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加速する好奇心と、婚活疲れの兆し

鈴木優子との仮交際を一時休止した樋口彰は、栗原沙耶の助言通り、自身の気持ちとじっくり向き合う時間を持ち始めていた。鈴木優子と過ごす時間は、確かに穏やかで心地よかった。彼女の優しさに触れるたびに、心が安らぐのを感じた。しかし、そこに「好き」という情熱的な感情が湧き上がらないという事実は、樋口の中で大きな障壁となっていた。婚活という「形式的」な枠組みの中で、自分の感情がどこに向かっているのか、見失いかけているような感覚だった。


樋口は、週末の午後、自宅のソファに深く沈み込み、ぼんやりと天井を見上げていた。手元には、結婚相談所から渡された「婚活成功者の声」という冊子がある。そこには、幸せそうな笑顔のカップルたちが、それぞれの成婚エピソードを語っていた。

「お相手の優しさに惹かれました」

「一緒にいて、自然体でいられることに気づきました」

「家族のような安心感がありました」

どのエピソードも、鈴木優子との関係に当てはまるような言葉ばかりだ。しかし、樋口の心は、なぜか満たされない。


「俺は、本当に何を求めているんだろう……」


安定?安心?それとも、もっと別の何か?

樋口の頭の中には、鈴木優子の優しい笑顔と、井上真奈美のはつらつとした笑顔が交互に浮かんだ。そして、その二人の間に、あの無愛想なカレー屋の店員、七海の姿が、まるで幻のように現れては消える。


七海。彼女は、樋口の婚活とは全く関係のない場所で出会った女性だ。しかし、彼女の無愛想な態度、そして時折見せる感情的な一面が、樋口の心を強く惹きつけていた。特に、先日カフェで彼女が真剣な表情でパソコンに向かっていた姿や、店員と会話していた様子は、樋口の好奇心を掻き立ててやまなかった。


「彼女は、一体何者なんだろう……」


樋口は、再びあのカフェに行ってみようと思い立った。七海に会いたいという気持ちと、彼女の謎を解き明かしたいという気持ちが、樋口を突き動かした。


翌日、樋口は、七海がアルバイトをしているカフェを訪れた。今度は、彼女に話しかけるのではなく、ただ彼女の様子を観察しようと思ったのだ。

カフェに入ると、七海はカウンターの奥で、忙しそうにコーヒーを淹れていた。樋口は、彼女に気づかれないように、窓際の席に座った。

七海は、テキパキと注文をこなし、客にコーヒーを渡している。その動きは、カレー屋でのそれと変わらず、無駄がない。

ふと、七海が、客から渡されたカップに、何かメッセージを書いているのが見えた。樋口は、思わず目を凝らした。

七海は、カップにメッセージを書き終えると、客に手渡した。客は、そのカップを見て、笑顔になった。

七海が、客に笑顔を見せた。それは、樋口が今まで見たことのない、優しい笑顔だった。その笑顔は、樋口の心を強く揺さぶった。

無愛想で、どこか近寄りがたい七海。しかし、彼女は、客に対して、こんなにも優しい笑顔を見せるのだ。

樋口は、七海の新たな一面を見たような気がした。そして、その笑顔の裏に、もっと深い彼女の感情が隠されているような気がして、樋口の好奇心はさらに掻き立てられた。


樋口は、自分のコーヒーを飲み干し、会計を済ませて店を出た。

七海という女性は、樋口の婚活の常識を、少しずつ揺さぶり始めていた。婚活の「形式」に縛られ、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた樋口。

樋口は、自分の「理想」の結婚相手とは、一体どんな人なのだろう。そして、自分は、本当に誰を求めているのだろう。その答えを見つけるために、樋口の婚活は、さらに複雑な展開を見せていくことになるだろう。


その日の夜、樋口は鈴木優子と電話で話していた。

「樋口さん、今度のお休み、もしよかったら、一緒に映画を見に行きませんか?」

鈴木優子の優しい声が、電話越しに聞こえてくる。樋口は、少しだけ迷った。最近、真奈美と映画に行ったばかりだ。しかし、鈴木優子との映画も、きっと楽しいだろう。

「いいですね!ぜひ!」

樋口は、明るい声でそう答えた。鈴木優子は、嬉しそうに笑った。


電話を終えた後、樋口はソファに深く沈み込んだ。鈴木優子との関係は、順調に進んでいる。彼女は、樋口の理想の結婚相手として、何の不満もない。しかし、心のどこかでは、七海のことが引っかかっていた。

