゃんなんかかっこよくなったな。初めて見たときはなんか死んでるみたいだったけど」

「うん。そうかもね」

子供は素直だ。ヒショウはつい笑みをこぼす。死んでいたようだったというのは確かにそうだ。自分は、ゼンのお陰でやっと人間になれたのだから。

「なあなあ、今度はいつまでこの村にいるんだ?」

「遊ぼうよ!」

「パン好きなんでしょ?聞いたよ。うちにパン食べに来なよ」

「うーん、今日はあんまり長くはここにとどまれないかな」

「なんだ。残念」

「その子は?」

子供のうちの一人が背負われたままの少女を指さした。

「その子はだあれ?」

「またこの村であずかるのか?」

「え?」

そうか。ゼンもかつては裂け目の犠牲になった人間をここに連れてきていたといっていた。この村では、世界に元々絶望していた人間が外からやってきて住み着くことが日常の一端になっているのだ。

「いやいや、この子は」

ヒショウは横目で少女をみる。

「……」

言葉をうしなった。

 少女が目を見開いていた。子供達をにらみつけるようにして、頬を膨らませている。

 えっと、これはもしかして嫉妬ですか?

「ちょっと。にらんじゃだめだよ」

ヒショウが言うと、少女は不満そうにヒショウの方を見た。

「大丈夫。私は君を置いてどこかに行ったりしないから」

ヒショウの言葉を聞くと、恥ずかしくなったのか少女はヒショウの服に顔を埋め彼に抱きつく腕の力を強めた。

「へんなの。『私』って」

「お前、女だったのか?」

「えなのー!

「こら!」

「えっ、いや、違うよ。違うけど……僕、というか、私はこの子の母親なんだよ」

「変なの」

「へんなのー!」

「こら!」

突然、しかりつけるような声がした。

「そんなこといってはいけませんよ。申し訳ありません」

「そんな!い、いいんです。僕は気を遣っていただけるような立場の人間ではなく……」

「いえ、そんな、あなたは」

「え?」

ヒショウは近づいてきた人間の方を見ると驚きで目を丸くした。

「……なんちゃって。お変わりなく元気そうで良かったです」

「あっ……」

「お久しぶりです」

「……お久しぶりです。ヒバリさん」

ヒショウが名前を呼ぶと、ヒバリははじけるような笑顔でヒショウを迎えたのであった。


 長くとどまる気もなかったが、ヒショウ達は半ば無理矢理ヒバリの家の宿に泊めて貰うことになった。現在置かれている状況を伝え、現在自分は罪人であり、もしも追手が来ていてそれに追いつかれたらこの村にも被害が出かねないと説明はしたし、疲れを知らないヒショウの特別な力も知られているのにもかかわらず、このまま子供を背負って走り続けていればいずれはヒショウが死に大きな痛手につながるというヒバリの指摘に反論できず、結果的にヒショウが押し負けたのであった。

ヒショウは久しぶりに寝台に腰を下ろす。ホトが使っていた者に比べてしまえば比べものにならないほど質素なものだったが、それでも体を休める場所があるというのは確かにありがたいことかもしれなかった。

 ヒショウが物思いにふけっていると、すでに寝台の上に寝っ転がっていた少女が不満そうに声をあげた。

「ねえねえ、お母さん。大丈夫なの?」

「え?大丈夫、大丈夫。ここは私も知っている所だから」

「……あの人、信頼できるの?」

「うん。出来るよ」

ヒショウの答えに迷いはなかった。

「この村の人たちのことは信じられる。というか、疑うことは出来ないかな。昔、命を助けてもらったから」

「恩、があるってこと?」

「うん。もしかするとそれ以上のことかもしれないけどね」

「借りってこと?」

「まあ、ね。借りた仮は返さないといけないけれど、あの借りにみあった返しを私は出来るのかな」

「ふうん」

少女は音もなくすっとヒショウの前に舞い降りると、ヒショウの顔を、あるいは目の奥をじっとのぞき込んだ。

「それって、弱みを握られてるってことじゃないの?」

少女の顔には笑みがない。温度すらも感じられないほどに冷たかった。

「これも実は罠で、私たちがここにいることを南都の方に漏しているんじゃないの?お母さんが断れないのを知っていて、わざとここに捉えてんじゃないの?それとも、あわよくば私たちを殺そうとしているんじゃないなお?」

