炎
こういうときに、嫌に冷静でいられる自分が恐ろしい。ヒショウは炎の中、しみじみと感慨にふけっていた。
ここはあの屋敷。
美しかった庭が、今は一面真っ赤に染まっている。噴水は壊され水は涸れており、四方は炎に囲まれていた。
普通の人間ならこんな状況に耐えられまい。外套は宿に置いてきたので、炎の熱が、じかにヒショウの肌を焼いた。本来なら熱気ですぐにでも肺が焼けてしまうだろうが、どうやら全身がやけどと再生を繰り返しているらしく、ヒショウの体にはなんの影響もなかった。これならばおそらく、ここにいた人々も逃げおおせられたはずだ。屋敷の一角では村の人たちによる消火活動が続いている。この場所は、それすらも届かないような炎が激しい場所であった。
周囲にある影は全部で三つ。ヒショウ。少し離れたところに、フブキ。屋根の上にセッカ。ホトには宿から出ないように言ってきたので、おそらく窓に腰掛けてこちらの様子を見ていることだろう。
「いつでもこい」
ヒショウの一言で戦いの火蓋が切られた。
先に動いたのはフブキの方だ。
フブキは逃げも隠れもせずに突進してくる。拳が振るわれると、ヒショウは軽くそれを避けた。次は逆方向からの拳。ヒショウはまた軽やかに避けて見せた。ひたすらにその繰り返しが続いた。
「おやおや。避けてばかりではありませんか」
セッカは傍観者のように言うが、ヒショウは聞く耳も持たず、ただ逃げてまわる。
「もしかして、フブキの体力切れでも狙っているのですか?それは諦めた方がいい。フブキの体力は無限大です」
とはいえ、ヒショウの体力もいっこうに切れそうにない。むしろ力がみなぎってきている気がしてならない。
今度はフブキのけりが飛んでくる。ヒショウは避けるついでにフブキの足を切りつけた。
「ん?」
フブキは小さくそう反応したものの、実際はびくともしていないようだった。分厚い筋肉が邪魔をして、傷一つついていないようだ。
だめか。
ヒショウは素早く作戦を切り替える。
今度は、炎に近づいた。追いかけてくるフブキを軽く避けて、後ろからフブキを押した、体が大きいが故に一度バランスを崩してしまえば持ち直すことはむずかしい。フブキの巨体は、炎の中に崩れた。さすがの巨体でも、炎には勝てまい。
一人は片づいた。次だ。
ヒショウは急いでセッカの方へ走った。
しかし、その時、じわり、とヒショウの中から何かがあふれ出した。腹のあたりが鈍く痛い。見てみると、ヒショウの腹を貫くように剣が刺さっている。ぐらり、と視界が揺れた気がした。ヒショウは慌てて、炎の中に落ちたはずのフブキを見る。
「さすがは我が弟です」
フブキの姿は、炎の中にはなかった。自分の力で炎の中から抜け出したようだが、炎の前に倒れている彼の肌はただれていた。
意識を失う間際に、短剣をヒショウに投げた訳か。
ヒショウは無心で剣をぬいた。ヒショウの血がついた剣も握りしめ構えると容赦なくフブキに刺した。彼の心臓の鼓動が止まったのを確認して、剣を勢いよくぬくと、息を吐き、まっすぐセッカの方を見た。
「鬼ごっこの意図はこれでしたか」
「……」
「あなたはフブキの剣がほしかったのですね」
「次はお前だ。かかってこい」
ヒショウがいうと、セッカの影がゆらりと動いた。
フブキとは異なり、セッカはすぐにどこかに身を隠したようだ。
「どこに行った」
気配が消えたと思ったその時だった。
「フブキが命を危険にさらしてでも、教えてくれましたよ」
背後でセッカの声がした。ぐっさりと、ヒショウの心臓に短剣が刺さる。
「うっ……」
ヒショウが持っていた短剣が手からこぼれ落ちる。貫き出ている剣先を押し戻して剣をぬこうとするが、剣はうごかない。
「抜けませんよね。かわいそうに。痛そうだ」
剣が抜けないのは、セッカが持ち手をつかんでいるからかと思っていたが、ヒショウが苦戦しているうちに彼がゆっくりと手を離したのがわかった。それでも、剣はびくともしない。
