暗い森
ゼンとヒショウは夜の森を歩いていた。深く鬱蒼とした森の中をもう何時間歩いたことだろうか。この間、二人の間に会話はなかった。
「そっちの道を行くと、南都へいける」
やっと口を開いたゼンはそう言って分かれ道の片方を指さすと、それとは違う方の道に進んでいく。
「あの娘の村は、確かこの山を越えた先だって言ってたな」
「はい」
ヒショウはまた押し黙る。数日前までは当たり前のように行っていたことなのに、今は胸が痛くてたまらなかった。
「俺がいない間、何も変わったことはなかったか?」
「はい」
「何をしていた?」
「水をくんで、それからヒバリ様に村を案内していただいていました。あと、パンをいただきました」
「パン、か。相当気に入ったみたいで良かったよ。これで安心だな」
「え?」
「いや、なんでもない」
ゼンは振り向くこともなく歩き続ける。鬱蒼とした森の中では、ほんの少し油断をすれば怪我をしかねない。
「あの娘とはどうだった?」
ヒショウは一瞬間を置くと
「どう、とは?」
少しいぶかしげに尋ねる。
「仲良くはなれたか?」
「え、えっと……」
ヒショウは明らかに動揺をした。
「良かったな。仲良くなれたみたいで」
「ゼ、ゼン様の方は、な、なにか、あ、ありましたか?」
「俺は別に何も」
ゼンはため息をつく。
「まだまだ仕事場までは時間がかかりそうだし、少し、仕事の話をしよう。世界の裂け目の話だ」
どこまでも続いているかのように暗く荒れた道を二人は歩いて行く。明らかに人の作った道ではない。獣か何かが作った道である。この道を行った先に何があるのか、何があって何がないのか、ヒショウはそれを知らない。ただうつむいて前も見ずにゼンの後を追って歩いた。
「世界の裂け目が生まれてしまうのには理由がある。あれは自然の現象であるのと同時に、人が巻き起こすものでもあるからだ。人間は、生きていりゃあ恨みや悲しみ、ひいては、死んでしまいたい、世界なんてなくなってしまえば良い、そういう思いを育んじまう。そしてその思いは世界にほころびを入れる」
ヒショウがふんでしまった小枝がポキリと音を立てて折れた。
「世界の裂け目は何でも飲み込む。物も、人も、あれはみさかえがない。ふつう、裂け目は小さい段階で自然に修復されるんだ。だが時に、抱えきれないほどの絶望を持った人間が、大きすぎる裂け目を作ってしまうことがある。裂け目の大きさは作った人の絶望に比例するが、大きすぎる裂け目はその人自身を飲み込んで身も心も飲み込んでより深い絶望を生み出させるんだ。そうして裂け目は自然に修復されないほどに大きくなり、作り主を完全に飲み込むことでやっと閉じる。得体の知れない不調の正体ってのは大体がこれだ。俺は物理的に裂け目を塞ぐことが出来る。だが、その場合塞ぐことで裂け目の拡大は防げても、不調を直してやることは出来ないんだ」
ゼンが肩を落としたのが暗闇でもわかった。
「今回の裂け目の元は、まちがいない、ヒバリだ。話は聞かせて貰ったからな」
「聞いて、いたんですか?」
「ああ。お前はあの娘に近づけたみたいだし、二人にさせて正解だった。あの娘に事情を聞くことこそ、俺にとっての仕事の準備だからな」
ゼンは悪びれずに言った。いままで登ってきたはずの道がいつのまにか下り坂になっている。
「俺には出来なかった、あの娘から話を聞き出すだなんて。あれはお前にしか出来ない仕事だった」
「で、では、仕事に行くと言ってひとりで外出しなさったのは」
「俺みたいな奴がいたんじゃあ、気安くは会いに来てくれないような気がしていたからな。村の連中は、俺のこと白い目で見ていたし。お前のお陰であの子を救える。それに、俺をかばってくれたのもうれしかった。ありがとな、ヒショウ」
ヒショウは耳を塞ぎたかった。今すぐにでも否定して、叫んで、暴れたかった。だが、それが出来るならこんなことにはきっとならなかったのだ。こんな風に、つらい思いをする必要もなかったのだ。
