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揺れる心と、アドバイザーの視線

井上真奈美からのお見合い申し込みは、樋口彰の心を激しく揺さぶった。職場の後輩であり、つい最近、社内結婚したばかりだと思っていた彼女が、なぜ結婚相談所に登録しているのか。そして、なぜ自分にお見合いを申し込んできたのか。謎は深まるばかりだった。


樋口は、その日の夜、真奈美のSNSをもう一度確認した。以前見た時には、幸せそうな結婚式の写真が投稿されていたはずだ。しかし、いくら遡っても、そういった写真は見当たらない。自分の記憶違いだろうか。それとも、削除されたのだろうか。混乱した頭で、樋口は「仮交際希望」の返信をするのをためらった。


翌日、出社した樋口は、真奈美の様子をそれとなく伺った。彼女はいつも通り、明るく元気に営業部で電話応対をしている。特に変わった様子はない。樋口は、彼女に直接「結婚したって聞いたけど?」と尋ねるわけにもいかず、内心で悶々としていた。


昼休み、樋口は栗原沙耶に電話を入れた。


「栗原さん、お見合いの件でご相談があるのですが……」


「樋口様、どうされましたか?」


栗原の声は、いつもと変わらず冷静だった。


「先日お申し込みがあった井上さんなのですが……実は私の職場の後輩でして。つい最近、結婚したと聞いていたのですが、結婚相談所に登録されているということは……?」


樋口は、意を決して尋ねた。栗原は、樋口の言葉を遮ることなく、静かに聞いていた。


「なるほど。ご心配なお気持ち、お察しいたします。ですが、ご安心ください。当相談所にご登録いただく際には、独身証明書など、厳正な審査を行っております。井上様も、法的に独身であることが確認されておりますので、ご安心ください」


栗原の言葉に、樋口は驚きを隠せなかった。法的に独身。つまり、真奈美は結婚していない、あるいは離婚しているということだ。どちらにしても、樋口の知っていた事実とは異なる。


「そう、ですか……」


樋口は、言葉を失った。あの屈託のない笑顔の裏に、一体何があったのだろう。短い間に、何が起こったのだろう。


「お見合いを受けるか否かは、樋口様のご判断にお任せいたします。しかし、もし少しでもご興味があるのであれば、一度お会いになってみるのも良いかと存じます。お互いの素性を知っている間柄だからこそ、話が進みやすいというケースもございます」


栗原は、あくまで冷静に、しかし的確なアドバイスをくれた。樋口は、栗原の言葉に背中を押されるような気がした。


「分かりました。お見合い、受けてみます」


樋口は、そう決断した。職場の後輩とのお見合い。前代未聞の事態だが、これまでの経験からして、避けて通るべきではないと感じた。


数日後、井上真奈美とのお見合いの日を迎えた。待ち合わせ場所は、会社の近くのカフェ。休日にもかかわらず、平日の出勤時と同じような格好で待ち合わせ場所に現れた真奈美に、樋口は少しだけ違和感を覚えた。


「樋口さん!本日はありがとうございます!」


真奈美は、いつもの明るい笑顔で樋口に挨拶した。その笑顔は、会社の同僚に対するそれと何ら変わりないように見える。


「いえ、こちらこそ。まさか、井上さんとこんな形でお会いするとは思いませんでした」


樋口は、正直な気持ちを伝えた。真奈美は、少しだけ照れたように笑った。


「そうですよね。私も、樋口さんのプロフィールを見た時は、すごくびっくりしました。でも、これはご縁だと思って、お申し込みさせていただきました」


席に着き、コーヒーを注文する。樋口は、どうしても気になっていたことを尋ねた。


「井上さん、お聞きしても良いでしょうか。以前、結婚されたと伺ったのですが……」


樋口の言葉に、真奈美の笑顔が少しだけ曇った。そして、小さく息を吐いた。


「はい……。実は、一度結婚したんです。でも、すぐに離婚してしまって……」


真奈美は、俯きながらそう言った。その声は、いつもよりずっと小さく、弱々しかった。


「そう、だったんですね……」


樋口は、言葉に詰まった。彼女の事情に、これ以上深く踏み込むことはできない。しかし、彼女の口から語られる「離婚」の二文字は、樋口の心に重く響いた。


「すみません。こんな話を最初からしてしまって」


真奈美は、顔を上げ、無理に笑顔を作った。


「いえ、とんでもない。お辛い経験でしたね」


樋口がそう言うと、真奈美は少しだけ目に涙を浮かべた。


「ありがとうございます。樋口さんの優しさ、いつも会社の皆さんから聞いてましたけど、本当にそうですね」


真奈美の言葉に、樋口は少しだけ気恥ずかしくなった。


そこから、二人の会話は、婚活というよりも、会社の先輩と後輩の雑談のような雰囲気で進んでいった。仕事の話、最近の部署の動向、共通の同僚の話。真奈美は、普段会社ではあまり話さないような、プライベートな悩みも少しだけ打ち明けてくれた。


