本性
ヒショウは歩いていた。行く当てはない。ただ闇雲に歩いて行く。
そして足を止めた。
「なんの用だ」
ヒショウは冷ややかな声で背後の殺気に言葉を放つ。
「言ったはずよ。仕事をして」
少女は感情のこもっていない声で言った。その手にはヒショウへと向けられた短剣が握られている。
「仕事はする。用はそれだけか。早く金を持って帰ってくれ」
「嘘。あなたは迷っている」
「迷っているのはお前だろ。なぜ仕事が終わったのに早く帰らないんだ」
「伝言がある。あの男から。それを伝えて、私は帰る」
「伝言?」
「お前は俺のもんだ。早く帰ってこい。ガキがどうなってもいいのか」
ヒショウがひゅっと息をのむ音が響いた。
「そんなこと、言われなくてもわかっている」
「あなたは字を書ける。顔もいい。演技もうまい。何より、物わかりが良くてあの男に従順。仕事も簡単にこなして、必ず戻ってくる。あの男の言うことは、どんなに汚れ仕事だってあなたは従うからあの人はあなたを気に入っている」
「別に、そんなのお前だって同じだ。僕たちはそうでもして飼い主に尻尾を振っていなければ生きていけないから、みんなそうしてる」
「でも、あなたはあの人にとって特別だった。特別に都合のいい駒だった。だけどあなたは変わってしまった」
少女は静かにそう言った。今までの言葉に、彼女の意志は含まれていない。すべてあの男にいわされている台詞だ。自分だってついこの間まで、いや、もしかすると今でも、そうなのだから。
「こんなところで何をしているの。もう何回も同じことをしてきたはずなのに、どうして今回はそんなに迷っているの。こんなところで奴隷を気取って、他の人に哀れまれて、ちやほやされて、親しい人も出来て、まるで今のあなたは人間のように、心がある人のように、見える」
「演技だよ、なにもかも。仕事の機会を得るための」
「あなたと昨日会ったとき、あなたは私をおびえた目で見た。それが何よりの証拠」
「それ、は……」
「あなたを買ったあの男に大切にされて、勘違いでもしているの?生娘でもないのに?わかっているでしょ。あの男がたとえあなたに優しくしてくれても、あの男はあなたの気持ちには応えてくれない。あの男はそうやってあなたに優しくして優しいふりをして、いい気になっているだけの男よ。今までにあなたを買っていった人と変わらない。あなたを使って自己満足をしたいだけのクソ野郎」
「やめろ」
「それとも、逃げたくなったの?あなたは逃げられないわよ。逃げたところで、ひとりぼっちのあなたに何が出来るの?あなたは、こうやって生きるしか方法をしらない。逃げたとしても、あなたは必ず王都に戻ってくる。あの男の元でまた、物として売られる生活しかできない」
「うるさい」
「あなたは仕事をしなければ生きる価値はないの。どうしても出来ないというのなら、私が代わりにやってあげる。あんな男、簡単に殺してあげる。そして一緒に、あそこへ帰りましょ」
「結構だ」
ヒショウは言い放った。片手で頬の刺繍をなでるとくるりと振り向いて少女の短剣を奪った。
「仕事は僕がする」
「いいの?これは最後の忠告だった。嘘をついたなら、私はあなたを殺せと言われている。それは、いや」
「嘘?馬鹿馬鹿しい。すぐ後からお前を追いかけよう」
「わかった。気をつけて」
「気をつけて」
冷たい風が通り過ぎていったと思うと、少女の姿はなくなっていた。ヒショウはしばらくの間ただ呆然と立ち尽くした。
正直に言って、自分でも良くわからないのだ。
自分は本当に、ゼンのせいで変わってしまったのかもしれない。そう思ってしまう、そしてそれを受け入れようとしている自分が、怖かった。
