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七海の秘密と、揺らぐ婚活の軸

七海が閉店作業中に作ってくれたカレーは、樋口彰の心に温かい光を灯した。あの無愛想な彼女の裏に隠された優しさに触れたことで、樋口の七海に対する好奇心は、もはや抑えきれないものとなっていた。鈴木優子との仮交際を休止し、婚活のペースを落とした今、樋口の意識は、七海という謎めいた存在へと急速に傾倒していく。


翌日、樋口は仕事中も七海のことが頭から離れなかった。彼女は一体何者なのか。なぜ、カレー屋とあのカフェ、二つの場所で働いているのか。そして、なぜあんなにも無愛想なのか。疑問が次々と湧き上がり、仕事に集中できないほどだった。


「樋口さん、顔色悪いですよ?もしかして、寝不足ですか?」


隣の席の同僚、田中が心配そうに声をかけてきた。


「あ、いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」


樋口は慌ててごまかしたが、田中の視線は疑わしげだった。


その日の仕事帰り、樋口は再び七海のカレー屋に立ち寄った。閉店間際だったが、七海はまだ店にいた。


「いらっしゃいませ」


七海は、いつものように無愛想な声で樋口を迎えた。しかし、その顔は、昨日よりもさらに疲れているように見えた。目元には、一層濃いクマができていた。


「あの、七海さん……」


樋口は、意を決して話しかけた。七海は、怪訝な表情で樋口を見た。


「何か?」


「あの、昨日、閉店作業中なのにカレー作ってくださって、ありがとうございました。すごく美味しかったです」


樋口がそう言うと、七海の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「……どういたしまして」


七海は、そう言って、再び厨房の奥へと消えていった。


樋口は、カウンター席に座り、チキンカレーを注文した。カレーが運ばれてくるのを待つ間、樋口は七海に話しかけるタイミングを伺っていた。


「七海さんって、いつもお忙しそうですね」


樋口がそう言うと、七海は無言で樋口を見た。


「……ええ、まあ」


七海は、そう言って、再び厨房の作業に戻ってしまった。やはり、彼女はあまり話したがらないようだ。


カレーを食べ終え、会計を済ませようとしたその時、七海が樋口に言った。


「お客様……もしかして、婚活、うまくいってないんですか?」


その言葉に、樋口は思わず息をのんだ。なぜ、彼女がそんなことを知っているのだろう。


「え、あ、いや、その……」


樋口は、しどろもどろになった。七海は、樋口の反応を見て、小さくため息をついた。


「顔に書いてありますよ。疲れてます」


七海の言葉に、樋口はぐうの音も出なかった。彼女は、樋口の心の状態を、全て見透かしているかのようだった。


「……実は、婚活、してるんです」


樋口は、観念してそう答えた。七海は、何も言わず、樋口の顔をじっと見つめている。


「それで、最近、ちょっと疲れてしまって……」


樋口は、自分の正直な気持ちを七海に打ち明けた。七海は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「……婚活、大変ですよね」


その言葉は、意外なほど優しかった。樋口は、思わず七海の顔を見た。彼女の表情は、いつもの無愛想なものとは違い、どこか共感しているような、優しいものに見えた。


「七海さんも、何かご経験が……?」


樋口がそう尋ねると、七海はすぐに表情を元に戻し、冷たい声で言った。


「お客様のプライベートなご相談は、お受けできません」


やはり、彼女は一筋縄ではいかない。樋口は、苦笑いした。


「そうですよね。すみません」


樋口は、会計を済ませて店を出た。七海との会話は、わずかなものだったが、樋口の心には、温かいものが残った。彼女は、やはり優しい人だ。そして、彼女もまた、何かを抱えているのかもしれない。