「私、結婚って、もっとキラキラしたものだと思ってたんです。でも、いざ結婚してみたら、理想と現実のギャップに戸惑うことばかりで……」


彼女は、遠い目をしながらそう言った。その言葉の節々から、彼女が経験した結婚生活が、決して順風満帆ではなかったことが伝わってきた。


「そう、でしたか……。僕も、結婚って何だろう、って最近よく考えていて。だから、こうして婚活を始めたんですけど」


樋口も、自分の今の状況を正直に話した。すると、真奈美は、意外な言葉を発した。


「樋口さんが婚活されてるって聞いて、すごく驚いたんです。樋口さんって、優しいし、真面目だし、絶対モテるだろうなって思ってたので」


真奈美の言葉に、樋口は思わず赤面した。モテる。そんな言葉とは縁遠い人生を送ってきただけに、彼女の言葉は新鮮だった。


「いやいや、そんなことはないですよ。むしろ、これまでほとんど縁がなくて……」


樋口が謙遜すると、真奈美は少しだけ真剣な眼差しで樋口を見た。


「そんなことないです!私、樋口さんみたいな人、すごく素敵だと思います。落ち着いてて、包容力があって。安心して一緒にいられそうですよね」


真奈美の言葉は、樋口の心をじんわりと温かくした。誰かに、ここまで真っすぐに褒められたのは、いつ以来だろう。


「井上さんは、これからどんな結婚生活を送りたいですか?」


樋口は、尋ねた。真奈美は、少しだけ考えてから、答えた。


「そうですね……。今度は、もっと地に足のついた、穏やかな結婚生活がしたいです。派手じゃなくていいから、お互いに支え合って、毎日笑い合えるような家庭が理想です」


彼女の言葉は、樋口の結婚観ととてもよく似ていた。そして、その言葉の裏には、過去の苦い経験が透けて見えた。


お見合いの時間が終わり、カフェを出た。別れ際、真奈美は樋口の目を見て言った。


「樋口さん、今日は本当にありがとうございました。お話しできて、すごく嬉しかったです。もしよかったら、またお食事でもご一緒させていただけませんか?」


真奈美の瞳は、どこか切実な光を宿しているように見えた。樋口は、彼女の言葉に迷わず頷いた。


「はい、ぜひ。僕も、井上さんとお話しできて楽しかったです」


真奈美と別れた後、樋口は複雑な感情を抱えていた。彼女が離婚していたことへの驚き。そして、彼女が自分に抱いている好意。


職場の後輩という、これまで全く意識していなかった相手との出会い。これもまた、婚活がもたらした新たな展開だった。


井上真奈美との再会。そして、彼女からの告白ともとれるような言葉は、樋口の心に新たな波紋を投げかけた。鈴木優子との仮交際が順調に進んでいる今、真奈美とどう向き合うべきか。樋口は悩んだ。


そんな樋口の元に、再び栗原からメッセージが届いた。


「樋口様、お見合いのお相手、井上様から**『仮交際希望』**のご連絡がありました。樋口様のご意向をお聞かせください」


樋口は、スマホの画面をじっと見つめた。鈴木優子との仮交際も順調だ。今、真奈美とも仮交際を始めるべきなのか。


婚活中は、複数人と仮交際をしても良い、と栗原は言っていた。しかし、樋口はそういった器用なことができるタイプではない。誰か一人に集中して、関係を深めていきたい。それが樋口の本音だった。