何が幸せか。
自分はどうしたいのか。
ヒショウには何もわからなかった。
枝を拾ってゼンの所へ帰れば、彼がもっていたたいまつは地面に刺さっており、その四方でゼンが仰向けになって倒れていた。
「ゼン様!まさか」
まさかあいつ、ゼン様を――。
ヒショウがあせってかけよると、ゼンはただ眠っているだけのようだった。というより、目をつぶって休んでいただけのようだ。ヒショウは思わず目元を緩ませ、安心したような顔をする。それは、さっきまでとは打って変わって、主人を慕う一人の少年従者の顔だった。
「枝、拾ってきたか?」
「はい」
ヒショウは枝を地面に置き、たいまつごと火を投げ込む。パチパチと音を立て小さな明かりが灯った。
「何も、いなかったか?」
「はい」
「動物も、人もか?」
ヒショウは一瞬黙った。しかしすぐに、首を横に振った。
「いませんでしたよ」
いたのは、ただの奴隷だけだ。あれは、動物でも、人でもない。ただの、物だ。
「殺気を感じたが、あれは気のせいだったんだな。お前に、何もなくて良かったよ」
「はい」
胸が苦しかった。優しさが、怖かった。
「ありがとう、ございます」
いっそのこと、ほかの主人のように虐げてくれれば良かったのに。
そんなことを考えているヒショウのことなどお構いなしに、ゼンはヒショウに自分の隣に座るように促す。何かが肩にかけられた、と少年が目を落とせば、いつの間にかゼンの外套にくるまれていた。これは、ヒショウが王都で初めてゼンを見たときに着ていたものだろう。一瞬にして、あたりがゼンの香りに包まれる。それを、心地よいと思ってしまった。見上げれば、優しく微笑むゼンの姿があった。
「夜は冷える。お前が帰ってきてくれて、本当に良かったよ」
ゼンは愛おしむような目をヒショウに向けた。ヒショウは幸せをかみしめるようにうっとりとゼンの方をみたが、そこでふと気がついた。
ゼンの目の奥が笑っていなかった。
どうして。
本能的に感じた恐怖から、ヒショウはゼンからほんの少し離れようとするが、それはかなわない。外套のせいか、うまく身動きがとれなかった。
「あの村周辺じゃどうやら人殺しがうろついているらしいから、良かった。人殺しがうろついているところで寝泊まりするだなんてたまったもんじゃないからな」
ヒショウはゼンの言葉に思わず顔を伏せる。
「村で人殺しがあったそうじゃないか。お前、知っているか?」
「は、はい。申し訳ありません。お伝えしておりませんでした。ゼン様をいたずらに不安にさせてはいけないと思いまして」
ヒショウはできる限り平静を保って言った。
「余計に気を遣う必要はない。犯人も捕まっていないらしいし、お前も怖かっただろ?こちらこそ、そんな時にそばにいてやれなくて済まなかったな」
「いえ」
少しの間、沈黙が続く。
「殺されたのは金持ちの男だったらしいな。やったのは奴隷らしい。それも、女らしい」
ヒショウは何も言わない。
「あの金持ちの男は東都の領主でな、羽振りがいいことで有名だったが、同時に、奴隷好きでも有名だった。民から搾り取った金で奴隷を買い侍らせることを生きがいにしていたらしい。馬鹿だよな。金じゃあねえんだから大勢連れていたとこでなんの利益にもならないだろうに。同情すら出来ない奴だった」
ゼンはまるで、知り合いであるかのように話す。
「だが、そんな奴だからこそ、殺しちまったらあとに残るのは面倒ごとばかりだ。そりゃあ殺した奴は金を盗れて良かったかもしれねえが、残された奴隷や民は大変だろうな。主人を亡くした奴隷は生きていけない。民だって、何も行動を起こせなければ、廃れて行くだろうな。いずれは王都のように――」
