結婚、って何だっけ
ぴぃ、と無機質な電子音が響き、サウナ室のタイマーがゼロを告げた。38歳の樋口彰は、熱気に汗だくになった体をゆっくりと起こす。木製のベンチから立ち上がり、濡れたタオルを肩にかけながら、重い足取りで水風呂へと向かった。キンと冷えた水が火照った体に触れると、じんわりと毛穴が引き締まる感覚が全身を駆け巡る。はぁ、と小さく息を吐き出すと、思考がクリアになっていくのを感じた。
これが、樋口彰の日常だ。都内の中小IT企業でシステムエンジニアとして働くこと15年。穏やかで真面目、そして人には優しいと自負している。だが、恋愛となると話は別だ。ことさら奥手で、これまでの人生で恋人がいた期間は数えるほどしかない。趣味はサウナ、カレー作り、そしてプラモデル。どれも一人で完結する趣味ばかりで、それは樋口の人生を表しているかのようだった。
学生時代はそれなりにモテた記憶もある。告白されたこともあったし、ちょっと良い雰囲気になった相手もいた。しかし、いつも肝心なところで一歩が踏み出せず、結果的にチャンスを逃してきた。30代になってからは、仕事漬けの毎日。プロジェクトの納期に追われ、新しい技術を習得し、気がつけばあっという間に歳月が流れていた。年収は600万円程度。生活は安定しているし、住んでいる部屋も広すぎるくらいだ。それでも、最近になって急に、得体のしれない孤独感が樋口の心を蝕み始めた。
「結婚、ねぇ……」
水風呂から上がり、外気浴の椅子に深く腰掛けると、自然とそんな言葉が口から漏れた。澄み切った青空を見上げながら、最近の出来事を思い返す。
始まりは、職場の後輩、井上真奈美の結婚だった。彼女は26歳。入社三年目にして、すでに同期と社内結婚を決めたという。
「樋口さん、今度結婚するんです!」
真奈美がそう報告してきた時の、あの満面の笑み。そして、その横で少し照れくさそうに笑っていた同期の男。二人を見ていると、胸の奥がチクリと痛んだ。
「おめでとう。おめでたいね、本当に」
社交辞令でそう返しながらも、内心では「26歳で結婚かぁ……」と、遠い目をしていた。樋口が真奈美の年齢だった頃、結婚なんて言葉はまるでSFの世界の出来事のように思えたものだ。仕事に追われ、プライベートは二の次。それが当たり前だった。だが、真奈美の報告は、樋口の中に漠然と存在していた「結婚」という概念を、突如として現実のものとして突きつけた。
さらに拍車をかけたのは、実家からの電話だった。
「彰、あんたももう38でしょ?いつまで一人でいるつもりなの」
母親の声は、電話越しでもその切実さが伝わってきた。父親も珍しく口を挟む。
「お母さんも心配してるんだ。良い加減、身を固めたらどうだ」
別に結婚を急かされていたわけではなかった。むしろ、これまで両親は樋口の人生に口出しすることは少なかった。だからこそ、その言葉は重く、樋口の心に突き刺さった。
「結婚か……」
サウナを終え、自宅に戻った樋口は、シャワーを浴びてからビールを片手にソファに沈み込んだ。スマートフォンを手に取り、なんとなくSNSを開く。学生時代の友人たちの投稿が目に入る。結婚式の写真、子供が生まれた報告、マイホームを建てたという投稿。みんな、それぞれの人生を謳歌しているように見えた。
そんな中、ふと、あるアカウントが目に留まった。学生時代に付き合っていた元カノのアカウントだ。別れて以来、ほとんど連絡を取ることもなかったが、彼女のアイコンに映る顔は、記憶の中の面影を残しながらも、以前よりもずっと穏やかで、幸せそうに見えた。
恐る恐る、彼女の投稿を遡っていく。すると、そこには見覚えのある顔が映っていた。彼女の隣に立つ男性と、小さな女の子。
「結婚して、子供もいたのか……」