「違うよ」

ヒショウは少女を強く抱きしめた。少女は抵抗こそしないものの、ヒショウの言葉を聞く気はないようだ。

「お母さんはだまされているんじゃないの?そしたら……ううん。私はそんなことは気にしていない。お母さんに聞きたいのは……もしも、この村の人たちがお母さんの敵だったら、私はその人達を殺しても怒らない?悲しまない?もしそうしちゃだめなら、私はどうすればいい?」

「大丈夫」

「私には何が出来るの?」

「大丈夫」

「私は殺すことしかできないの?」

「大丈夫だよ」

ヒショウは強くそう言い聞かせた。

「あの人達は仲間だよ」

優しくされることは決して、弱みを握られるってことじゃないんだよ。感謝するってことは、因縁のしがらみから解放されるってことなんだよ。本当はそう、少女に教えてあげたい。

 でも、ヒショウにはそれが出来なかった。

 ヒショウだって、慣れていないのだ。自分だって未だに、大して優しさに慣れている訳ではないから。こんな時にどうすれば良いのか、優しさをどんな風に表現すべきなのか、胸を張って言えるほどの自信は持ち合わせていないから。

「大丈夫ですか?」

扉をたたく音がした。

「えっと」

ヒショウは少女を抱きしめていた腕を反射的に緩めた。少女の方もずるずると寝台の布団に潜り、ふて寝を始める。

「入りますよ」

「あ、はい、どうぞ!」

入ってきたヒバリは手に籠を持っていた。籠の中からは香ばしい香りがしている。

「あの、お食事をお持ちしました。相変わらず、こんなものしかなくて恐縮なんですけど」

「パン!ありがとうございます!」

ヒショウは満面の笑みを浮かべて籠を受けとった。

「では、私はこれで。何かあったら、お呼びください」

ヒバリは軽く頭を下げると部屋を出て行こうとした。

「まってください」

ヒショウはヒバリの腕をつかむ。

「是非ここにいてください。もし良ければ、一緒に食べませんか?」

ヒバリは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに納得したように微笑んだ。

「ええ、勿論」

「本当に、ご迷惑ではないですか?」

「ええ、勿論です。誘っていただいて、光栄です」

「よかった」

ヒバリは返事を聞くともう一度今度はにっこりと笑ってテキパキとお茶を入れた。そのまま机の上を整えると、ヒショウの前の椅子を引いて手でしめす。

「どうぞ、お座りください」

「……」

ヒショウは自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

「そ、そんな」

「やめてください、でしょ?」

「え?」

「うふふ」

ヒバリは笑った。

「言うと思いました。大丈夫ですよ。この村ではあなたでいてください」

じゃあ遠慮なく座っちゃいますね、とヒバリは言うと、席に着く。

「きっと何か大変なことになっているのでしょうけど、きっと大丈夫です。こんなことを言っても無責任だと言われてしまうのかもしれませんけど、ね。束の間、今だけ、ここでは私たちに好き勝手なんでも行っちゃってください」

