世界の裂け目
朱雀国。
世界の南方に位置するこの国で、一人の青年は目を覚ます。眠っていたはずなのに、体の疲労感が拭いきれない。床にただぼろ布を敷いただけの粗末な布団から身を起こし、まだ少しぼやけている頭を軽く振って、大きくのびをする。決して目覚めることはない同居人の眠りを妨げぬよう細心の注意を払いつつ身だしなみを整え、目立つ白い髪を隠すように布を巻いて、彼は家を出た。
「行ってきます」
同居人は答えることはなく、安らかな寝息を立てて青年、改めヒショウを送り出した。こんな日常が、もう五年も続いている。
ヒショウの住むこの場所は、朱雀国の王都にあたる。増加し続ける人口を追いかけるように建設された建物は林立し、所狭しにはびこっている。ヒショウの住むあばら屋はそのなかに埋もれるようにして立っているが、それでも少し目線をあげればこの都の象徴たる立派な王宮が見えた。朱雀宮の名にふさわしく、全体が朱に彩られ目を惹いている。この美しい王宮を一目見たいと他国から今では観光客も来ているほどであった。ヒショウはそんな王宮を見て、目を細めると小さくため息をついた。
「これで、よかったんだ」
「ヒショウ、そんなうかない顔しちゃって、せっかくの色男が台無しだよ」
声をかけてきたのは、近くに住む女だ。女は出窓からヒショウを見下ろして言う。
「いっつも王宮のほう見てはそんな顔しているけどさ、なにか思うところでもあんのかい」
「おはようございます。僕、いつもそんな感じですか?」
「おはよう。まあね。でも、王様に不満なんてあたしゃああいよ。あの人のお陰で、地獄みたいだったここも、一丁前の場所になったんだ、あの王様は優秀だよ。それに、とんでもない色男だって聞くしね。一度、この目で見てみたいよ」
女はうっとりしたような声で言う。確かに、この国の現在の王は優秀だ。登極してからたった五年で、人の死体が転がっているのが当たり前だったこの都をここまで立派な都にしたのだから。
「そう、ですね。別に、なにかある訳じゃあないんです。ただ、きれいだなって思って」
「そうかい?ならいいけど」
「じゃあ僕、仕事行きますね。今日もあの子の様子、時々見に行ってやってください」
「任せなよ。まったく、精が出るねえ。頑張るんだよ」
「はい!」
ヒショウが住む地域は、いわゆる裏通りだった。市場が建ち並び活気にあふれている大通りとは裏腹に、ここは静かな場所だ。迷路のように入り組んだ路地の地図は存在しない。この場所で暮らすには、慣れが不可欠だ。
ヒショウは建物の隙間から見える青空を仰ぎ見て、早足で歩みを進める。その足取りに迷いはない。建物があまりに近接するせいで、通りの石畳まで陽の光は届かない。どこまでも続いて行く日陰は、気持ちがよい。道を進めば進むほど、通りの賑わいも消え、生活音だけが時々聞こえるほどになっていく。静寂が、彼を包んでいった。
ふと、彼が足を止めたのは路地の中にひっそりと構えている噴水の前。この広場の周りだけは不思議と建物が建つことはなく、陽の光が存分に注ぎ込んでいる。光を反射し輝く水しぶきの美しさにつられ、ヒショウは思わず一歩足を踏み込んだ。
しかし。
「いけない」
ヒショウは慌ててきびすを返し、走り出す。体中にまとわせている仕事道具がけたたましい金属音を響かせた。彼の到来を告げるその音を聞きつけてか、ようやく見えてきた路地の出口には人が集まってくる。
「おーい!ヒショウー!」
見知った顔がヒショウに向けて大きく手を振っているのが見えた。
「皆さん!おはようございます!」
ヒショウも笑顔を浮かべ手を振り返す。
「おはよう」
「待っていたよ」
「さあこっちだ」
「ばあさんが苦しんでんだよ。早く来てくれ!」
「はい!わかりました!」
ヒショウは目的地に到着すると同時に、仕事に取りかかる。
