小麦の村
朝早く、ゼンは外出をして行った。仕事の下見をするという。仕事の本番には連れて行ってもらうよう頼むつもりだが、下見の段階から迷惑をかけてはいけないとヒショウは今日は宿に残ることにした。とはいえ、特にやることもないので黙々と部屋で手紙を書いていると、一人の訪問者が来た。部屋の扉を元気よくたたかれ、驚きつつ恐る恐る扉を開ける。
「あ、あの、どなたでしょう。ゼン様は今、いらっしゃらないのですが……」
「おはようございます!」
扉に隠れているヒショウに笑顔を見せて立っていたのは、笑顔を浮かべた一人の少女だった。
「ご宿泊なさって、何か不便な点や困っていることはありませんか?」
「えっ、あ、はい」
少女の勢いに押されつつ、ヒショウは答える。
「よかったぁ!昨日はご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」
「昨日……?」
言われてやっと気がついた。確か、この少女は昨日倒れていた彼女だ。昨日はあんなに衰弱しきっている様子だったのに、こんなに急に元気になるとは思わなかった。
「体調は大丈夫なんですか?」
「ええ、今朝からとってもいいんですよ。ただ、いつまたああなるかわからなかったので今のうちに仕事してるんです。助けてくださってありがとうございました」
「えっと、あなたを助けたのはゼン様で、僕は、あの、まったく」
「いいえ。あなたにもお礼をさせてください!私は、ヒバリ!あなたの名前は?」
「えっ……えっと、ヒショウ、です」
「わあ!素敵な名前ですね!」
少年は目を伏せて紙を触った。
「ヒショウさんは、何かしたいことはありますか?」
「と、とくには……」
「では、この村を案内しましょう!さあさあ」
「い、いや、僕は」
ヒショウは部屋の奥に逃げ込んでしまおうかと思ったが、思いのほかヒショウをつかむヒバリの力が強く、無理矢理連れ出されたのであった。
宿を出てからというもの、ヒバリはずっとしゃべり通しである。
「村長様のお話は聞きましたか?」
「え、はい」
「じゃあ、あそこのものは触らせてもらいました?本は読んだ?」
「え、い、いえ」
「じゃあ、今から行きましょうか?村長さん家は面白いんですよ。いろんな国の怪しい呪物がそろっていて、絶対インチキなんですけど、話を聞くだけなら面白いんですよ。それに、あそこの本は、面白い者ばかりです。実は私、あそこにある本いつか全部読んじゃおうって思ってるんです」
「そう、なんですか……でも、僕はまたゼン様と行くって約束しているので」
「あら!そうだったんですね!なら、私とはそのあとで一緒に行きましょ!」
「……はい」
逃げ出したい。宿に帰りたい。それが今のヒショウの思いだ。そもそも、ゼン以外の人間とはあまりなじむ気がなかった。加えて、ヒバリは自分にはまぶしすぎる人間だ。ゼンとは異なる光を放っており、ヒショウではとても直視できない。うつむいて足跡を追うのが精一杯であった。こんなことになるなら、無理を言ってゼンの仕事について行けば良かったとも思う。だが、今更後悔したところでもう遅い。今できるのは、主人の評判を傷つけてしまわないように優秀な従者として振る舞うことだった。
「ここら辺一体は麦畑です。村では、この仕事でほとんどの人が生計を立てています」
そう言って少女が示した先には、一面肌色の土地が広がっていた。風にのってさわさわと揺れている様のあまりのきれいさに、ヒショウは思わず呼吸を忘れた。ゼンにも見せてあげたい、と、そんなことを思ってしまったのはなぜだろうか。
「麦からはお酒や、あとはパンとかが作られるんですよ」
「パン!」
ヒショウはつい叫んだ。
「どうかされたんですか?」
ヒバリは驚いて言った。
「あ、すみません、急に。昨日初めてパンを食べたんです。それがすごく、おいしくて……」