しかし、真奈美の瞳の奥に見た、あの切実な光が忘れられない。彼女もまた、結婚に真剣に向き合っているのだ。そして、自分を求めてくれている。


樋口は、悩んだ末、栗原に「仮交際希望」の返信をした。


数日後、真奈美との仮交際が成立した。樋口は、早速真奈美にメッセージを送った。


「井上さん、この度は仮交際のお申込みありがとうございます。もしよろしければ、今度お食事でもご一緒させていただけませんか?」


真奈美からは、すぐに返信が来た。


「樋口さん、ありがとうございます!ぜひぜひ!来週の週末、ご都合いかがですか?」


真奈美との二度目のデートは、彼女の希望で映画に行くことになった。映画館で待ち合わせ、上映時間まで少し時間があったので、近くのカフェでお茶をすることにした。


「樋口さん、最近何か面白い映画見ましたか?」


真奈美は、にこやかに尋ねた。樋口は、最近見て面白かったSF映画について語った。真奈美は、興味津々で耳を傾けてくれた。


映画館に入り、席に着く。二人が選んだのは、人気のアクション映画だった。映画が始まると、真奈美は、時折樋口の腕に触れるような仕草を見せた。それは、わざとではない、無意識の行動のように見えたが、樋口は少しだけドキリとした。


映画が終わり、外に出ると、真奈美が言った。


「面白かったですね!樋口さんと映画見れて、すごく楽しかったです!」


彼女の言葉に、樋口は素直に嬉しくなった。


その夜、真奈美からのLINEが届いた。


「樋口さん、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです!樋口さんといると、いつも会社の堅苦しい雰囲気から解放されるような気がします。なんか、私、樋口さんのこと、もっと知りたいなって思いました」


真奈美のメッセージは、率直で、少しだけ感情的だった。樋口は、そのメッセージを何度も読み返した。真奈美の気持ちが、ストレートに伝わってくる。


鈴木優子との交際は、穏やかで安心感がある。しかし、真奈美との交際は、どこか刺激的で、予測不能な面白さがあった。樋口の心は、二人の間で揺れ動いた。


結婚相談所での婚活は、こんなにもドラマチックな展開を見せるものなのだろうか。樋口は、婚活という枠組みの中で、自分の感情が混乱していくのを感じていた。


鈴木優子、そして井上真奈美。二人の女性との仮交際が同時進行しているという状況は、樋口に大きなストレスを与え始めていた。誰に対しても誠実でありたいと思うがゆえに、どちらの女性にも気を遣い、自分の本音が見えにくくなっていたのだ。