ヒショウは少し口を開き、すぐに噤んだ。

 うれしかった。ヒバリとなら、対等に、主従でもなく、敵でもなく、本当に友人として話が出来る。

けど、甘えてはいけない気もした。巻き込むことでこの村に危害が及ぶかもしれないという懸念が彼の中で大きくなっていった。

「さ、たべましょ」

ヒショウは促されるままに席に着く。

「君は……食べる?」

ふて寝をしている少女に声をかけると、頭ごと完全に布団に潜り込んでしまった。どうやら完全にすねてしまったらしい。

「すみません。あの子の分はここにとって置いて貰っても良いですか?」

「良いですよ。残念。一緒に是非食べたかったのに」

ヒバリはそう言ったものの、別段気にはしていないように思えた。少なくともヒショウの目にはそう写った。

「明日の朝にはここを発ちます」

「引き留めたい気持ちもありますが……いや、しかし、私にはそんなことは出来ませんので。少し残念ですがまた落ち着いた頃にいらしてください」

「……」

「あなたのお陰で私、元気になったでしょう?だから久しぶりに、あの村に行ってみたんです」

「まあ、行ったからって何も変わらないんですけど、でも、久しぶりにやっと両親や良くしてくれたみんなにさようならが言えた気がします」

「……」

ヒショウは何も言わない。うつむく代わりに、静かにヒバリの話に耳を傾けた。

「「それにしても、私、良くもあんな距離を一人で走ったものだなと我ながらに驚いてしまいました。元気になった今でも、あそこまで走って行くのはそれなりにきつかったんです。本当に、人間って、いざというときには強いんですね」

ヒバリはおかしそうにそう言った。

「畑仕事もいっぱい手伝えるようになったんですよ。私は収穫するのがうまいみたいで、おじさん達に頼りになるって、手伝ってくれて助かるって言われたんです。パンも焼けるように頑張ったんですけど……。こっちは全然だめで、どうしてもひっくり返しちゃって粉だらけに家中しちゃうんです」

「僕も……。僕も失敗しました、パン焼くの。ゼン様に振る舞おうとして、それで……」

「そうですよね。あれ、なんで失敗しちゃうんだろ」

ヒバリは元気に笑い転げる。

「あの……」

「はい?」

「なんで聞かないんですか?」

「何をですか?」

ヒバリは首をかしげる。

「僕らのことです。それに、この子の正体とか。それに」

「だって、それは私が聞かずともあなたが反してくれるのでしょう」

彼女は、さもそれが当たり前であるかのように言った。

 当たり前。

 すごいと思う。そして、優しい。

「すみません」

「え?」

「僕はここに最悪を持ち込んでしまったかもしれません。もしもここに兵士達が負ってきたら」

「良いですよ、そんなの。私たちは私たちなりの身の守り方を知っています。追われているような人をかくまうのはお安い御用です」

ヒバリの目はまっすぐにヒショウを射貫いた。強い自信が彼女から漏れ出していた。

「私としてはあなたとこうしてまたお話出来たことそれ自体が喜ばしいことですし、他の皆さんもお元気なあなたの姿を見ただけで救われたのです。子供達も元気そうにしていたでしょう?」

「そんな」

「本当ですよ。その子もあなたの大切な人で、あなたが望むであれば喜んでこの村で養います。あなたがどんな事情を抱えていても、私たちはあなたの味方ですよ」

ヒショウは胸の奥がまるで火でもついたかのように暖かくなっていくのを感じた。いつからだっただろうか。自分がこんな気持ちを持つようになったのは。

「大丈夫ですか?」

「……はい」

「もう。本当に、どうしたんですが」

「え?」

ヒショウは首をかしげる。

「僕のことですか?」

「ええ。あなたですよ。私を助けに導いてくれたあなたはもっと明るくて希望に満ちあふれていた。でも、今はそんな様子はまったく見られません。一体何があったのですか?」

「僕はあなたが感心したような以前の僕とは全く異なると言うことですね」

「違う、ともまた違うんでしょうけど……。あの、私に気をつかわないでください。その、話、だってあなたがしたいときにしてくだされば良いですし、話していただけなくても、私は別にかまいません。ただ私はあなたとどうでも良い会話をしてパンを食べることが出来れば、今はそれで十分です」