その時、ヒショウの腹が鳴った。すでに陽は昇りきり、村には昼ご飯の香りが漂っていた。
「ふふ」
ヒバリに笑われ、ヒショウは顔を赤らめる。
「宿に戻って、パン、食べますか?」
「お、お願いします」
ヒショウが丁寧に頭をさげた。その時、
「おや、ヒバリじゃないか」
という女の声が頭上から降り注いだ。慌ててヒショウは頭を上げ、視線を挙げる。女は、宿の女将だった。
「ちょっと外に出てくるって言うから何事かと思えば、そっちの子は」
女はまじまじとヒショウを見た。他の村の人もさきほどからそうだった。ゼンといるときには話しかけてこないくせに、ヒショウが一人になると声をかけてくる。まるで、ゼンを避けているかのように。ヒショウは思わず目をまた伏せた。
「ゼン様が連れていた子だね」
「は、はい。ゼン様にお仕えしています。ヒバリ様には村を案内していただいていました」
それを聞いて、女は明らかに顔をしかめる。
「麦畑は初めて見ました。すごくきれいで、連れてきていただけたことをどう感謝すればいいのか」
「ちょっとアンタ」
「は、はい」
女の低い声にヒショウは浴び得て返事をする。
「まさかアンタ、奴隷じゃないだろうね」
「えっ……」
ヒショウはすこし、反射的に後ずさりをした。
「ゼン様は王都から今回は来たんだろ。王都といえば、今は廃れていることで有名だ。行ったことはないけれど、無法地帯になっているんだろ。まさかアンタ、そこで売られていた奴隷、とかじゃあないだろうね。そうじゃないにしても、あの男に買われたのかい?」
「あ、いや、その、僕は確かに、奴隷として売られていたんですけど……」
ヒショウは少し口を開いたが、それ以上言葉をつなぐことが出来なかった。あの男、という言葉がヒショウの中で響いてしょうがなかった。
「無理矢理従わせられてるんじゃないかい?村でも、噂になっているよ。ゼン様は確かに尊敬すべきお方だけどさ、いくらそうでも、子供を物として買ったとなれば大問題だよ。もしアンタが無理矢理従わせられて苦しい思いをしているのなら」
「おばさん」
ヒバリがなだめるように言うが、女の口は塞がらない。
「もしもそうなら、そんな極悪非道な奴アタシ達が……」
「や、やめてください!」
ヒショウは叫んだ。なるべく、他の村人にも聞こえるように大きな声で。一度言ってしまえば、堰を切ったように思いがあふれだした。いままでずっと気になっていたのだ。もううんざりなのだ。我慢できない。自分のせいで、ゼンが村人から白い目を向けられていることは。ゼンが、悪人のように扱われていることは。
「ゼン様は、僕の恩人なんです!僕は、ゼン様の言葉のお陰であの場所を抜け出すことが出来た。ゼン様に出会えなければ、僕はきっとずっと、あそこでただあるだけの生をむさぼり、醜く生きていたでしょう。僕は多分、あの人には釣り合わない従者で、自分でも情けないと思っています。でも、あの方は僕の光なんです。僕がしたくて、あの方について回っているだけなんです。だから、お願いです。あの方を、悪者にしないで。あの人は、素晴らしい人なんです!それに――」
「ふふっ。ヒショウさんは本当に、ゼン様のことが好きなんですね」
ヒバリが笑いながら言った。気がつけば、様子を見に来たらしい人たちも皆、拍手をしたり笑顔を浮かべたり、泣いたり、と小さな騒ぎになっていた。誤解が解けたのならうれしいが、ここまで目立ってしまうとは思っていなかったヒショウは頬を赤らめる。
「わかった。アンタは苦しんではいないんだね。それなら、いいんだ。でも、つらいことがあったらいつでも言うんだよ」
「は、はい」
耳まで赤くなっている自分の体が恥ずかしく、ヒショウはさらに深くうつむいた。だが、ヒバリに手を取られふっと顔を上げる。
「じゃあ、早く帰ってパンを食べましょう!」




