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婚活写真の笑顔は難しい

結婚相談所での無料カウンセリングを終えてから数日。樋口彰の頭の中は、あの塩対応の美人アドバイザー、栗原沙耶の言葉と、自分が答えた拙い結婚観がぐるぐると渦巻いていた。あれで本当に大丈夫だったのだろうか。自分はきちんと「結婚したい」という熱意を伝えられたのだろうか。漠然とした不安が拭えない。


しかし、一度決めたことだ。このまま何もしないで後悔するよりはマシだ。樋口は意を決し、結婚相談所へ入会する旨を伝える電話を入れた。電話口の担当者も栗原と同じく事務的で、手続きの流れを淡々と説明された。提示された費用は決して安くはなかったが、背に腹は代えられない。樋口はクレジットカードを握りしめ、入会手続きを済ませた。


契約書にサインをし、必要書類を提出した翌週、樋口は再び結婚相談所を訪れた。今回は、本格的な婚活の準備に入るための面談だ。担当はもちろん、栗原沙耶。


「樋口様、本日はご登録ありがとうございます。これから本格的に婚活をスタートしていただくにあたり、いくつかご説明がございます」


栗原は前回と変わらず、きっちりとしたスーツ姿で、冷ややかな視線を向けてくる。そのプロフェッショナルな姿勢は変わらない。樋口は緊張しながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。


「まず、最も重要になるのがプロフィールシートとお写真です。これらは、お相手の方が樋口様を初めて知る上で、非常に大切な情報源となります。特に写真は第一印象を大きく左右しますので、提携のスタジオでプロのカメラマンに撮影していただくことをお勧めしております」


「写真は……やはりプロに撮ってもらった方がいいですか?」


樋口は思わず尋ねた。マッチングアプリで散々苦い経験をしただけに、写真の重要性は身にしみていた。だが、改めて「プロに」と言われると、なんとなく気恥ずかしさを感じる。


「はい。アプリで登録されているような自撮り写真や、背景に生活感の見える写真は、婚活では逆効果になります。清潔感があり、誠実な印象を与える写真が求められます」


栗原の言葉は、まるで樋口の心を見透かしているかのようだった。アプリで使用していたのは、まさにサウナ上がりのぼやけた自撮り写真や、背景にプラモデルが写り込んだ部屋で撮ったものだ。


「承知いたしました。では、提携のスタジオで予約をお願いします」


樋口は素直に頷いた。どうせやるなら、徹底的にやろう。そう心に決めた。


翌週末。樋口は提携先の写真スタジオを訪れた。案内された更衣室で、事前に栗原から指示されたスーツに着替える。普段使いの紺色のスーツだが、クリーニングに出してパリッとさせてきた。ネクタイも、いつもより少し明るめのストライプを選んでみた。


スタジオのドアを開けると、若い女性アシスタントが笑顔で迎えてくれた。そして、奥からはベテランらしき男性カメラマンが姿を現す。


「樋口さん、こんにちは!今日は最高の笑顔を撮りましょうね!」


カメラマンは気さくな雰囲気で、樋口の緊張をほぐそうとしてくれる。樋口はぎこちなく会釈を返した。


「じゃあ、まずは座って、軽く微笑んでみましょうか。ええ、そうです。いい感じですよ!」


カメラマンの指示に従い、樋口は椅子に腰掛け、無理やり口角を上げた。しかし、鏡に映る自分の顔は、どうにも引きつった笑顔に見える。


「もう少し、自然な感じで。もっと肩の力を抜いて、リラックスしてください。誰かに話しかけられているようなイメージで、ふっと笑う感じ、ですかね」


自然な笑顔。それが一番難しい。樋口は、昔から写真を撮られるのが苦手だった。どうしても表情が硬くなってしまう。意識すればするほど、顔の筋肉がこわばるのがわかる。


「はい、いいですよ!視線はカメラのレンズじゃなくて、少しだけ上に。そうそう、そこに好きな人がいると思って、優しい眼差しを送る感じで!」


好きな人、か。そう言われても、パッと思い浮かぶ相手などいない。無理やり想像力を働かせ、なんとなく職場の後輩、井上真奈美の笑顔を思い浮かべてみた。彼女の屈託のない笑顔なら、少しは優しい表情になれるだろうか。