ゼンはヒショウの方をのぞき見た。彼とて、ゼンの言わんとしていることはわかっているだろう。わざわざ言う必要もないはずだ。その証拠に、彼のおびえは痛いほど伝わってきていた。
「あの男のことはともかく、東都が心配だな。まあ、自分たちでどうにかして貰うしかないんだが、俺も多分、今まで以上にあの国に行って仕事をしなくちゃいけなくなるだろう」
統べる者がいなければ、都は滅んでいく。都が滅べば、民の心は廃れていく。そうなれば、さらにあの裂け目は増え、さらに人々は堕ちていくだろう。
「その奴隷は一体なぜあの男を殺したんだろうな。金に目がくらんだのか、感情的、衝動的なものだったのか。あるいは、誰かのためか」
ヒショウがピクリと反応した。
「誰かの為だとすると、誰の為なんだろうな。奴隷、というからには家族もいない可能性も高いし……ああ、奴隷仲間の為、とかかな」
ゼンは笑みを浮かべた。だがこれは、先ほどまでとはまったく違う冷ややかな笑みだ。
「仲間の為金を奪って帰っているのか。あくまでもこれは想像の枠をでないが、もしこの推理が本当だとすれば、あの殺された男と同じくらい馬鹿げた話だ。まさに、自分のことしか考えられないような馬鹿がやることだ」
ヒショウの体が小刻みに震えた。
「ああ、そうそう。あの奴隷は王都出身らしいな。まあ、そうか、今時の奴隷はな。最近、そういう事件が多いんだ。王都で奴隷を買ったやつが殺されて金目のものを奪って行方をくらますって言う。今回の奴も、もしかすると、もう何人も同じ手段で殺してきたのかもしれないな。同情はまったくしない訳でもないが、でも完全に見逃されることはないだろうな。なにせ人の命が奪われている」
ゼンはわざと語気を強めて言った。
「今回は殺した相手が不味かったな。相手は都だ。逃げ切れるわけもないし、捕まればその奴隷仲間もただじゃあ置かれないだろうな。おそらく皆殺し――」
ゼンは首に冷たい感触を感じ、大きくため息をつく。隣に座っていたはずのヒショウはいつのまにかゼンの背後に立ち、首に短剣をかざしていた。
「やっと、か」
「だまれ」
「お前と一緒に売られていた少女、あいつが犯人なんだろ」
「だまれ」
「お前って本当はそういう感じなんだな。いいぜ、嫌いじゃない。じゃあ、教えてやるよ。俺がお前に王都で接触したとき、俺はすでに今まで殺人事件を起こしてきた奴隷の中に赤髪の奴がいたことを知っていた。赤髪で顔に刺繍が入った奴隷が主人を殺した。そう、証言した奴隷がいたんだ」
ヒショウは唇をかむ。見られていたのか。
「安心しろ。その奴隷は殺しておいた」
「殺した?」
「ああ、殺した」
ゼンは薄ら笑いを浮かべる。ヒショウは顔色を変えない。
「目立つ髪ってのは何かと不便だな。それに、この綺麗な刺繍も」
ゼンは短剣を恐れることなく上を向くと、ヒショウの頬に手を当て優しくなでた。
「なにをっ」
ヒショウはあからさまに動揺すると、短剣を振り回す。ゼンはそれを難なく避けるとヘラヘラと笑った。
「触れられたくねえなら」
ゼンはヒショウの前に手をかざした。ヒショウはゼンの行動が理解出来ず、思わず動きを止めた。
「はい、完了」
「な、何をした」
「髪だ。髪を月光で染め上げてやった」
ゼンが細めた瞳には、すっかり白くなったヒショウの髪が映っていた。
「髪が……染めても色が変わらなかったのに」
「主になれば、従者にこんなことも出来るんだぜ」
ヒショウは戸惑いを隠せず、立ち尽くす。
「なあ、お前、なんで人殺しなんてしたんだ。やっぱり仲間の為か?」
「別に。命じられたから、それだけだ」
「本当にそうか?恩人である俺にまだ嘘をつくのか?」