あのカフェでの七海の姿。真剣な表情でパソコンに向かう横顔。そして、レジの店員との会話。彼女は、一体何者なのだろう。

樋口は、スマホを手に取り、カレー屋の店名を検索した。そして、その店名に関連する情報がないか、ネットで調べてみた。しかし、特に変わった情報は出てこない。

次に、今日行ったカフェの店名を検索してみた。すると、そのカフェの求人情報が目に留まった。そこには、「ホールスタッフ募集」と書かれている。

七海は、本当にこのカフェで働いているのだろうか。それとも、単なる客として来ていたのだろうか。しかし、店員との会話の様子は、どう見ても客と店員の関係には見えなかった。

樋口は、頭の中で、七海の言葉を反芻した。

「お客様、当店は、お客様のプライベートなご相談を受ける場所ではございません。もし、何かお悩みがあるのであれば、専門の機関にご相談ください」

あの言葉は、樋口の婚活そのものを否定しているようだった。しかし、七海自身も、何かを抱えているように見えた。

樋口は、自分の婚活が、まるで迷宮入りしたかのように感じ始めていた。鈴木優子との安定した関係。しかし、心の奥底では、情熱的な「好き」という感情が湧き上がらない。そして、七海という、謎めいた女性の存在が、樋口の心をざわつかせる。

婚活の「形式」に縛られ、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた樋口。そんな彼の前に現れた七海は、まさに「婚活戦線、異常あり」を告げる存在だったのかもしれない。

樋口は、自分の「理想」の結婚相手とは、一体どんな人なのだろう。そして、自分は、本当に誰を求めているのだろう。その答えを見つけるために、樋口の婚活は、さらに複雑な展開を見せていくことになるだろう。


翌週。樋口は、栗原沙耶との定例面談に臨んだ。鈴木優子との仮交際を休止したことを報告するためだ。

「樋口様、鈴木様との仮交際休止の件、承知いたしました。ご自身の気持ちと向き合うために、良い選択だったと存じます」

栗原は、冷静な口調で樋口の決断を受け入れた。その言葉に、樋口は少しだけ安堵した。

「それで、樋口様、活動を休止されますか?それとも、新たな出会いを求めて、活動を継続されますか?」

栗原の問いかけに、樋口は一瞬迷った。正直なところ、今は誰とも会う気分ではない。しかし、婚活を完全に止めてしまえば、また元の孤独な生活に戻ってしまうのではないかという不安もあった。

「あの……活動は、継続でお願いします。ただ、今は、少しペースを落としたい、というか……」

樋口は、正直な気持ちを伝えた。栗原は、樋口の言葉に静かに頷いた。

「承知いたしました。ご自身のペースで進めていただいて構いません。ただし、一つだけお伝えしておきたいことがございます」

栗原は、少しだけ真剣な眼差しで樋口を見た。

「婚活は、お相手を探す活動であると同時に、ご自身を見つめ直す機会でもあります。樋口様が今、ご自身の気持ちに迷っていらっしゃるのは、まさにその時期に来ているということでしょう。しかし、その迷いを放置したまま活動を続けても、なかなか結果には繋がりません」

栗原の言葉は、樋口の心の奥底に響いた。まさに、その通りだ。

「ご自身が本当に何を求めているのか、結婚してどうなりたいのか。もう一度、ご自身の『理想』と向き合ってみてください。そして、その『理想』が明確になった時、きっと樋口様にとって本当に相応しい方が現れるはずです」