そう言って彼女は一口パンをかじった。ヒバリはいつだってヒショウの光だ。背中を押し、一歩踏み出す勇気をくれる。

 彼女になら――。

「なるほど」

所々が虫食いなヒショウの話を聞き終えると、ツグミは興味深そうにうなずいた。

「あの」

「はい?」

「どうしてそんなにうれしそうなんですか?」

「え?」

ヒバリは無意識だったようで頬を押さえて首をかしげている。

「ごめんなさい。お気を悪くしてしまいましたか?」

「あ、いや」

別にそんなことはない。自分でも不思議だった。彼女に関して深いな気落ちは感じない。いや、感じることが出来ないというのが正しいだろう。

 ヒバリが笑った。

 なぜだろう。僕もうれしくなる。

 きっとそれは、彼女が元気であることの証拠だからだ。今まで裂け目のせいでつらい思いをしてきた彼女が心から自由に笑えるのは喜ばしいことだ。そしてそれは同時に、己がなしたことの証明でもあった。そうして自分の存在意義を理解するように感じた。

「ヒショウさんはすごいですね。ゼン様が王都にいるとよく自信を持てましたね」

「ええ。あの方なら、そうしそうな気がして……。でも、実は、僕に自信をくれたのはこの子なんですよ」

ヒショウは少女の方を見た。

「その子が、あっているっていうんです。その子は、あの、ゼン様とつながっているっていうか……その、特別な力があって、この子が言うことは信じられるんです」

「すごい方なんですね。皆さん本当に」

「この子は本当に……。それにあの方はまだ王都に仕事があるのかなって思って」

「仕事?」

「あ、これは僕の勘なんです。だから別に、証拠とか根拠とかはないんですけど……」

ヒショウは恥ずかしそうに頬を赤らめると隠すようにうつむいた。

「仕事……例えばどんな?」

「たびん、裂け目を塞ぐことかなって。例えば、僕を探しに来たときには見つけられなかった裂け目が露呈したのを感じたからそれを塞ぎに言ったとか……?」

言いながらも、ヒショウはどこか腑に落ちないような気がしてならない。ゼンが裂け目を見逃すだなんてありえないにことのように思えてならなかった。

「そう、ですね……」

それはヒバリもおなじようだった。しばらく考え込んでいたひばりだが、ふと頭を上げると目を輝かせてヒショウの方を見た。

「わかったかもしれません!」

「え?」

「こう考えて見てはどうでしょう。裂け目を見つけられなかったのではなく、裂け目が大きすぎたのだと」

「大きすぎた?」

「それはもう大きすぎて、あの方だけでは閉じられなかった。そこであなたです」

「僕、ですか?」

「あの時は、あの方はもしかすると、あまりにも大きすぎる裂け目を閉じることを諦めていた。私の時だって、ヒショウさんがいなければ完全に私は回復出来なかったでしょう」

ヒバリは興奮して話続ける。

「ゼン様は、あなたを見つけた。あなたをみつけ、そしてその力を知った。そのあと紆余曲折あったようですけれど、でもあの方はそんな今こそが機会だと思ったんじゃないですか。追われている今だから、王都に行こうと。あなたがついてきてくれると信じて」

「……僕が?」

「あの方はきっと、一緒に裂け目を塞ごうとしているんですよ」

「え……」

「待ってるんですよ、あの方は。あなたを」

ヒバリは興奮して立ち上がると、勢いよく椅子から立ち上がってヒショウの手をつかんだ。あっけにとられていたヒショウも、少し遅れて優しく微笑んだ。

 正直、心から喜ぶことは出来ない。

 ゼンの期待はうれしい。だが、今でも、それに答えられる自信はまだない。

「まって、くれてるんでしょうか」

ヒショウはじぶんで言って、馬鹿馬鹿しいと思ってたが、朽ちに出さずにはいられなかった。

「僕は、邪魔なのかなって。僕は弱いから」

ヒショウは震える声を縛りだした。

「あの方は、きっと待てくれている。だから、今すぐにでもあの方の元に行って飛びつきたいし、そうしないといけないと思うんです。わかってるんです。でも、僕はこのごに及んで怖じ気づいてしまっている。僕は、王都には気安くは戻れない。あそこには僕の仲間がいます。僕をもう裏切り者としか認識していないかもしれない。僕があそこに簡単に戻るわけにはいかないんです。あの人達は僕を見れば殺すかもしれません。僕はそれでも良いんです。僕は、僕は死なないから。でも、でも、もう――。もう、あの人達にもう誰も殺してほしくない。それに僕は――」