ゼンはニヤニヤと笑っている。ヒショウは短剣を握る手の力を強めた。
「お前は、恩人なんかじゃない。お前のせいだ、全部、全部、何もかも!」
ヒショウはまた短剣を振るって飛びかかる。その俊敏さにはゼンも目を見張ったが、それでも刃はゼンには遠く及ばない。
「いままで俺を買った奴は、最低な奴らだった。僕を女か、家畜か、もしくは、使い捨ての塵みたいに使って、至福の喜びを得るような奴らばかりだった。僕はあいつらの隙を作るのに、甘んじて辱められることもあったけれど、でも、奴隷なんて普通はそんなもんだろ!奴隷は所詮、物なんだよ。それなのに、それなのにお前は僕をまるで従者のように扱って、僕に――」
ヒショウは少し言葉に詰まる。
「――僕に光を見せた。どうしようもなく明るい光に、僕は目がくらんで見えなくなっていたんだ。光が強くなればなるほど、影は濃くなるんだ」
この男にあったせいだ。
この男のせいで、自分はおかしくなった。この男とずっと一緒にいたいと思った。この人を殺したくないと思った。この人に仕えたいと思ったのだ。ゼンのことは殺したくない。同時に、王都の子供達にも死んでほしくない。そんな傲慢な願いをいつの間にか持つようになってしまったのだ。今となってはもう、わからなくなってしまった。今が虚像か現実か。演技か本心か。何もわからないのだ。
「そんなこと俺に言うのは、あいつと、お前ぐらいだ。うれしいよ、俺はあんなにも汚れているのに」
ゼンはヒショウに言う。
「でも、その光とやらに目がくらんだのは俺ではなく、お前自身の責任だろ。まるで八つ当たりのように殺されちゃあ、俺もさすがに死にきれねえな」
ゼンの声は冷え切っていた。
「一つ、いいことを教えてやろう」
「いいこと?」
「衝動的な殺しはうまくいかない。考えてみろ。お前が殺しをして、何が起こるか。お前がかつて殺した奴は、南都の富豪だった。あいつも相当嫌な奴だったが、それでもあいつが死んだせいで南都の経済が荒れたのは事実だ。お前は南都も敵に回してしまった。今じゃあお前はすっかりお尋ね者だ。さあ、お前はこれからどこへ行く?南都から逃げ切れると思っているのか?」
ヒショウは何も言わないが、歯をぎりっとつよくかみしめたのがわかった。
「俺を殺せば、下手人は十中八九お前ってことになる。俺は南都から派遣されているし、より南都は本格的に探すだろうな、お前のこと。お前が見つからなければ、王都の子供をとりあえず皆殺しにするかもしれない。あいつらはそのくらいやりかねない」
「命乞いのつもりか?」
「いいや。殺しはもっと計画的にやれってことだ。短絡的に俺を殺せば、損するのはお前だ。主が情けをかけてやってんだ。それでも、お前は俺を殺したいか?」
「僕は、そんな人間なんだ」
ヒショウはうつむいた。
「僕は、あの娘にうらやましがれるような人間じゃないんだ」
「人間、であることは認めてくれるんだな。良かった。俺の言葉はお前の中に残ったか」
「うるさいっ」
ヒショウは地面をふみしめて叫んだ。
「うるさいんだよ!お前らにはわかんないんだ。あそこで生きる僕たちのつらさが!お前らみたいな幸せ者は目障りで、お前らの言うことは耳障りなんだよ」
ヒショウは素早くゼンの心臓をめがけて短剣を振り上げた。それをみて、ゼンはにやりと笑う。同時に、ヒショウの動きが止まった。
「なんだ、これ!」
ヒショウの体は、まるで何かに縛られているかのように締め付けられた。手が、足が、首が、胸が、見えない何かでがんじがらめにされていた。
「仕置きだ」
ヒショウを縛り上げる何かがじりじりしまっていく。
「げほっ」
ヒショウは血を吐いた。全身を痛みが駆け巡る。