ヒショウの仕事は、医者のまねごと。路地裏に住む貧しい人々に、己の特殊な力を生かして施しを行っている。こんな生活は、五年前には到底想像できなかった。秩序が存在せず、苦しみが人々を飲み込み、過去も未来もないような、生死すらわからなくなる地獄だったこの国は、ものの数年でいい国になった。
ここは、いい国になったのだ。
何事もすべて、まごうことなく、あの方の、お陰なのだ。
異論なんて、絶対に認めない。
「おかしくなったのは、今朝なんだ。急に胸のあたりを押さえて苦しみだして倒れちまって……昨日まではすごく元気だったんだぜ。酒だってあんなに飲んでたのに……」
ここは、都の発達から取り残された貧民達が暮らすキャンプだ。ヒショウが早速案内されたのはそこで長年暮らしている老婆のテントだった。
「今は意識がないようですね」
老婆は椅子に腰掛けたままぐったりとして目をつぶっている。ヒショウは慣れた様子で、己の右手を老婆の心臓の上あたりにおいた。
「おお」
心配そうに見つめていた人々から声が上がるのも無理はない。ヒショウが手をかざすと、ぼう、と橙色の光が手に灯り、二人の体を飲み込んでいった。炎のように揺らめく穏やかで優しい光は、見るものの心を漏れなく奪ってしまうほど美しい。人々はその美しさに思わず嘆息を漏した。
「おばあさん」
ヒショウが優しく声をかけると、老婆はゆっくりと目を開けた。その目は確実にヒショウに向いているが、その瞳は彼ではない何者かを見ていた。
「ばーさん!意識が戻ったのか!」
「すごい。さすがヒショウ様だ」
「世界一のお医者様だ」
「いえ、まだです。まだ油断は出来ません」
ヒショウはそう言うと、何かに集中するかのように目を閉じ、呼吸を整えた。すると老婆はゆっくり口を開く。
「お前、トビかい?」
老婆は寝言のように曖昧なろれつで言った。ヒショウも、その名はかつてこの老婆から聞いたことがあった。数十年前になくなったという、彼女の息子の名前だ。
「そうだよ、母さん」
ヒショウは答える。眼前でおこる不思議な現象を人々はただ静かに見つめた。
「トビや、来てくれたのかい?」
「そうだよ。母さんが心配で、様子を見に来たんだ」
ヒショウの話す声が、トビのそれのように聞こえたものもいた。ヒショウの姿に一瞬、生前のトビの姿が重なって見えたものもいた。ヒショウが女神のように見えたものもいたという。
「母さん、母さんはまだこっちに来ちゃだめだ。僕に会いにきちゃ、まだだめだよ。はやく引き返して」
「どうしてだい?せっかくお前に会えたんだ。もう別れたくないよ。悲しみたくないんだ」
「でも、僕は、僕のせいで母さんが死んでしまうのは、僕にとって母さんと今別れるよりもずっとつらいことだ。だから母さん、そんなことはしないで。僕とはまたちゃんと、あるべき時に会おう」
「そうか……そうなんだね。じゃあ、そうするよ」
「うん。じゃあ母さん、またね」
「ああ」
老婆がそう答えると、二人を包んでいた光が消えた。
「ヒショウ?」
「よかった。これでもう大丈夫ですね」
ほんの少し疲労の色を見せながらヒショウが答える。固唾をのんで様子を見守っていた人々に優しく笑いかけると、彼らはやっと大きく胸をなで下ろした。
「ばあさん、よかった。戻ってきたんだな」
「ばーさん!心配させんなよ」
「死んじまったらどうしようって、アタシ……」
「ヒショウが助けてくれたんだぜ。ばあさん、感謝しねえと」
「おお、ヒショウや。来てくれたのか、ありがとよ」
老婆ははっきりとしたろれつで言う。
「ええ、苦しんでいると聞いたので。でももう大丈夫そうですね。お酒、飲み過ぎちゃだめですよ」
「わかっとるよ。酒に酔えば、幻でもあの子に会えるからついすがっちまってね。また倒れたら、よろしく頼むよ」
「やめてくださいよ、そんなこというの」
すると、ぱっと光が消えた。老婆の瞳の焦点もヒショウにもどる。