カシャ、カシャとシャッター音が響く。しかし、どれもこれもピンとこない。カメラマンも、だんだん困った顔になってきた。


「じゃあ、次は立ってみましょうか。はい、胸を張って、少し顎を引いて。で、もう一度、自然な笑顔を……」


何度かポーズを変え、笑顔を作ろうと試みたが、樋口の顔は一向に緩まない。鏡に映る自分は、まるで免許証の写真でも撮っているかのように真顔だった。


「うーん、樋口さん、ちょっと真面目すぎますかね?もう少し、親しみやすい雰囲気を出したいんですよ。趣味とか、何かありますか?例えば、好きなことを考えている時の顔とか」


カメラマンの言葉に、樋口は「サウナ」と「カレー作り」と「プラモデル」を思い浮かべた。しかし、プラモデルを作っている時の顔なんて、きっと真剣すぎて笑顔とは程遠いだろう。カレーを作っている時の顔も、レシピを見ながら眉間にしわを寄せていることが多い。サウナで「ととのって」いる時の顔は、我ながらかなり怪しい顔をしている自信がある。


「趣味ですか……ちょっと、難しいですね……」


正直にそう答えると、カメラマンは困ったように頭をかいた。


「じゃあ、少し休憩しましょうか。リラックスしてから、また頑張りましょう!」


休憩中、樋口はスマホで自分の顔を撮ってみた。やはり、どう撮っても笑顔が不自然だ。自然な笑顔とは一体何なのだろう。学生時代は、友達とふざけ合っている時には自然と笑えていたはずなのに。大人になって、いつの間にか笑顔の作り方を忘れてしまったような気がした。


ふと、栗原沙耶の顔が脳裏をよぎる。あの完璧な笑顔。いや、彼女は笑顔というよりは、常に冷静で、感情を表に出さないプロフェッショナルな表情だった。あの顔を真似るべきだろうか。いや、それではますます堅苦しい写真になってしまう。


再び撮影が始まった。カメラマンはあの手この手で樋口の笑顔を引き出そうとする。面白い話をしてくれたり、世間話で和ませようとしてくれたり。しかし、樋口の表情筋は頑として動かない。


「樋口さん、何か楽しいこと、思い出してください!例えば、好きなアイドルのライブに行った時のこととか、美味しいものを食べた時のこととか!」


好きなアイドル……そう言えば、最近ハマっている声優さんのラジオ番組がある。その番組を聞いている時は、確かに自然と笑っているかもしれない。樋口は、その声優さんが話していた面白エピソードを頭の中で反芻してみた。


すると、どうだろう。少しだけ、口角が上がったような気がした。無理やり作った笑顔ではなく、内側からじんわりと湧き上がってくるような、そんな感覚。


「あ、いいですね!今の笑顔、すごくいいです!その調子で、もう一枚!」


カメラマンの声が、少しだけ弾んだように聞こえた。樋口はそのまま、声優さんのラジオを頭の中で再生し続ける。気づけば、少しだけ自然な笑顔が作れるようになっていた。


撮影が終わり、樋口はホッと胸を撫で下ろした。何枚か撮った中から、一番良いものを選んでくれるという。これ以上、自分の不自然な笑顔を見せ続けるのは辛かった。


数日後。結婚相談所から連絡が入り、プロフィールシートとお見合い写真の準備が整ったという。樋口は再び結婚相談所を訪れた。


「樋口様、お待たせいたしました。こちらが、今回のプロフィールシートと、お見合い写真の候補になります」


栗原は、前回と同じカウンセリングルームで、樋口の前に一枚の紙と数枚の写真データが映し出されたタブレットを置いた。


まず、プロフィールシートに目を通す。そこには、樋口の基本的な情報はもちろん、趣味や休日の過ごし方、結婚観などが簡潔にまとめられていた。栗原がカウンセリングで聞いた内容を元に、プロのライターが作成したというだけあって、樋口自身が書くよりもずっと魅力的に、そして誠実そうに見える。


「趣味の欄ですが、『サウナ、カレー作り、プラモデル』と正直に書かせていただきました。特にプラモデルは、お子様がいらっしゃる方との話のきっかけにもなりますので、隠さずに記載しました」


