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婚活の型と、カフェでの衝突

井上真奈美との仮交際が唐突に終わりを告げたことで、樋口彰の婚活は、鈴木優子との関係へと一本化された。栗原沙耶からの「ご自身の心に正直になること」という言葉を胸に、樋口は鈴木優子との真剣交際を意識し始めていた。彼女との時間は穏やかで、安心感に満ちている。結婚生活を具体的にイメージできる相手。それが鈴木優子だった。


しかし、樋口の心は、決して晴れやかなわけではなかった。真奈美との関係が終わったことへの、喪失感のようなものが胸に広がる。そして、何よりも、鈴木優子に対して「好き」という情熱的な感情が湧き上がらないことに、漠然とした不安を抱えていた。婚活という「形式的」な枠組みの中で、自分の感情がどこに向かっているのか、見失いかけているような感覚だった。


そんな複雑な感情を抱えながらも、樋口は鈴木優子とのデートを重ねていた。五度目のデートは、少し趣向を変え、二人で陶芸体験をすることになった。


「わぁ、樋口さん、これ、難しそうですね!」


鈴木優子は、粘土を前に目を輝かせた。ろくろが回り始めると、粘土がみるみる形を変えていく。樋口は、インストラクターの指示通りに手を動かすが、なかなか思うような形にならない。


「鈴木さん、お上手ですね!僕、全然ダメだ……」


樋口が苦笑いすると、鈴木優子は優しく微笑んだ。


「大丈夫ですよ!私も最初は全然でしたから。ほら、こうやって、ゆっくりと……」


鈴木優子は、樋口の隣で、自分の作品を作りながら、樋口の粘土にもそっと手を添えてくれた。その温かい指先に、樋口は少しだけドキリとした。彼女の助けもあって、樋口の作品も、なんとか形になった。


「樋口さんの作品、味があって素敵ですよ!」


鈴木優子がそう言ってくれると、樋口は嬉しくなった。二人で作り上げた作品は、焼き上がって届くのが楽しみだ。


陶芸体験の後、二人は近くのカフェでお茶をした。温かいコーヒーを飲みながら、今日の出来事を振り返る。


「樋口さんって、本当に優しい方ですね。いつも私のことを気遣ってくださって、ありがとうございます」


鈴木優子が、真剣な眼差しで樋口を見た。その言葉に、樋口の胸は温かくなる。彼女は、樋口の長所を素直に認めてくれる。


「ありがとうございます。鈴木さんも、いつも笑顔で、僕もとても癒されています」


樋口も、心からの言葉でそう返した。


「樋口さんと結婚したら、きっと穏やかで、楽しい家庭が築けるだろうなって思います」


鈴木優子が、少しだけはにかんだようにそう言った。その言葉は、樋口の心を大きく揺さぶった。彼女は、真剣に樋口との結婚を考えてくれている。樋口も、頭では彼女との結婚生活が具体的にイメージできる。それは、安定した、穏やかな未来だ。


「僕も、鈴木さんと結婚できたら、きっと幸せになれると思います」


樋口は、精一杯の言葉でそう返した。その言葉に嘘はなかった。鈴木優子といると、心が安らぐ。これこそが、自分が求めていた「安定」なのではないか。


しかし、その幸福感の裏で、樋口の心には、わずかながらも疑問符が残っていた。それは、「恋愛」という感情の定義だ。鈴木優子とは、確かに居心地が良い。安らげる。だが、それは「好き」という、情熱的な感情なのだろうか。


樋口は、恋愛経験が少ない。だからこそ、自分の感情が何なのか、分からなくなるのだ。


陶芸デートから数日後。樋口は、仕事帰りに、ふとあのカレー屋に立ち寄った。鈴木優子との関係は順調に進んでいる。しかし、心のどこかで、あの無愛想な店員、七海のことが気になっていた。先日、店で彼女に言われた「専門の機関に相談しろ」という言葉が、まるで呪いのように樋口の心にまとわりついていたのだ。