ヒショウは少し困ったように眉を動かしながら答える。
「ばーさん、もう本当に体調は大丈夫なんだよな?」
「なったさ。この通りだ。ヒショウの治療はすごいでのう」
ヒショウは今までもこの場所で数々の人間の不調を直してきた。彼がもつその特殊な力を使って治療を行えば、体の不調も、心の不調もすぐに完璧に治ってしまうのであった。
「それに、トビにあの世の道を追い返されたのじゃ。あれは夢か……」
「ばーさんは、ヒショウをトビと見間違えてたんだよ」
「おお、そうなのかい?ヒショウ、ありがとねぇ」
「いえ、そんな。当然の仕事を僕はしたまでで」
「照れるなよぉ、今更」
男がからかうように言った。テントの中は安堵の笑いに包まれる。
「ヒショウ!こっちも頼むよ!」
「次はうちをお願い!」
テントの外からも次々にヒショウを呼ぶ声がする。
はい!今行きます!」
ヒショウは忙しく、次の治療へと向かう。テントの外に出た時、彼は突然はっと空を見上げた。
今感じた殺気は気のせいなのだろうか?
小さく渦巻いていた殺気が形となったのは、日が沈みかけ空が紫色になり始めた頃のことであった。一通りの治療を終え、家路につこうと路地に足を踏み入れた時点で、自らの後をつけるもの達の存在に気がついた。殺気を放っているのだからヒショウに害をもたらす気があるのは確実だ。それならば余計に他人を危険にさらすことがないよう、ヒショウは人気のない方向へ進んだ。
「しつこいな」
どれだけ撒こうとしても、感じる気配がなくならない。まるで行く先を知られているようだった。いくら路地の性質を知り尽くしているヒショウであっても、これ以上人気を避けて進むのには難がある。いい加減、どこかで敵を一掃してしまおうとあたりを見回したヒショウの目に入ったのは、月光を反射させて輝いているあの噴水だった。ちょうどいい。噴水の周りは小さな広場になっている。あそこなら一気に敵をかたづけられるだろう。
そう考えてヒショウが広場に一歩足を踏み入れた瞬間、矢の雨がヒショウに降りかかる。そして次の瞬間、軽やかな鈴の音とともに、矢は中空で動きを止めた。
「なんのまねだ」
ヒショウがほんの少し指先に力を入れれば、バキッと音を立てて矢達は一気に真っ二つに折れた。
「さすがだな、ヒショウ」
その声の主を、ヒショウは知っている。声がした方を見れば、物陰から一人の兵士が現れた。それをかわぎりに、ヒショウを囲い込むように兵士達が次々に姿を現す。彼らがまとっている鎧に刻まれているのは朱雀国王の紋章。彼らが国軍の兵士であることの証であった。
「あなただろうと思いました。普通、僕に荒いお願いがあるなら、あのキャンプの人たちを人質にします。まあ、一人も人質にさせる気はないですが、しかし、それをせず、あなたはわざわざ僕一人を個々に誘い込んで、待ち伏せをした。無駄な犠牲は常に望まないなどと言っているあの人の考えがよく出ていました」
「国王の命令だ。今すぐ王宮にこい。あの子供も一緒に、だ。今貴様がかくまっているのだろ」
「嫌です」
ヒショウははっきりと、そう答えた。
「僕はもう、あそこへは戻らない。あの子をもう苦しめたくはないんです」
「これは王命令だぞ。逆らうことはゆるされない。貴様、我々に逆らうことがどういうことかわかっているのか?」
「そっちこそ。僕を誰だと思っているんですか?」
動いたのは、ほぼ同時だったように思える。しかし、ほんの少しだけヒショウの法が早かったお陰でまた、鈴の音がなった。しゃん、という音に少し遅れて、兵士達の悲鳴が響き渡る。
「う、腕がぁ!」
「た、助けてくれー!」