週末。樋口は、再びあのカフェを訪れた。七海が働いているかもしれない、という淡い期待を抱いて。

カフェに入ると、七海はやはりカウンターの奥で、忙しそうにコーヒーを淹れていた。樋口は、彼女に気づかれないように、窓際の席に座った。


七海は、テキパキと注文をこなし、客にコーヒーを渡している。その動きは、カレー屋でのそれと変わらず、無駄がない。

ふと、七海が、客から渡されたカップに、何かメッセージを書いているのが見えた。樋口は、思わず目を凝らした。

七海は、カップにメッセージを書き終えると、客に手渡した。客は、そのカップを見て、笑顔になった。

七海が、客に笑顔を見せた。それは、樋口が今まで見たことのない、優しい笑顔だった。その笑顔は、樋口の心を強く揺さぶった。

無愛想で、どこか近寄りがたい七海。しかし、彼女は、客に対して、こんなにも優しい笑顔を見せるのだ。

樋口は、七海の新たな一面を見たような気がした。そして、その笑顔の裏に、もっと深い彼女の感情が隠されているような気がして、樋口の好奇心はさらに掻き立てられた。


樋口は、自分のコーヒーを飲み干し、会計を済ませて店を出た。

七海という女性は、樋口の婚活の常識を、少しずつ揺さぶり始めていた。婚活の「形式」に縛られ、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた樋口。そんな彼の目の前に現れた七海は、まさに「婚活戦線、異常あり」を告げる存在だったのかもしれない。

樋口は、自分の「理想」の結婚相手とは、一体どんな人なのだろう。そして、自分は、本当に誰を求めているのだろう。その答えを見つけるために、樋口の婚活は、さらに複雑な展開を見せていくことになるだろう。


その日の夜、樋口は自宅で、七海が作ってくれたカレーを温めて食べた。一口食べると、じんわりと優しい味が口の中に広がり、疲れた体に染み渡る。

「美味しい……」

樋口は、心の中でそう呟いた。

七海が、閉店作業中に作ってくれたカレー。そのカレーは、樋口の心に、温かい光を灯してくれた。

彼女は、やはり無愛想だ。しかし、その無愛想な態度の裏に、優しさが隠されているような気がした。


カレーを食べ終え、空になった容器をじっと見つめた。

婚活の疲れ。自分の感情の迷子。そして、七海という女性の存在。

このカレーは、樋口にとって、単なる食事以上の意味を持っていた。それは、七海という予測不能な存在が、樋口の「形式的」な婚活に、新たな波紋を投げかけていることを示しているようだった。


樋口は、スマホを手に取り、再び七海のことを調べ始めた。カレー屋とカフェ。二つの場所で働く彼女の背景に、何か秘密があるのではないか。


ネットで検索を続けるうちに、あるブログ記事が目に留まった。それは、数年前に閉店した、とある小さなカフェの紹介記事だった。記事には、店主の温かい人柄と、手作りの焼き菓子が評判だったことが書かれている。そして、そこに添えられた写真に、樋口は目を奪われた。


写真に写っていたのは、若かりし頃の七海だった。


彼女は、記事の中で「七海」という名前で紹介されており、カフェのオーナーとして、満面の笑みを浮かべていた。今の無愛想な七海とは、まるで別人のように見えた。


「七海……カフェのオーナーだったのか……」


樋口は、驚きを隠せない。なぜ、彼女はカフェを閉め、カレー屋と今のカフェで働いているのだろう。そして、なぜ、あんなにも無愛想になってしまったのだろう。


ブログ記事を読み進めていくと、カフェが閉店した理由が書かれていた。それは、店主の病気だった。記事には、七海が病気を患い、カフェを続けることが困難になったと記されていた。


樋口の胸に、衝撃が走った。七海の無愛想な態度、そして疲れた顔。それらは、病気と関係があるのかもしれない。


樋口は、七海の抱える秘密の一端に触れたような気がした。彼女の無愛想な態度の裏には、深い悲しみや苦しみが隠されているのかもしれない。


樋口の婚活の軸は、完全に七海へと傾いていた。鈴木優子との安定した関係も、栗原沙耶の助言も、今の樋口の心には響かない。


樋口は、七海のことがもっと知りたい。彼女の抱える秘密を、解き明かしたい。そして、彼女の笑顔を、もう一度見たい。


樋口の婚活は、もはや「結婚相手を探す」という当初の目的から、大きく逸脱し始めていた。それは、七海という一人の女性の「謎」を追い求める、新たな冒険へと姿を変えつつあった。

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