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七海の過去と、再び動き出す時間

七海からの「いいですよ」というメッセージは、樋口彰の心をかつてないほど高揚させた。無愛想な彼女が、カレー屋やカフェではない場所で、自分と会ってくれる。それは、樋口にとって、婚活で得たどんな出会いよりも、大きな意味を持っていた。


「俺は今恋愛をしているのかもしれない」


樋口は胸の奥でそう確信し始めていた。それは結婚相談所でのプロフィールに書かれた条件や、データで示された相性とは全く関係のない純粋な感情だった。


七海との待ち合わせは、週末の午後。場所は、七海が指定した、少し路地に入った静かなカフェだった。樋口は、約束の時間よりも少し早く着き、カフェのドアの前で七海を待った。


数分後。七海が、樋口の前に現れた。彼女は、いつもの私服姿ではなく、落ち着いた色合いのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。髪も丁寧にまとめられ、普段の無愛想な店員の姿とは、まるで別人のようだった。


「七海さん……」


樋口は思わず息をのんだ。彼女は疲れた顔をしていたが、どこか清々しい雰囲気をまとっている。


「お待たせしました」


七海がそう言って少しだけ微笑んだ。その笑顔は樋口が今まで見たことのない、どこか儚げなしかし美しい笑顔だった。


二人はカフェに入り窓際の席に座った。コーヒーを注文し、お互いに言葉を探した。


「七海さん、今日はありがとうございます。僕と会ってくださって」


樋口がそう言うと、七海は小さく首を振った。


「いえ。話したいことがあるってメッセージに書いてあったので」


七海の声は、いつもの無愛想なものとは違い少しだけ柔らかい響きがあった。


「あの……七海さん。この間変なことを聞いてしまって、本当にすみませんでした。僕、七海さんの過去を詮索したくてお会いしたわけじゃありません」


樋口は、正直な気持ちを伝えた。七海はじっと樋口の顔を見つめている。


「……分かってます」


七海がそう呟いた。


「七海さんのことをもっと知りたいんです。カレー屋さんでもカフェでもない七海さん自身のことを」


樋口がそう言うと、七海は、少しだけ表情を緩めた。そしてぽつりぽつりと、自分のことを話し始めた。


「私は、大学でデザインを勉強していて……卒業後、念願だった自分のカフェをオープンしたんです。でも、無理がたたって、体を壊してしまって……。結局、お店を続けることができなくなってしまいました」


七海の言葉は、樋口がブログで読んだ内容と一致していた。しかし、彼女の口から直接語られると、その言葉の重みが、樋口の心を深くえぐる。


「そうだったんですね……。大変でしたね」


樋口がそう言うと、七海は、悲しそうな顔をした。


「……はい。お店を閉めた後、本当に一人ぼっちになってしまって。誰とも会いたくないし、誰にも会いたくない。そんな風に思って、引きこもっていた時期があったんです」


その言葉は、以前カレー屋で彼女が話してくれたことと重なった。


「でもある日、ふとカレー屋の匂いがしたんです。その匂いを嗅いだら、なんだか、無性にカレーが食べたくなって。それで、カレー屋さんで働いてみようって思ったんです」


七海が、少しだけ微笑んだ。その笑顔は、樋口が今まで見たことのない、どこか儚げな笑顔だった。


「カレー屋さんで働いてたら、色々な人が来てくれて。色々な人と話して、少しずつ、元気が出てきたんです。だから、今も、こうして、色々な場所で働いているんです」


七海の言葉に、樋口は胸が締め付けられる思いだった。彼女は、深い悲しみを乗り越え、前向きに生きている。その姿は、樋口に勇気を与えてくれた。


「七海さんって、本当に強い人なんですね」


樋口がそう言うと、七海は、少しだけ照れたように笑った。


「強くないですよ。ただ、一人でいるのが、怖いだけです」


七海の声は、どこか弱々しかった。その言葉に、樋口は胸が締め付けられる思いだった。


二人はその後も夜遅くまで話し続けた。七海は樋口の言葉を一言一言丁寧に聞いてくれた。そして樋口も七海の言葉を一言も聞き漏らさずに聞いていた。


「今日はありがとうございました。樋口さんとお話しできてなんだか少し元気が出ました」


七海がそう言ってくれた。


「いえ、こちらこそ。僕も七海さんとお話しできて楽しかったです」


樋口は、心からそう答えた。


七海と別れた後樋口の心は温かいもので満たされていた。彼女は無愛想なだけではない。深い悲しみを乗り越え、優しさと強さを兼ね備えた女性だ。


その日の夜、樋口のスマホに一通のメッセージが届いた。差出人は栗原沙耶だった。


「樋口様、お久しぶりです。ご相談したいことがございまして、一度お時間をいただけないでしょうか。もちろんご無理のない範囲で結構です」


栗原からのメッセージに、樋口は少しだけ戸惑った。婚活を休止した今、彼女と会う用事などないはずだ。しかし、樋口は、栗原のことが気になっていた。彼女は、ただの事務的なアドバイザーではなく、樋口の幸せを心から願ってくれているように感じられたからだ。


「分かりました。ご都合の良い日時をご連絡ください」


樋口は、そう返信した。


翌日。樋口は、七海と会ったばかりだというのに、再び栗原と会うことになった。カウンセリングルームに入ると、栗原は、いつものように冷静な表情で樋口を迎えた。


「樋口様、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」


「はい。栗原さんもお元気そうで」


二人は、ぎこちない挨拶を交わした。


「本日はお忙しい中ありがとうございます。実は、樋口様にお伝えしたいことがございまして」


栗原がそう言うと、樋口は姿勢を正した。


「実は、樋口様がご活動を休止された後、鈴木様が樋口様にお見合いを希望されているとご連絡がございました」


その言葉に、樋口は思わず息をのんだ。鈴木優子。彼女とは、仮交際を休止したはずだ。それなのに、なぜ今になって。


「鈴木様は、樋口様との再会を強く望んでいらっしゃいます。ご自身の気持ちを整理し、改めて樋口様と向き合いたい、と」


栗原の言葉に、樋口の心は揺れ動いた。鈴木優子。彼女とは穏やかで居心地が良かった。しかし、樋口の心は、七海という別の女性で満たされている。


「……鈴木さんには、僕の気持ちを正直に話しました。だから、もう会うことは……」


樋口がそう言うと、栗原は静かに首を振った。


「樋口様。婚活は、ご自身の気持ちに正直になることが大切です。ですが、お相手の方の気持ちも、尊重してあげていただきたいのです。鈴木様は、樋口様との関係を、真剣に考えていらっしゃいます。一度、お会いになって、ご自身の口から、お気持ちを伝えてあげるのが、誠意ではないでしょうか」


栗原の言葉は、樋口の心を深くえぐった。彼女の言う通りだ。鈴木優子に誠意を持って向き合う必要がある。


樋口は迷った末、栗原の提案を受け入れた。


「分かりました。一度、お会いします」


栗原は、樋口の言葉に、静かに頷いた。


結婚相談所を出て、樋口は空を見上げた。七海との新しい関係を築き始めた矢先、再び婚活のレールへと引き戻される。


樋口の心は、七海という「恋」と、鈴木優子との「婚活」の間で、激しく揺れ動くことになる。


「俺は、どうすればいいんだ……」


樋口の新たな葛藤が今まさに始まろうとしていた。


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