ヒショウが指先を動かせば、血しぶきが舞った。彼が操る透明な糸は容赦なく兵士を切り刻んでいく。いつの間にか体に巻き付いていた糸は凶器と化し、逃げようと動けば動くほど絡みつき、兵士達の肉を切り裂いていった。逃げようとした兵士達も、空間に張り巡らされた糸によってスライスされる。なんとか逃げおおせた数少ない兵士達も多くが手負いだ。勝敗はヒショウに決まったように思えた。
しかし次の瞬間。
「私たちの勝ちだ」
兵士の声が、ヒショウのすぐ近くからしたと思った途端、彼の右腕が切り落とされた。
「なに!」
糸は空間のあらゆる場所に張り巡らされている。そのすべてを避けてヒショウの元にたどり着くのは至難の業であるはずだった。
「くそっ」
バランスを崩した体勢を立て直そうと、ヒショウは左手から糸を放つ。しかし、その糸も張ってすぐに他の兵士によって切られた。それだけではない。張り巡らせてあったはずの糸も次々に切られていく。糸で適当に止血をし、最低限敵を遠ざけようとするが片腕では出来ることは少ない。
「ああ、そうか」
そんな風に気がついたところで、もう遅かった。彼らの目的は、はじめからヒショウ本体を攻撃することではなかった。狙っていたのはおそらく、ヒショウが兵隊を切り血しぶきを上げさせることで、糸に血を付着させることだったのだ。現在ヒショウの腕から伸びている糸には血が滴り、その存在を主張している。これなら糸を避けることも可能だっただろう。張っていた糸はすべて切られ、自立する為に張っているたった一本の糸以外はすべて切り落とされていた。
「殺せ。言うことを聞かない場合は、容赦なく殺していいと言われている」
一人の兵士が指令すれば他の兵士達は一斉にヒショウに飛びかかった。
死にたくない。
そう反射的に思った。圧倒的に不利な状況に絶望するしかなかった。そしてその絶望が生んだものは、絶望、でしかなかった。
「止まれ!」
指令されずとも、兵士達が振り上げていた剣は宙で動きを止めた。兵士達は、ヒショウの背後にある何かをおびえた顔で見上げ固まっている。ヒショウもつられて頭だけ振り返ると、血の気が一瞬にして引いたのがわかった。
「どう……して……」
ヒショウの背後には、巨大な『裂け目』があった。世界を切り裂くその裂け目は、奥にあるらしい漆黒の闇をあらわにしてぱっくりと口を開いている。
「裂け目だ!」
「こんなに巨大なものは見たことがないぞ!」
「このままでは我々も飲み込まれる!」
「誰が作った?」
「早く生け贄を!」
兵士達は口々に叫ぶが、ヒショウは声を出すことが出来なかった。生理的な恐怖を感じた。死ぬかもしれないと、声を出すことさえままならないほどに絶望した。まるでこの裂け目に引きずり込まれるように、胸の中を闇が満たし、絶望が増大していく。
――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ――。
「糸を、切れ」
兵士はそう冷酷な声で指令を告げた。
「すべてあの方の作戦通りだ。かまわない。糸を、切れ」
「御意」
ぷつん、と音をたてて糸が切れれば、ヒショウの体は裂け目のほうへ傾いていった。体制を立て直そうにも、もう放つ糸がない。シャン、という小さな音とともに、ヒショウの体は抵抗も出来ず裂け目の中へ飲み込まれていった。
「助けて!」
やっとの思いで声を出したところで、無駄なことはわかっている。
――死にたくない!
ヒショウは神にすがるように、大きく手を伸ばした。
***
数千年前、世界は沈黙した。
秩序は消え、憎しみが人々を覆い、過去も未来も区別できないような絶望に支配された世界は、生と死の境も失っていた。
神はそんな世界に、四匹の獣を遣わせ、人々に救いをもたらした。
西の国には、秩序を支配する『青龍』を。
北の国には、感情を支配する『玄武』を。
東の国には、時間を支配する『白虎』を。
南の国には、生死を支配する『朱雀』を。
四匹の獣が統べる世界は、希望に満ちあふれた。そうして出来たのが我々住むこの世界である。