樋口は思わず目を閉じた。かつて、もう少しだけ勇気を出していれば、もしかしたら違う未来があったのかもしれない。そんなIFが、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。彼女は樋口とは別の、幸せな人生を歩んでいた。その事実に、胸の奥がズキンと痛む。撃沈、という言葉がこれほどまでにしっくりくることはなかった。
「このままじゃ、本当にまずい……」
焦燥感に駆られ、樋口は「婚活」というキーワードで検索を始めた。マッチングアプリ、婚活パーティー、結婚相談所……様々な選択肢が表示される。まずは手軽そうなマッチングアプリから試してみるか、とアカウントを作成し、プロフィール写真を登録した。
しかし、現実は甘くなかった。何人かの女性とメッセージのやり取りはできたものの、実際に会うまでに至ることは稀だった。メッセージの返信も途切れがちで、デートの誘いを出しても、返事が来なかったり、「また今度」と曖昧な返事が返ってくるばかり。
「アラフォーの男なんて、需要ないのか……」
アプリに登録してから二週間。届いた「いいね!」は数えるほど。しかも、ほとんどが明らかな勧誘アカウントか、年齢が倍以上離れたアカウントばかりだ。樋口は、アプリの画面を閉じた。惨敗。その一言に尽きた。
ある週末の昼下がり。樋口は、ぼんやりとテレビを見ていた。CMで流れるのは、結婚相談所の広告だ。「あなたにぴったりの相手が見つかる!」という明るいナレーションが、樋口の耳には空虚に響いた。
「もう俺に残された選択肢って……結婚相談所?」
アプリで惨敗した今、残された道はそれしかないような気がした。しかし、結婚相談所という響きには、どこか最後の砦のような、切羽詰まったイメージがつきまとう。まるで、自分で恋愛すらできない人間だと言われているような気がして、抵抗があった。
それでも、このままではいけないという焦燥感が勝った。樋口は重い腰を上げ、インターネットで結婚相談所の情報を探し始めた。いくつかのサイトを比較検討し、最終的に都内でも評判の良い大手結婚相談所に資料請求をした。数日後、自宅に届いたパンフレットには、幸せそうなカップルの写真がずらりと並んでいた。
観念した樋口は、意を決して無料カウンセリングの予約を入れた。
予約の日。樋口は、少しだけ慣れないスーツに身を包み、結婚相談所のビルへと向かった。ネクタイを締めながら、鏡に映る自分の顔を見る。どこか緊張しているような、しかし決意を秘めたような表情だ。
待ち合わせ時間よりも少し早く到着し、受付を済ませる。清潔感のある広々とした待合室に通され、ソファに腰掛けると、他のお客さんらしき男女が何組か座っていた。皆、樋口と同じように、どこか緊張した面持ちをしている。
「樋口彰様、お待たせいたしました」
そう声をかけてきたのは、すらりと背の高い女性だった。年齢は30代半ばくらいだろうか。黒いタイトスカートに、品の良いブラウスを身につけ、まとめられた髪が知的な印象を与える。顔立ちも整っていて、その美しさに樋口は思わず息をのんだ。
「本日、担当させていただきます栗原沙耶と申します。どうぞ、こちらへ」
栗原沙耶。その名前を反芻しながら、樋口は彼女の後についてカウンセリングルームへと入った。部屋はシンプルな作りで、テーブルと椅子が二つずつ向かい合わせに置かれている。
栗原は樋口に座るように促し、自身も椅子に腰掛けた。彼女の視線はまっすぐで、どこか冷たい印象を受ける。それが、いわゆる「塩対応」というものだろうか。樋口は少し居心地の悪さを感じた。
「本日は、無料カウンセリングにお越しいただきありがとうございます。まず、樋口様が結婚相談所をご利用されようと思ったきっかけからお聞かせいただけますでしょうか」
栗原は手元のタブレットに視線を落としたまま、事務的に尋ねた。そのプロフェッショナルな態度に、樋口は気圧される。
「ええと……はい。きっかけ、ですか。そうですね……最近、周りの友人が次々と結婚したり、職場の後輩が結婚したりしまして。両親からもそろそろ身を固めたらどうかと言われ、自分でも、このままでいいのか、と漠然とした不安を感じるようになりました。それで、まずは婚活アプリを試してみたんですが、うまくいかなくて……」