こっちだ、と少し促してゼンはどんどん進んでいく。ゼンは足の動きを止める気はまだない。
「あの娘は世界に絶望していた。かつて、だ。今はどうだかわからない。世界に絶望し、自分を否定し続けて、この道を走り抜けていったのだろう。だからこそ彼女は、どうしようもなく深い暗闇を振り払うことが出来なかった。世界に裂け目が生じるのには十分なほどの絶望を彼女は抱えていたようだ」
「でも、そんなに苦しんだのに、そのせいでさらに、ヒバリ様は苦しまなくてはならなくなったのですか?」
「ああそうだ」
ゼンは冷淡に言う。
「それだけ、でも、それで十分なんだ。世界ってのはそのくらいもろくて、残酷な物なんだ」
ヒショウはあまりの衝撃で声が出なかった。ヒバリは、苦しく、つらく、怨んでも、寝たんでも、生きたいと思っても、どうしようもない現実から逃れるために、山道を走った。平和で幸せな未来を求めて、走った。なのに、おかしいじゃないか。絶望を一度してしまっただけで、平和で、幸せな未来はつかんではいけなくなってしまうのか?つかむことは出来ないのか?
おかしい。
そんなの、おかしすぎる。
ヒバリが幸せになれないのだとすれば、自分のような奴が幸せでいて良い訳なんかない。自分みたいな奴の願いばかりが叶って行く世界なんてないほうがましなのではないか?
視線の先は暗くて良くは見えない。けれども、目の前になにかがあることはわかった。ぼんやりとその輪郭が見えてくると、それが村の跡であることがわかった。人もいなければ、明かりもない。だけれども、村がここにあったのであろうことはすぐにわかった。ゼンは無言のまま慣れた手つきで堕ちていた木の板に火をつける。わずかに二人の周りだけが光で包まれた。
ヒショウは思わず、息をのんだ。照らされた場所には、ごろごろと黒い物体が堕ちている。太くてまっすぐな物はおそらく建物の残骸。黒くてでこぼこしている人型の物はおそらく――。
「ここが、ヒバリの故郷の村だ。こういう小さな医療がしっかりしていない村では病気が蔓延すると大体、患者を家ごと燃やしちまうからな。こうなっていたのはわかっていたが、それにしてもいたたまれないな」
ゼンハ言うとさらに歩き出した。黒い残骸には目もくれず、目的の場所へと歩き出す。
「裂け目の進行を抑える方法は実は一つではないんだ。世界に絶望することで出来る裂け目であれば、世界に希望を持たせることで修復は可能だ。だが、それは不可能に近い方法だ。一度絶望しちまった人間に希望を持たせるのは、至難の業でしかない」
「ヒバリ様をもう一度元気にさせてあげることはどうしても出来ないんですか?」
ヒショウは小さい声でつぶやくように言った。
「自分を助けられるのも、陥れるのも、自分次第だ。あれ以上体調の悪化が進行しないようにはしてやれる。だが、それ以上は俺には無理だ。この村がこの有様じゃあな。この村も、あの子もすべてを失っているんだ。あの子はそれでも強い。でもそのせいで、うまく心の傷を隠してしまっている。俺にはそれをのぞくことすら許してくれないだろう」
ゼンはヒショウの方を振り向く。
「ここは少しひらけているな。ここで少し休もうか」
確かに、二人がたどり着いたこの場所はかつて倒木があったらしくひらけており、突然夜空が綺麗に見えた。
「はい」
そう答えたその時、ゼンは何かの気配を感じた。それはヒショウも同じらしく、体を一瞬にしてこわばらせたのがわかる。
「獣が来ても面倒だし、なんかたき火でもするか」
「僕、少し周りを歩いて様子を見てきます。ついでに、燃えそうな物拾ってきますね」
「炭になっちまってんのは燃えないから拾わないようにしろよ」
「はい、わかりました……」
ヒショウは森の中へ入っていく。ゼンは黙って彼の後ろ姿を見送ると、静かに指をヒショウが消えた方に向け耳を近づけた。