「フブキのお陰でわかったのですよ。あなたをただ殺しても意味がない。あなたを殺し続けなくてはいけないって」
ヒショウはセッカの言葉を聞いてやっと理解した。剣が抜けないのは、ヒショウの体が剣ごと再生してしまっているからだ。剣の周りの肉が再生されたせいで、剣が動く隙間がなくなっているのである。
「さて、次はあの男を殺すことにしましょうかね。あの男が死ねば、今のあなたはひとまず自由になるわけですし」
セッカの視線の先には、いつの間にか先ほどまでセッカがいた位置にまで来ていたらしいホトがいた。ヒショウと目が合うと、呑気に手を振ってくる。
「あいにく俺は目が悪くてね。あなたの目はここからでは見えないんですよ」
「それは残念。私のこの美しい目を見られないとはね。でも、わかるよ。私も、綺麗な女性と子供しか基本見えていないからね」
つまり、とホトは言い直す。
「君みたいな外道は、私の視界にすら入らない、興味の対象でもないのだよ。君たちのあがめている神だって、僕にとっては同じだ」
その時だった。
セッカがホトの方へかけた。大きく跳躍して屋根へ飛び乗ろうとする。
対して、ホトは逃げるはことおろか避けることすらしない。
なぜなら、彼には見えていたから。
剣を構え、セッカに向けて大きく振りかぶるヒショウの姿が。
炎の光を反射する白い髪はまるで、赤く染まったように思えた。ホトはその美しさを満足げに眺め、うれしそうに笑った。
「やめろっ!」
セッカにとっては、不意打ちだった。ヒショウが握っていたのは、彼の肉がまだついたままの短剣だった。その短剣は見事にセッカの胸を貫いたのだ。
「ぐっ……」
フブキに比べ肉付きの薄いセッカはその場で崩れ落ちる。
「なぜ」
セッカはつぶやいた。
「なぜあなたがあの男を守る?肉をえぐって、自分を痛めつけてまで、なぜ」
「僕は別に、あの人をかばったわけじゃない」
ヒショウは虫の息になっているセッカを見下ろしながら言った。
「あなた達に見せつけてやったんです。僕が今、いかに幸せであるかを」
ヒショウがホトをかばったのは、ホトのことをかわいそうだと思ったからだ。
「僕は、ホト様にここで死んでほしくなかった。心の支えになってくれる、もしくは、そうしてくれるような存在に会えないまま、死んでほしくなかった」
勘違いをしていた。あの時の嫉妬の意味がやっとわかったのだ。たとえ外見上は似ていても、孤高と、孤独は違う。ホトはただ、寂しがり屋の孤独な人間なのだ。それを、かわいそうだと思った。
「僕は、ホト様を可哀想だと心から思った。でも、そうやって人を哀れに思えるのは自分が満ち足りている証拠です。僕が今幸せだから、ホト様を不幸だと思ったんです」
まるで詭弁のようだと自分でも思っている。でも、それでもいいと思えた。この説明が自分の中では最も納得がいった。
「僕は、あなた方があなたたちなりの正義を持って行動していることはわかっています。それは僕を心配してのことでしょう?だったら、もう心配はいりません。僕は十分幸せです」
セッカは聞くと、乾いた声で笑った。
「そう言われてしまっては、あなたを思って、と散々言ってきた我々には何も出来ないですねえ」
セッカの視界は真っ赤に染まっていく。
「最後に。我々を倒しただけで、満足しなさらないでくださいね。これからも、あなたを保護するまで、慈悲深いあの方はあなたに刺客を贈り続けるでしょう。そのことをお忘れなく」
セッカの全身から力が抜けたのが見ていてわかり。戦いの、終わりだった。
静寂に包まれた戦場に、一つ、また一つと水滴の痕が出来ていく。しばらくすれば通り雨が降り始めた。
そう言えば昨日は夕焼けを見ていなかった。
ヒショウは少し残念そうに、空を仰ぎ見た。