樋口はどもりながら、ここに至るまでの経緯を説明した。栗原は樋口の言葉を、一つ一つ丁寧にタブレットに打ち込んでいく。その表情は変わらず、感情を読み取ることができない。
「なるほど。婚活アプリでのご経験も踏まえ、具体的なお相手に求める条件などございますか?」
「条件、ですか……」
樋口は考え込んだ。これまで具体的な条件を考えたことはなかった。漠然と「優しい人」「話が合う人」といった抽象的なイメージしかなかったからだ。
「そうですね……明るくて、一緒にいて楽しい人がいいです。あとは、料理が好きだと嬉しい、かな……」
しどろもどろになりながら、樋口は思いつくままに言葉を並べた。栗原は一切の表情を変えず、淡々とメモを取り続ける。その様子を見ていると、まるで自分が尋問されているような気分になってきた。
「趣味は、何かございますか?」
「趣味は、サウナとカレー作りと、プラモデルです」
樋口がそう答えると、栗原の手がピタリと止まった。そして、初めて樋口の目を見て、わずかに口元が動いた。
「プラモデル、ですか」
それは、驚きとも呆れともとれるような、ごくわずかな反応だった。樋口は少し恥ずかしくなる。38歳にもなってプラモデルなんて、と子供じみていると思われるかもしれない。
「はい。小さい頃から好きで……」
弁解しようとしたが、栗原はすぐに視線をタブレットに戻し、再び入力作業を始めた。その間、沈黙が部屋を支配する。樋口は、自分がこの場にいることが間違いなのではないか、という気持ちになってきた。
「結婚観についてお伺いしてもよろしいでしょうか。結婚生活において、何を一番大切にしたいとお考えですか?」
「結婚観……ですか」
またしても、樋口は言葉に詰まった。これまで、結婚について真剣に考えたことがなかったのだ。漠然とした「幸せな家庭」というイメージしか持っていない。
「そうですね……お互いに支え合って、一緒に笑い合えるような関係が理想です。あと、子供も欲しい、とは考えています」
「お子様ですね。では、共働きをご希望されますか?それとも、専業主婦を希望されますか?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、樋口はたじろぐ。具体的なライフプランまで考える必要があるのか、と戸惑いを隠せない。
「共働きでも、専業主婦でも、どちらでも……相手の方の希望に合わせて、としか今は言えません」
正直にそう答えると、栗原は小さくため息をついたように見えた。樋口の気のせいかもしれないが、そう感じてしまった。
カウンセリングは1時間ほどで終了した。栗原は最後に、料金プランと今後の流れについて説明し、パンフレットを差し出した。
「本日はありがとうございました。ご検討の上、もしよろしければ、またご連絡ください」
彼女の言葉は最後まで事務的で、一貫してプロフェッショナルだった。樋口は「ありがとうございました」と頭を下げ、カウンセリングルームを後にした。
待合室に戻ると、先ほどまでいたお客さんはほとんどいなくなっていた。樋口は、心の中で深くため息をついた。期待と不安が入り混じった気持ちで来たものの、現状は「塩対応の美人アドバイザーに圧倒された」というだけだ。
「本当に、俺に結婚なんてできるんだろうか……」
エレベーターを待ちながら、樋口はふと、栗原沙耶という女性の顔を思い浮かべた。美しいけれど、どこか近寄りがたい雰囲気。彼女自身は、結婚しているのだろうか。そんな余計なことまで考えてしまう自分に、樋口は苦笑した。
結婚相談所の登録初日。担当アドバイザーは妙に美人で、そして塩対応だった。それが、樋口彰の新しい「婚活」の始まりだった。この先、一体何が待ち受けているのだろうか。期待よりも不安のほうが大きい、婚活の幕開けだった。