想いの確信と、後輩からの意味深発言
七海と心を通わせた夜以来、樋口彰の心は温かい光に満ちていた。無愛想な態度の裏に隠された彼女の優しさと、深い悲しみを乗り越えようとする強さ。そのすべてが樋口を強く惹きつけていた。婚活という形式から解放された今、樋口は七海という一人の女性に、純粋な好意を抱き始めていた。
しかし樋口の心は決して七海一色というわけではなかった。学生時代に想いを寄せていた高橋絵美の存在も、樋口の心を温かく包み込んでいた。彼女は離婚という辛い経験を乗り越え、シングルマザーとして強く生きている。その姿は樋口に勇気を与えると同時に、彼女を守ってあげたい気持ちも芽生え始めていた。
樋口の日常は七海と高橋さんという二つの異なる女性の存在によって大きく揺れ動いていた。七海は樋口の心をかき乱す予測不能な存在。高橋さんは樋口の心を安らげる安定した存在。どちらも魅力的で、樋口はどちらに惹かれているのか自分でも分からなくなっていた。
「俺は一体何を求めているんだろう」
樋口は仕事帰りに一人、行きつけのバーでウイスキーを傾けていた。七海との会話、高橋さんとの交流。それぞれの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
「男の悩みってのは、大体、仕事か女か、どっちかだろ」
マスターが冗談めかしてそう言った。樋口は苦笑いした。
「半分当たってますよ」
樋口はマスターに、七海と高橋さんのことを少しだけ話した。婚活を休止したこと、七海という謎の女性に出会ったこと、そして元同級生の高橋さんと再会したこと。
マスターは樋口の話を黙って聞いていた。そして樋口の話が終わると静かに口を開いた。
「面白い話だな。まるで二つの違う人生を生きているみたいじゃないか」
「二つの人生ですか?」
「ああ。一人はお前を成長させてくれる刺激的な相手。もう一人はお前を癒してくれる安らぎを与えてくれる相手。どっちを選ぶかはお前次第だ」
マスターの言葉は樋口の心を深くえぐった。彼はまさにその二つの人生の間で揺れ動いていたのだ。
「俺はどっちの人生を歩みたいんだろう」
樋口はグラスの中のウイスキーを飲み干した。答えはまだ見つからない。
その翌日。樋口は仕事中、ふと休憩室で同僚と話す井上真奈美の姿を見かけた。彼女はいつものように明るい笑顔で、同僚の結婚式の話題で盛り上がっていた。
「すごいですよね、幸せそうで!」
「私もいつか結婚できるかなぁ。でも、相手いないし!」
真奈美の声は弾んでいた。樋口は少しだけ気まずさを感じながら、自販機で缶コーヒーを買った。真奈美は樋口に気づくと、笑顔で近寄ってきた。
「樋口さん、こんにちは!お疲れ様です」
「井上さんも、お疲れ様」
「樋口さん、最近元気そうですね!婚活、どうですか?」
真奈美の直球な質問に樋口は思わず目を丸くした。真奈美との仮交際が終了してから、彼女と婚活の話をしたことはなかった。
「えっと、実は、少し休止しているんだ」
樋口が正直にそう答えると、真奈美は少しだけ寂しそうな顔をした。
「そうなんですか。でも、休止してよかったかもしれませんね。樋口さん、婚活の時、なんだかちょっと無理しているように見えましたもん」
真奈美の言葉は、以前栗原沙耶に言われたことと重なった。婚活に疲れていた自分を、彼女は気づいていたのだ。
「そんなことないよ」
「そんなことありますよ!樋口さんって、もっと自然で優しい人ですもん。だから、私、お見合いしたかったんだし……」
真奈美は、そう言って、少しだけ俯いた。その言葉は、樋口の心を強く揺さぶった。真奈美は、樋口のことを本当に大切に思ってくれていたのだ。
「でも、樋口さんが選ぶ人って、きっとすごく素敵な人なんだろうなって、私、楽しみにしています」
そう言うと真奈美は、笑顔で樋口を見上げた。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。
「樋口さんって、結婚考えないんですか?」
真奈美は、そう言って、笑顔で樋口を見上げた。その言葉は、まるで樋口の背中を押すかのような、意味深な発言だった。
真奈美からの言葉は、樋口の心に、ある種の確信をもたらした。自分は、婚活という形式に囚われて、自分の本当の気持ちを見失っていたのかもしれない。しかし、七海という女性に出会い、そして真奈美に背中を押された今、樋口の心は、ある一つの答えへと向かい始めていた。
それは、七海という女性に、ただの好奇心や同情ではなく、純粋な恋愛感情を抱いている、ということだ。
樋口は、その日の夜、意を決して、七海にメッセージを送った。カレー屋の店員としての連絡先しか知らないが、それしかなかった。
「七海さん。突然で申し訳ないのですが、今度、ちゃんとお話しできませんか? ご都合の良い日時を教えていただけると嬉しいです。樋口」
メッセージを送った後、樋口はスマホを握りしめ、心臓の鼓動が早まるのを感じた。七海は、このメッセージに、どう答えてくれるだろう。また、無愛想に突き放されるのだろうか。
数分後。スマホが鳴った。七海からの返信だ。
「……いいですよ。カレー屋じゃないところで、待ち合わせしませんか?」
そのメッセージを見た瞬間、樋口の胸に、かつてないほどの高揚感が込み上げてきた。彼女は、樋口からの誘いを、受け入れてくれたのだ。
樋口の婚活は、一度幕を閉じた。しかし、樋口の「恋愛」は、今、まさに幕を開けようとしていた。それは七海という女性の「謎」を解き明かす、新たな冒険の始まりだった。樋口は、七海との新しい関係を築くために、一歩踏み出すことを決意した。
樋口彰の心は、もはや婚活という枠組みには囚われていない。彼の次なる一歩は、七海という名の、予測不能な恋へと向かっていく。