 怖い。

 それが真実だ。

 裏切り者だと言われるだろう。お前なんか仲間じゃないと、裏切り者だと罵倒されるだろう。殺されても仕方がない化け物だと、今でも自分も思っている。でも、果たして僕はそれに耐えられるのだろうか。

「軽い気持ちじゃないじゃないですか、あなたは。覚悟を決めてここまで来た。違うんですか?」

ヒバリに言われても、ヒショウはうつむくしかなかった。

「軽い気持ちでまさか来たんですか?」

「そ、そんな!そんなわけないです!」

「では、そうやって王都の闇を見るのが怖いと?過去の自分を見るのが怖いと?」

「……」

「でもあなたに、そんな弱音を吐いている暇はあるんですか?」

ヒバリの言葉には力がこもっていた。

「今だけは、どうぞ思いの丈をはいてください。でも、ズッとそうやってくすぶってちゃだめです。私だって、そうでした。私の場合は死ぬのも怖かった。本当に――本当に怖かったんですよ。じりじりと苦しみが近づいてくるのがわかって射ましたからね。でも、私は生きようとしました。そして今もこうして生きている」

ヒバリは両手でヒショウの手を包んだ。

「きっかけはあなたです。あなたが私に、生きろ、といった。だから私は決めました。あの罪を背負って生きてやるって」

「そんな。罪だなんて」

「いいんです。あれは、誰がなんと言おうと、立派な罪なんです。何が起きても、私の負い目は消えません。あなただって同じでしょう。仲間をすてて、自分の人生を歩き出した。そうしようもないぐらい立派な罪ですよ」

 罪。

 その言葉がひどくうなるように悲壮の中でこだました。

「死んでも、あなたは生きることにした。だからこそ、あなたは罪と向き合わなければいけない。今ここで怖じ気づいたからって、その罪から逃げていいわけではないんですから」

「僕」

「あなたはもう動き出してしまった。だからもう止まる必要はないんです。あなたはもう、南都にも戻れない。王都に行くしかないんですから、時々自分の背後についてきている者を確認しながらでも、前に走っていくしかない。これは誰の為でもなく、あなたが、あなたの為に売るべきことなんです」

「僕の、ため」

ゼン様が最初にあなたを置いていったのはきっと、あなたを守りたかったからです。危険な目に遭わせたくない。優しいゼン様はきっと、そんなことを思ってひよってしまった。そう、いまのあなたのようだわ。でも、あなたは、ただ守られるだけの存在じゃないでしょ。何の為にゼン様の従者として生きていくことにしたんでしたっけ?」

ヒバリは言い終わると満足げにまた席に座った。そのまま口に残りのパンを放り込むと、自分の湯飲みだけをかたづけて、ヒショウにパンを持たせると部屋を後にしようとした。

扉が閉まる直前、ヒバリはいたずらっぽく笑って振り向いた。

「というか、理屈とかぬきに、会いたいのなら会いにいくべきです。人間、いつ明日がなくなるかわからないんですから」

ぱたん、と扉が閉まる。ヒショウはパンの代わりにヒバリの言葉をかみしめた。

 なんの為に、ゼンの従者になったのか。

答えはわかりきっている。それでも、それが本当の答えなのかは自分でも定かではない。きっと有り余る時を使って考えたとしても、今のヒショウには明確な答えは出せないだろう。

 それでも、確約された最期の明日は、刻一刻と近づいていた。


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