栗原の淡々とした説明に、樋口は「なるほど」と頷いた。確かに、子供がいる人にとっては、プラモデルは良いコミュニケーションツールになるかもしれない。


そして、次にお見合い写真だ。タブレットをスライドすると、様々な表情の樋口の写真が表示された。引きつった笑顔から、少しだけ自然に見える笑顔まで。その中で、一枚だけ、明らかに他の写真とは違うものがあった。


それは、カメラマンが「今の笑顔、すごくいいです!」と言ってくれた時の写真だろう。口角は上がりきっているわけではないが、目が笑っているように見える。無理やり作った笑顔ではない、どこか穏やかで、優しそうな表情だ。


「こちらの写真が、今回私がお勧めする一枚です。樋口様の真面目さの中に、親しみやすさが感じられる写真かと思います」


栗原が指差したのは、まさに樋口が一番マシだと思った写真だった。


「ありがとうございます。これに、お願いします」


樋口は迷わずその写真を選んだ。自分で言うのもなんだが、これは奇跡の一枚に近い。


「では、こちらの写真でプロフィールを登録いたします。樋口様のお相手への希望条件についても、改めて確認させていただきますが、何か変更点や追加したいことはございますか?」


栗原はタブレットを操作しながら、改めて樋口に尋ねた。


「いえ、特に。前回お伝えした通りでお願いします」


樋口はそう答えた。希望条件は「明るくて、一緒にいて楽しい人。料理が好きだと嬉しい。子供も欲しい」だ。漠然としているが、まずはこれで良いだろう。


「承知いたしました。では、来週からお相手の紹介を開始いたします。お見合いのお申し込みがあった場合は、システムから通知がいきますので、ご確認ください。また、樋口様からも積極的にお申し込みをしていただくことを推奨いたします」


栗原は、一枚の紙を樋口に差し出した。そこには、「お見合い当日のマナー」や「会話のポイント」などが細かく書かれている。


「何かご不明な点はございますか?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


樋口は頭を下げた。これで、いよいよ婚活が始まる。期待と不安が入り混じる複雑な心境だった。


結婚相談所を出て、樋口はふと空を見上げた。今日の空は、スカッと晴れ渡っている。自分の未来も、これくらい晴れやかだといいのだが、と願わずにはいられなかった。


翌週。樋口のスマートフォンの通知が鳴った。システムからの新着メッセージ。恐る恐るアプリを開くと、そこには「お見合いのお申し込みがありました」という文字が表示されていた。


ドキリ、と心臓が跳ねる。ついに来た。樋口は震える指でメッセージをタップした。


表示されたのは、一人の女性のプロフィールだった。


名前:田中たなか さき

年齢:35歳

職業:大手外資系コンサルタント

学歴:東京大学大学院卒

年収:1000万円以上

趣味:海外旅行、クラシック鑑賞、ジョギング


ずらりと並んだスペックに、樋口は思わず目を丸くした。大手外資系コンサルタント、東京大学大学院卒、年収1000万円以上。どれもこれも、樋口とは住む世界が違うような輝かしい肩書きばかりだ。


「す、すごい……」


思わず声が出た。正直、自分のプロフィールに「年収600万円」と書いた時、引かれるのではないかと心配になったものだ。まさか、こんなハイスペックな女性からお見合いの申し込みがあるとは夢にも思わなかった。


彼女のプロフィール写真も見た。知的な雰囲気の中に、どこか優しさを感じさせる笑顔の女性だった。美人と言ってもいいだろう。樋口は、自分の写真が並べられることに、少しばかり申し訳なさを感じた。


「まさか、こんな人が俺に……?」


樋口は、自分が彼女の申し込むような価値のある人間なのか、と不安になった。しかし、栗原が言っていた「積極的にお申し込みをしていただくことを推奨いたします」という言葉を思い出す。相手からの申し込みであれば、これに応じない手はないだろう。


樋口は、深く考えずに「お見合いを承諾する」ボタンをタップした。


すぐにシステムから「お見合いが成立いたしました」という通知が来た。そして、具体的な日時と場所が提示される。来週末の土曜日、都心のホテルラウンジ。


いよいよお見合いだ。人生で初めての「お見合い」という経験に、樋口は動悸が激しくなった。一体何を話せばいいのか。どんなことに気を付ければいいのか。頭の中は、不安と緊張でぐちゃぐちゃになった。