そんなある日、樋口は会社帰りに、ふとあのカレー屋に立ち寄った。先日のクーポン券を使ってみようか、という軽い気持ちだった。


店に入ると、いつものようにあの女性店員がカウンターの向こうで忙しそうに動いていた。樋口がカウンター席に座ると、彼女は無言で水を出してくれた。


「あの、これ、使えますか?」


樋口は、持っていたクーポン券を彼女に見せた。彼女は、クーポン券を一瞥すると、小さく頷いた。


「はい」


短く、しかしはっきりとそう答えた。


「じゃあ、チキンカレーに、卵トッピングでお願いします」


樋口が注文すると、彼女は無言で厨房へと注文を通した。


カレーが運ばれてくるのを待つ間、樋口は彼女の様子を観察した。彼女は、他の客に対しても、一貫して無愛想だ。それでも、手際が良く、客の注文を間違えることもない。


「あの……」


樋口は、思い切って声をかけてみた。彼女は、こちらを向いたが、表情は変わらない。


「先日は、駅前で、すみませんでした。変な時に声をかけてしまって」


樋口は、先日駅前で彼女が感情的になっていたところに遭遇したことについて、謝罪した。彼女は、一瞬だけ目を見開いたように見えたが、すぐに元の無表情に戻った。


「……別に」


彼女は、そう呟くと、すぐに目をそらした。やはり、他人に干渉されるのが嫌なのだろうか。


「あの、もしよかったら、名前を教えてもらえませんか?僕、樋口彰と言います」


樋口は、自己紹介を兼ねて、彼女の名前を尋ねた。彼女は、少しだけ迷ったような顔をした後、小さな声で答えた。


「……七海。七海です」


ななみ。可愛らしい名前だ。しかし、彼女の雰囲気とは、どこかギャップがあるような気がした。


「七海さん、ですか。素敵な名前ですね。僕は、いつもこのカレー屋さんのカレーを食べると、元気になるんですよ」


樋口は、少しでも彼女との距離を縮めようと、笑顔でそう伝えた。七海は、ピクリとも動かない。その無愛想な態度は、まるで鉄壁のようだ。


「……ありがとうございます」


彼女は、小さくそう呟くと、すぐに別の客の注文を取りに行った。


会話はそれ以上続かなかった。樋口は、運ばれてきたカレーを食べ始めた。いつものように美味しいカレーだ。しかし、隣で働く七海の存在が、樋口の意識の大半を占めていた。


カレーを食べ終え、会計を済ませて店を出る。七海は、何も言わずに樋口を見送った。


店を出て、樋口は空を見上げた。夜空には、満月が輝いていた。


鈴木優子との穏やかな関係。

井上真奈美との、会社では見せない一面を知った関係。

そして、カレー屋の無愛想な店員、七海。


三人の女性が、樋口の周りで存在感を増している。それぞれの関係が、樋口の心を複雑に絡ませていく。


「結婚、って何だっけ……」


樋口は、再び最初の問いに立ち返っていた。安定した生活を求め、結婚を意識し始めたはずなのに、なぜこんなにも心が揺れ動いているのだろう。


恋愛感情とは何か。結婚とは何か。樋口は、その答えを求めて、この先の婚活を進んでいくことになるのだろう。


翌週、樋口は栗原との定例面談に臨んだ。栗原は、樋口の表情から何かを察したのか、いつもより少しだけ真剣な眼差しを向けていた。


「樋口様、鈴木様と井上様、お二人との仮交際、お疲れ様です。何か、ご相談したいことでもございますか?」


栗原は、樋口の心を見透かすかのようにそう尋ねた。樋口は、正直に自分の悩みを打ち明けることにした。


「はい、実は……。鈴木さんとは、とても居心地が良くて、結婚へのイメージも具体的に湧いてきます。でも、井上さんと会うと、また違う感情が湧いてきて。なんだか、自分の気持ちが分からなくなってしまったんです」


樋口は、正直な気持ちを全て吐き出した。栗原は、樋口の言葉を遮ることなく、じっと聞いていた。


「なるほど。それは、婚活においてよくあるお悩みです。複数の方と交際を進める中で、ご自身の本当の気持ちが分からなくなる、ということは決して珍しいことではありません」


栗原の言葉に、樋口は少しだけ安心した。自分だけが特別なのではない。


「では、どうすれば良いのでしょうか……」


樋口は、藁にもすがる思いで尋ねた。


栗原は、樋口の目を見て、静かに話し始めた。その声は、普段の事務的な口調とは少し違い、どこか優しさを帯びているように聞こえた。


「樋口様。婚活のゴールは『結婚』ですが、結婚はあくまでスタートラインです。大切なのは、その結婚生活を、誰と、どのように送りたいか、ということではないでしょうか」


「誰と、どのように……」


「はい。頭で考える理想の相手と、心が求める相手は、必ずしも一致しないことがあります。居心地の良さはとても大切です。しかし、そこに『ときめき』や『この人と人生を共にしたい』という強い気持ちがなければ、長い結婚生活を続けていくのは難しいかもしれません」


栗原の言葉は、樋口の心の奥底に響いた。ときめき。樋口は、鈴木優子といて安心感は感じるが、ときめきを感じているだろうか。そして、真奈美には、確かにときめきを感じる瞬間がある。しかし、それは恋愛感情なのだろうか。


「樋口様は、ご自身の本音がどこにあるのか、もう一度じっくりとご自身と向き合ってみる必要があるかと思います。そして、どちらかお一人に絞り込み、真剣交際へと進む覚悟を決める時期に来ているのではないでしょうか」


栗原の言葉は、樋口にとって重かった。それは、答えを先延ばしにしていた樋口への、厳しい現実の提示だった。


「ご自身の心に正直になること。それが、この婚活で最も大切なことです。もし、どうしても迷いが拭えないのであれば、一度、仮交際を休止することも可能です。焦る必要はありません」


栗原は、樋口の目を見て、そう言った。その視線は、厳しさの中に、深い洞察と、そして樋口を案じるような優しさが含まれているように見えた。


樋口は、栗原の言葉を胸に、結婚相談所を後にした。


夕暮れの街を歩きながら、樋口は頭の中を整理しようとした。鈴木優子との未来。真奈美との可能性。そして、あの無愛想なカレー屋の店員、七海。


「俺は、結婚、って何がしたいんだ……」


再び最初の問いが頭に浮かんだ。ただ孤独から解放されたいだけなのか。それとも、本当に誰かを愛し、愛されたいと願っているのか。


樋口の婚活は、まだ始まったばかりだ。しかし、すでに多くの感情が交錯し、その道のりは、樋口が想像していたよりもはるかに複雑なものになっていた。


樋口彰の婚活は、ここから本格的な戦場へと突入していく。

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