店に入ると、七海はいつものようにカウンターの向こうで忙しそうに動いていた。樋口がカウンター席に座ると、彼女は無言で水を出してくれた。


「チキンカレーに、チーズトッピングでお願いします」


樋口が注文すると、七海は無言で注文を厨房に通した。その様子は、いつもの無愛想な彼女と何ら変わりない。


カレーが運ばれてくるのを待つ間、樋口は七海を観察した。彼女は、他の客に対しても、一貫して無愛想だ。それでも、手際が良く、客の注文を間違えることもない。


ふと、七海がカウンターの奥で、スマホを手にしているのが見えた。誰かとメッセージのやり取りをしているのだろうか。その表情は、普段の無愛想な顔とは少し違い、どこか真剣な、それでいて憂いを帯びたものに見えた。


樋口は、思わず彼女のスマホの画面に目を凝らした。しかし、すぐに視線をそらした。人のプライベートを覗き見るのは、マナー違反だ。


カレーが運ばれてきた。樋口は、いつものようにカレーを食べ始めた。美味しい。疲れた体に、スパイスの効いたカレーが染み渡る。


カレーを食べ終え、会計を済ませて店を出ようとすると、七海がレジの奥から出てきた。


「あの……」


樋口は、再び声をかけようとした。しかし、七海は樋口の言葉を遮るように、冷たい声で言った。


「お客様、当店は、お客様のプライベートなご相談を受ける場所ではございません。もし、何かお悩みがあるのであれば、専門の機関にご相談ください」


その言葉は、まるで樋口の婚活の状況を全て見透かしているかのような響きだった。樋口は、思わず顔が熱くなった。彼女は、樋口が結婚相談所で婚活をしていることを知っているのだろうか。


「……すみません」


樋口は、それ以上何も言えず、頭を下げて店を出た。


店の外に出ると、夜風がひどく冷たく感じられた。樋口は、自分の迂闊な行動を後悔した。七海は、やはり一筋縄ではいかない女性だ。そして、彼女の言葉は、樋口の心に深く突き刺さった。


「専門の機関に相談しろ、か……」


まるで、自分の婚活そのものを否定されたような気がした。婚活の「形式的」なやりとりに困惑し、自分の本音が見えなくなっていた樋口にとって、その言葉は、まるで図星を指されたようだった。


樋口は、重い足取りで家路についた。婚活の疲れと、七海との軽い口論。そして、自分の心の混乱。すべてが樋口の肩にのしかかっていた。


翌日、樋口は休日だった。前日の七海とのやり取りが、樋口の心を重くしていた。鈴木優子との関係は順調だが、心のどこかでは、七海の言葉が引っかかっていた。


「専門の機関に相談しろ」


その言葉が、樋口の頭の中で何度も反芻される。自分は、本当に誰かに頼るしかないのだろうか。自分の力では、結婚相手を見つけることができないのだろうか。


樋口は、気分転換に、普段行かないようなカフェに行ってみようと思い立った。最近オープンしたばかりの、少しおしゃれなカフェだ。


カフェのドアを開けると、店内は明るく、開放的な空間が広がっていた。窓からは柔らかな日差しが差し込み、心地よいジャズが流れている。カウンター席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。


コーヒーを待っている間、樋口はぼんやりと店内を見回した。すると、奥の方のテーブル席で、見慣れた顔を見つけた。


七海だ。


彼女は、私服姿で、ノートパソコンを開き、何やら真剣な表情で作業をしている。普段のカレー屋での無愛想な店員とは全く違う雰囲気で、どこか知的な印象を受ける。


なぜ、こんなところで彼女が。樋口は、思わず身を隠すように顔を伏せた。昨日、あんな口論をしたばかりだ。もし彼女に気づかれたら、また何を言われるか分からない。


しかし、樋口の視線は、どうしても七海から離れなかった。彼女は、時折、眉間にしわを寄せたり、小さくため息をついたりしながら、パソコンの画面をじっと見つめている。その真剣な横顔は、普段の無愛想な態度からは想像もつかないほど、真剣で、そして少しだけ弱々しく見えた。