「なんだ?殺すなら早く殺せよ。それとも、僕をいたぶりたいだけか?お前も結局、他の奴と変わらないげすだな」
「言っただろ。これは仕置きだ。お前、いい加減主に嘘つくのやめろって。お前が人殺しだとか、俺の従者とかは、俺にとってどうでもいいんだ。お前は、本当のお前は、どうなんだ?本当に、ここで殺されたいのか?いい子ぶるなよ。それに、悪い奴ぶるな。お前はもっと単純なはずだ。人に褒められれば素直に照れて、怖いもんには正直におびえて、本当は欲深くて、パンが好き。普通の子供だ、お前は。本当のお前は、どうしたいんだ。俺を殺したいわけでも、俺に殺されたい訳でもないんだろ。本当のお前は、どうしたいんだ。まだ迷っているのか?」
ヒショウはゼンをにらみつけた。なんとか正気を保ってはいるが、体中に絡みついた何かは肌に食い込み、今では服に血がにじんでいる。
「僕は――」
ヒショウはかすれた声で言った。同時に、何かに操られるように、強制的にヒショウはゼンの前に膝をついた。逆らうことも出来ない強い力に、ヒショウはただ従った。短剣がポロリと手から転げ落ちる。
「僕は――生きたい」
何かが、プツンと切れた。鈴の音が一気に鳴る。その拍子に、ヒショウの体は大きく前方に傾き、ゼンがそれを抱えてやるとヒショウがつよく抱きついてきた。
「僕は、生きたいんです」
涙は、でなかった。ゼンの温かい手がヒショウの頭を包み込む。
――生きてください
――私の分まで
ゼンに甘えてはいけないことぐらい、頭でわかっていた。ゼンは本来、殺して金を奪うはずの相手に過ぎなかったのだ。それなのにいつしか、彼の存在が自分の中で大きくなっていった。殺しになれ、日常に絶望して冷え切っていたはずのヒショウの心に、ゼンは暖かな炎をともしたのだ。その炎はいつしか赤く燃え上がり、すっかりヒショウを包んでしまった。いつの間にか、ゼンを殺したくないどころか離れたくないとさえと、思うようになっていた。
ゼンの優しさはすべて、まやかしであったことはわかっている。ゼンは、ヒショウがただの奴隷でないことも知っていた。ゼンはヒショウが人殺しであることを知っていた。ゼンは明らかに自分よりも強い。彼が自分を野放しにし、あえて優しくして油断するようにしむけたのはきっと、自分に自供をさせ、そして殺すためなのだろう。
わかっているんだ、そんなことは。
なんて、おろかなんだ。自分が嫌になる。
だましていたはずが、だまされていたというのに。
「僕は、死にたくない。死にたく、ないんです。生きたくて、殺されたくなくて、それで、それで……それで、必死に、どんな仕事だって言われたとおりにやってきた。そうしなければ、生きていけなかったから」
ヒショウは子供のように叫び続けた。
「でも、もう、誰も殺したくない。一人の従者として、あなたのもとで生きたい。こんなこときっと、許されないけれど、ヒバリ様にうらやまれるような、幸せ者でいたいんです。こんな願い、きっとかなわないとわかっていても、それでも僕は生きるために抵抗をしたいんです」
「よく、言ったな」
ゼンはヒショウを抱きしめた。
「でも、諦めるのは間違いだ。自分が諦めちまったら、叶う願いも叶わない」
「いいんですが?」
ヒショウは、やっと頭を上げ、ゼンを見上げた。潤んだ目には、希望の光が見えた。もうかつての虚ろはそこにはなかった。
「いいんですか?僕みたいな人殺しが、奴隷が、あなたの従者として隣にいても?」
ヒショウとゼンの間で何かが火の明かりを反射してキラリと光る。
「ああ、いいよ。馬鹿なガキだろうと、従順な従者だろうと、人殺しであっても、お前が俺の隣で生きたいのなら、そうすればいい」