樋口は、栗原から渡された「お見合い当日のマナー」の紙を引っ張り出し、隅から隅まで読み込んだ。


服装は清潔感のあるスーツで。


笑顔を忘れずに。


相手の目を見て話す。


聞き役に徹し、相手の話を肯定的に聞く。


自分の話ばかりしない。


政治や宗教、過度な個人的な質問は避ける。


食事のマナーに気を付ける。


時間は厳守。


当たり前のようなことばかりだが、いざ実践となると難しいだろう。特に「笑顔を忘れずに」の項目を見た時、樋口は思わず頭を抱えた。あの写真撮影での苦労が脳裏をよぎる。果たして自分は、田中咲という女性の前で、自然な笑顔を保てるのだろうか。


さらに、相手のプロフィールを改めて確認する。大手外資系コンサルタント。東京大学大学院卒。年収1000万円以上。自分はただの中小IT企業のシステムエンジニアだ。会話のレベルが合うだろうか。彼女が話す専門用語についていけるだろうか。そんな心配ばかりが募る。


「カレー作りとか、プラモデルの話なんて、通用するわけないよな……」


趣味の話を振られても、無難な話しかできないかもしれない。自分のプライドはズタズタになりそうな予感しかしなかった。


その夜、樋口はあまり眠れなかった。お見合い当日のシミュレーションを何度も繰り返す。失敗するパターンばかりが頭に浮かび、ますます不安が膨らんでいく。


週末の土曜日。樋口は、指定されたホテルのラウンジに、待ち合わせ時間の15分前に到着した。約束の時間を守るのは、社会人としての最低限のマナーだ。


ラウンジは、上品な雰囲気で、たくさんの人がお茶を飲んでいた。緊張しながら、入り口近くのソファに座り、田中咲が来るのを待つ。


「落ち着け、樋口彰。大丈夫だ。いつもの仕事と同じだと思えばいい」


そう自分に言い聞かせたが、心臓の鼓動は早まる一方だった。額には、うっすらと汗が滲んでいる。


約束の時間ちょうど。樋口は、入り口から入ってくる女性の姿にハッとした。


プロフィール写真よりも、さらに洗練された印象の女性がそこに立っていた。上品なワンピースに身を包み、知的な雰囲気を漂わせている。間違いない、田中咲だ。


田中咲は、樋口の顔を確認すると、まっすぐにこちらへ歩み寄ってきた。そして、優雅な仕草で樋口の前の席に腰掛ける。


「樋口さん、田中咲です。本日はお忙しい中、ありがとうございます」


彼女の声は、落ち着いていて、それでいて心地よい響きがあった。樋口は思わず居住まいを正した。


「あ、樋口です。本日は、お時間をいただきありがとうございます」


たどたどしい自分の声に、樋口は情けなくなる。しかし、田中咲はそんな樋口の様子を気にする様子もなく、にこやかに微笑んだ。


「お忙しいところ申し訳ありませんが、今日はどうぞよろしくお願いいたします」


その笑顔は、樋口のプロフィール写真の笑顔とは比べ物にならないほど、自然で、美しかった。樋口は、早くも彼女に圧倒されている自分に気づいた。


店員が水を運んできたタイミングで、樋口は慌ててメニューを開き、飲み物を注文した。田中咲は、迷うことなく紅茶を注文する。


「樋口さんは、普段お休みの日は何をされていますか?」


田中咲が、お見合いの鉄板ともいえる質問を切り出してきた。樋口は事前に用意していた答えを頭の中で反芻する。


「私は、普段はサウナに行ったり、家でカレーを作ったりしています。あとは、プラモデルを組み立てたりも……」


趣味の話になった途端、樋口は少し口が滑らかになった。特にプラモデルの話は、相手がどういう反応をするか不安だったが、田中咲は興味深そうに耳を傾けてくれた。


「プラモデルですか!意外ですね。どんなものを作られるんですか?」


「ガンプラが多いですね。最近は、少し古いキットを改造するのにハマっていまして……」


樋口は、つい熱が入ってしまい、プラモデルについて延々と語りそうになったが、ハッと我に返った。いけない、自分の話ばかりしてはいけない。栗原に言われた「自分の話ばかりしない」という注意を思い出す。