樋口は、コーヒーを飲みながら、七海の様子を伺っていた。彼女は、しばらく作業を続けた後、パソコンを閉じ、大きく伸びをした。そして、席を立つと、レジの方へと歩いていった。


「あ、会計かな……」


樋口は、彼女が店を出ていくのを待ってから、自分も店を出ようと思った。しかし、七海はレジの店員と何やら話し込んでいる。その様子は、まるで店員同士の会話のようにも見えた。


「七海さん、今日はありがとうございました!助かりました!」


レジの店員が、七海にそう言った。七海は、小さく頷き、店員に何かを渡している。


「え……?」


樋口は、思わず目を丸くした。七海は、このカフェの店員なのだろうか。それとも、何か別の関係があるのだろうか。


七海は、店員と別れると、樋口の座っているカウンター席のすぐ横を通り過ぎ、店の奥へと消えていった。


樋口は、呆然と七海の姿を見送った。彼女は、カレー屋の店員であると同時に、このカフェの店員でもあるのだろうか。それとも、何か別の目的でこのカフェに来ていたのだろうか。


謎は深まるばかりだった。


樋口は、会計を済ませてカフェを出た。休日の昼下がり。街は賑わっているが、樋口の心は、七海という女性の存在でいっぱいだった。


なぜ、彼女はあんなにも無愛想なのだろう。なぜ、あんなにも感情を露わにすることがあるのだろう。そして、なぜ、彼女は複数の場所で働いているのだろう。


樋口の婚活は、鈴木優子との順調な交際へと一本化されたはずだった。しかし、七海という女性の存在が、樋口の心の奥底に、新たな波紋を投げかけていた。


婚活の「形式的」なやりとりに困惑する樋口。そんな彼の目の前に、まるで対照的な存在として現れた七海。彼女は、樋口の婚活の常識を、少しずつ揺さぶり始めていた。


その日の夜、樋口は鈴木優子と電話で話していた。


「樋口さん、今度のお休み、もしよかったら、一緒に映画を見に行きませんか?」


鈴木優子の優しい声が、電話越しに聞こえてくる。樋口は、少しだけ迷った。最近、真奈美と映画に行ったばかりだ。しかし、鈴木優子との映画も、きっと楽しいだろう。


「いいですね!ぜひ!」


樋口は、明るい声でそう答えた。鈴木優子は、嬉しそうに笑った。


電話を終えた後、樋口はソファに深く沈み込んだ。鈴木優子との関係は、順調に進んでいる。彼女は、樋口の理想の結婚相手として、何の不満もない。しかし、心のどこかでは、七海のことが引っかかっていた。


あのカフェでの七海の姿。真剣な表情でパソコンに向かう横顔。そして、レジの店員との会話。彼女は、一体何者なのだろう。


樋口は、スマホを手に取り、カレー屋の店名を検索した。そして、その店名に関連する情報がないか、ネットで調べてみた。しかし、特に変わった情報は出てこない。


次に、今日行ったカフェの店名を検索してみた。すると、そのカフェの求人情報が目に留まった。そこには、「ホールスタッフ募集」と書かれている。


七海は、本当にこのカフェで働いているのだろうか。それとも、単なる客として来ていたのだろうか。しかし、店員との会話の様子は、どう見ても客と店員の関係には見えなかった。


樋口は、頭の中で、七海の言葉を反芻した。


「お客様、当店は、お客様のプライベートなご相談を受ける場所ではございません。もし、何かお悩みがあるのであれば、専門の機関にご相談ください」


あの言葉は、樋口の婚活そのものを否定しているようだった。しかし、七海自身も、何かを抱えているように見えた。


樋口は、自分の婚活が、まるで迷宮入りしたかのように感じ始めていた。鈴木優子との安定した関係。しかし、心の奥底では、情熱的な「好き」という感情が湧き上がらない。そして、七海という、謎めいた女性の存在が、樋口の心をざわつかせる。


婚活の「形式」に縛られ、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた樋口。そんな彼の前に現れた七海は、まさに「婚活戦線、異常あり」を告げる存在だったのかもしれない。

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