ヒショウの目から、一滴、涙がこぼれ落ち、糸を伝い落ちた。
「ただし、お前が生きていればの話だがな」
シャン。
鈴の音を最後に、ヒショウの意識はぷつりと途切れた。ゼンの腕の中で、ヒショウの軽いからだが力をなくしていく。ゼンは一瞬ヒショウの首元を触って脈が止まっていることを確認すると、すぐに少年から手を離す。たき火の脇にごろりとヒショウの死体を転がすと、脱ぎ捨てられた外套を拾って立ち上がった。ゼンは冷ややかな視線をヒショウに向けると、大きくため息をついた。
「ま、こんなもんか」
ヒショウが面倒くさそうに指先を動かせば、透明な糸がまるで生き物のように動いてゼンの腕に絡みついていく。ヒショウは気がついていないようだったが、彼のくびにはあったその日から糸が絡まっていた。それに、ゼンが外套をかけたのはヒショウの注意を一瞬そらせるためであり、あの時点で彼の全身には糸が絡みついてたのである。ゼンはただ、ヒショウを油断させるために多くの糸を途中で切ってみせ、最後に首に巻き付けた糸を指先で引いただけ。ただそれだけである。首に巻いていた糸には涙が落ちたせいか、きらきらと炎を反射して輝いて綺麗に見えた。しかしゼンはそんな物には目もくれず、遠くの闇を見つめていた。
「そのまま隠れている気か?何でもいいけど、どっちみち、お前の正体はばれてるぜ」
ゼンは視線の先にいる少女に言った。
「ヒショウは、その人は、死んだの?」
感情のない声で、少女は言った。
「さあな。自分を救えるのは自分のみだ」
ゼンは曖昧な返しをして、一本だけ糸を出すと指先で操る。
「持っていけ」
少女が息をのむ音がした。ゼンの元から伸びてきた糸の先には、細く、小枝のような物がぶら下がっている。それは、ヒショウの小指だった。
「お前が何を言ったところで、おそらくこいつが死んだとは信じてもらえないだろう。逃げたって言われて、下手をすればお前も共犯だと言われかねないからな」
少女はただ呆然とヒショウの指をみた。
「頭とかにするか?別にいいけど、お前が持ち帰るの大変だろ?」
「どうして私をかばうの?」
「お前はこいつの犠牲を無駄にするつもりか?お前まで死んだら、お前をこいつがかばった意味がないだろうが」
「別に、頼んでない」
「頼んでないのにやったんだから意味があるんだろうが」
少女は答えない。
「早く行け。お前は別に、迷うことなく王都に帰れるはずだ」
少女とて、この場所から一刻も早く逃げ出したかった。二人の様子をのぞき見ているとき、ヒショウの体に糸が絡みついていくのが見えた。それを無心で操るゼンを見た。
素直に、恐ろしいと思った。
だが、足がうごかない。
もしも、自分が気がついていないだけで今すでに糸でがんじがらめにされていたらどうする。逃げただけで死ぬことになったらどうする。少女の足は震えて、使い物にならなかった。
死にたくない。
そんな人間的な感情を持ったのはいつぶりだろうか。
あの場所から所詮自分は逃げられない。しかし同時に、今のほんの少しの迷いで、死が訪れることにも気がついてしまった。だからこそ、動けなかった。死が怖いと、迷いなく思えた。
「お前を殺しはしねえよ」
ゼンは少女の心を見透かしたように言った。
「こいつを買ったのも、そもそも王都へ行ったのも、俺の主の名に従ったまでだ。王都にいるという、赤髪に刺繍が入った顔をもつ人殺しの奴隷に興味がある。面白いから、連れてこい。ただし、もしも本当にただの人殺しなら殺してこい、ってな」
ゼンは彼の主のことを思い出して困ったように笑って見せた。
「だから俺は、お前を殺さない。俺はそう、命じられていないから」
それがゼンの答えだった。