「すみません、つい熱くなってしまって……田中さんは、趣味で海外旅行に行かれると伺いました。どちらに行かれることが多いんですか?」


慌てて話を田中咲に振ると、彼女はにこやかに答えた。


「はい。仕事で海外に行くことも多いので、そのついでに少し足を延ばしたりします。最近は、南米の遺跡を巡るツアーに参加しまして、それがとても面白かったんですよ。マチュピチュの朝日を見た時は、本当に感動しました」


田中咲の言葉は、樋口の知らない世界の話ばかりだ。海外旅行もほとんどしたことがない樋口には、マチュピチュと聞いても、遠い国のテレビ番組で見たことのある風景がぼんやりと浮かぶ程度だった。


「すごいですね……僕なんて、国内旅行も数えるほどで……」


正直にそう言うと、田中咲は少しだけ驚いたような顔をした。そして、すぐに表情を戻し、優しく微笑んだ。


「そうですか。でも、国内にも魅力的な場所はたくさんありますよね。樋口さんが行ってみたい場所とかはありますか?」


彼女は、樋口の拙い返事にも丁寧に耳を傾け、会話を広げようとしてくれる。その気遣いが、樋口にはありがたかった。しかし、同時に、彼女との間の「格差」のようなものをひしひしと感じていた。


学歴、仕事、年収、そして趣味。どれをとっても、田中咲は樋口よりもはるかに上の世界にいる人間だ。こんな完璧な女性が、なぜ自分のようなアラフォーの独身男に、お見合いを申し込んできたのだろう。疑問ばかりが募った。


会話は、田中咲が主体となって進んでいった。彼女は、仕事の話も、趣味の話も、淀みなく語る。その知識量と経験の豊富さに、樋口はただただ圧倒されるばかりだった。


「コンサルタントのお仕事は、やはり大変ですか?」


樋口は、なんとか質問を絞り出した。


「ええ、クライアントの抱える問題を解決するために、多岐にわたる知識と経験が求められます。特に、最近はAI関連のプロジェクトに携わることが多くて、日々勉強ですね」


AI関連のプロジェクト。樋口もシステムエンジニアとしてAIには多少の知識があるが、田中咲の語る内容は、樋口の知っているレベルをはるかに超えていた。


「すごいですね……僕なんて、せいぜい社内システムの改修くらいで……」


自分の仕事が、まるで取るに足らないもののように感じられてくる。樋口は、なんだか惨めな気持ちになった。


「樋口さんもIT企業にお勤めなんですよね。何か、新しい技術に触れる機会などはありますか?」


田中咲は、樋口にも話を振ろうとしてくれる。しかし、樋口は自分の仕事の内容を、彼女に話すのが億劫になっていた。きっと、彼女にとっては「そんなこと?」と思うようなレベルの話だろう。


「そうですね……最近は、クラウドサービスの導入プロジェクトに携わることが増えました。でも、田中さんのようなスケールの大きな仕事とは比べ物にならないかと」


樋口は、つい自虐的な発言をしてしまう。田中咲は、そんな樋口の様子を見て、少しだけ眉をひそめたように見えた。


「そんなことはありませんよ。どんな仕事でも、社会を支える上で大切なことです。それに、私は樋口さんのプロフィールを拝見して、すごく真面目で誠実な方だという印象を受けました。システムエンジニア歴15年というのは、素晴らしいご経験だと思います」


彼女の言葉に、樋口は少しだけ救われたような気がした。しかし、同時に、彼女が自分を評価してくれている理由が、純粋な興味からなのか、それとも「真面目そうだから」という、ある種のフィルターを通して見られているだけなのか、判断に迷った。


お見合いの時間はあっという間に過ぎた。最後の10分になり、田中咲が切り出した。


「本日はありがとうございました。樋口さんとお話しできて、とても楽しかったです」


彼女の言葉は、社交辞令のように聞こえた。本当に楽しんでくれたのだろうか。樋口は、自分がいっぱいいっぱいで、ほとんど面白い話もできなかったことを悔やんだ。


「こちらこそ、ありがとうございました。田中さんのお話、とても勉強になりました」


樋口は、精一杯の笑顔を作ってそう答えた。果たして、その笑顔は自然なものだっただろうか。


ラウンジを出て、田中咲と別れた後、樋口はどっと疲れが出た。まるで、大きなプロジェクトを一つ終えたかのような疲労感だ。


「疲れた……」


ホテルの外に出ると、夕日がビルの合間に沈んでいくのが見えた。自分の人生も、この夕日のように沈んでいくのだろうか。そんなネガティブな考えが頭をよぎる。


今回の田中咲とのお見合いは、樋口にとって、婚活の「形式的」なやりとりに戸惑うばかりだった。まるで面接を受けているような、品定めをされているような感覚。そして、自分と相手との間に、どうしようもない隔たりがあることを痛感させられた。