栗原の言葉は、まるで樋口の心を見透かしているかのようだった。樋口は、頭では分かっているのに、心が追いつかない自分に苛立ちを感じていた。

「はい……」

樋口は、力なくそう答えた。栗原は、それ以上は何も言わず、面談を終えた。


結婚相談所を出て、樋口は夜道を歩いた。栗原の言葉が、頭の中で何度も反芻される。

「ご自身が本当に何を求めているのか、結婚してどうなりたいのか」

その問いに、樋口は明確な答えを見つけられずにいた。安定した生活。温かい家庭。子供。それらは、確かに樋口が望むものだ。しかし、そこに、かつて感じたような胸のときめきや、情熱的な感情はどこにあるのだろう。

樋口は、自分の感情が枯れてしまったのではないか、という不安すら感じ始めていた。


足は、無意識のうちに、あのカレー屋へと向かっていた。もう遅い時間だから、七海はいないだろう。それでも、樋口はあの店に行きたかった。あの場所だけが、樋口にとって、婚活というプレッシャーから解放される、唯一の場所のように感じられたからだ。


店のドアを開けると、店内は薄暗く、客は誰もいなかった。七海の姿も、やはり見当たらない。しかし、厨房の奥から、微かに物音が聞こえる。

「すみません……」

樋口が声をかけると、厨房の奥から七海が顔を出した。エプロン姿のままで、どうやら閉店作業をしていたようだ。

「お客様……もう閉店ですが」

七海の声は、いつも通りの無愛想なものだった。しかし、その顔は、以前にも増して疲れているように見えた。目元には、濃いクマができていた。

「あ、すみません。もう閉店でしたか……」

樋口は、慌てて謝罪した。

「……何か、お探しですか?」

七海が、少しだけ訝しげな表情で樋口を見た。その視線に、樋口はたじろいだ。

「いえ、その……ただ、このカレーが食べたくて……」

樋口は、しどろもどろにそう答えた。七海は、何も言わず、じっと樋口を見つめている。その視線に耐えきれず、樋口は目をそらした。

「……そんなに食べたいなら、少しだけなら」

七海の声が、聞こえた。樋口は、思わず顔を上げた。

「え?」

「持ち帰りなら、少しだけ作って差し上げます。閉店作業中なので、店内では食べられませんけど」

七海の言葉に、樋口は目を丸くした。あの無愛想な七海が、自分に、カレーを作ってくれるというのか。しかも、閉店作業中に。

「い、いいんですか!?ありがとうございます!」

樋口は、喜びを抑えきれずにそう言った。七海は、何も言わず、厨房の奥へと消えていった。


待つこと数分。七海は、温かいカレーの入った容器と、小さな紙袋を手に戻ってきた。

「お待たせしました。温かいうちに召し上がってください」

七海は、無言でカレーを樋口に手渡した。その手は、少しだけ震えているように見えた。

「ありがとうございます!本当に助かります」

樋口は、感謝の言葉を述べた。七海は、小さく頷くと、すぐにまた厨房の奥へと戻ってしまった。


樋口は、カレーの入った袋を手に、店を出た。夜風がひんやりと肌に触れる。

温かいカレーの匂いが、袋から漂ってくる。樋口は、その匂いを嗅いだだけで、心が温かくなるのを感じた。

公園のベンチに座り、カレーの容器を開ける。湯気とともに立ち上るスパイスの香りが、樋口の食欲をそそる。一口食べると、じんわりと優しい味が口の中に広がり、疲れた体に染み渡る。

「美味しい……」

樋口は、心の中でそう呟いた。

七海が、閉店作業中に作ってくれたカレー。そのカレーは、樋口の心に、温かい光を灯してくれた。

彼女は、やはり無愛想だ。しかし、その無愛想な態度の裏に、優しさが隠されているような気がした。


樋口は、カレーを食べ終え、空になった容器をじっと見つめた。

婚活の疲れ。自分の感情の迷子。そして、七海という女性の存在。

このカレーは、樋口にとって、単なる食事以上の意味を持っていた。それは、七海という予測不能な存在が、樋口の「形式的」な婚活に、新たな波紋を投げかけていることを示しているようだった。


樋口の婚活は、鈴木優子との一時休止という転換期を迎え、七海への好奇心と、自分の感情への戸惑いが加速していた。婚活疲れの兆しが見え始めた樋口。しかし、七海という謎めいた女性の存在が、彼の心を離さない。


七海という女性の真の姿とは、一体何なのだろうか。

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