このまま、こんな調子で婚活を続けていけるのだろうか。


樋口は、大きくため息をついた。期待感は、いつの間にか不安感に変わり、さらに疲労感が加わった。


その日の夜。樋口は、一人で近所のカレー屋に入った。いつものようにカウンターに座り、チキンカレーを注文する。


このカレー屋は、樋口のお気に入りの場所だった。決して有名店ではないが、家庭的ながらも本格的なスパイスが効いたカレーが、疲れた心と体を癒してくれる。


カレーが運ばれてくるのを待っている間、樋口は今日のお見合いを反省していた。

もっと気の利いた会話はできなかったのか。

もっと自分の魅力をアピールできなかったのか。

もっと自然な笑顔はできなかったのか。


自己嫌悪に陥りながら、ふと顔を上げた。


カウンターの向こう側で、忙しそうに動き回る女性店員がいた。年齢は20代後半くらいだろうか。黒いTシャツにエプロン姿で、無造作に結んだ髪から少しだけ前髪がはみ出ている。顔は少しだけ疲れているように見えたが、目元は涼やかで、どこか惹きつけられるものがあった。


彼女は、次々と入ってくる客の注文をこなし、テキパキと動き回っていた。その動きは無駄がなく、流れるようだ。


樋口が注文したカレーが運ばれてきた。彼女は無言でカレーを樋口の前に置き、すぐに次の客の注文を取りに行った。その無愛想な態度に、樋口は少しだけ拍子抜けした。


「ずいぶん塩対応な店員さんだな……」


栗原沙耶の塩対応を思い出し、樋口はふと笑みがこぼれた。いや、栗原とはまた違う種類の塩対応だ。栗原はプロフェッショナルな塩対応だが、この店員は、もっと自然体な、まるで「人に興味がない」かのような塩対応だ。


樋口はカレーを食べ始めた。一口食べると、じんわりとスパイスの香りが口の中に広がり、深いコクが胃に染み渡る。やはりこの店のカレーは最高だ。今日の疲れも、少しは癒されるだろう。


ふと、カウンターの向こうから、店員の女性が樋口のほうをチラリと見た気がした。気のせいだろうか。


樋口は、食べ終わった食器をカウンターに置いた。店員が再び樋口の前にやってくる。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」


樋口がそう言うと、店員の女性は小さく頷いただけで、無言で食器を下げていく。本当に無愛想だ。しかし、樋口はなぜか、そんな彼女の態度に妙な親近感を覚えた。まるで、自分を見ているようだとでも言うのだろうか。


樋口が会計を済ませて店を出ようとすると、彼女の声が聞こえた。


「あの……」


振り返ると、彼女が樋口の方を見ていた。


「もしよかったら、これ……」


彼女が差し出してきたのは、一枚のクーポン券だった。「次回、トッピング無料」と書かれている。


樋口は少し驚いた。今まで何度かこの店に来ているが、クーポン券をもらったのは初めてだ。そして、彼女が自分に話しかけてきたのも初めてだ。


「あ、ありがとうございます」


樋口は慌ててクーポン券を受け取った。彼女は、それ以上何も言わず、すぐにまたカウンターの奥へと戻っていった。


樋口は、店の外に出て、手の中のクーポン券をじっと見つめた。無愛想な彼女が、なぜ自分にだけクーポン券をくれたのだろうか。たまたまかもしれないが、もしかしたら、常連客へのサービスだったのかもしれない。


何はともあれ、これでまたこの店に来る口実ができた。少しだけ気分が晴れた樋口は、重かった足取りが、いくぶんか軽くなったような気がした。


結婚相談所で、超優秀な女性に圧倒され、婚活の形式的なやりとりに困惑した樋口。しかし、偶然入ったカフェで、無愛想な店員女性と、ほんの少しの接点が生まれた。


この小さな出会いが、樋口の今後の婚活に、一体どんな影響を与えることになるのだろうか。樋口は、まだ知る由もなかった。

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