第六話 ひらりとそれは舞い落ちた
あれほど青々としていた木々は、今や赤や黄に色を変え、風に揺れるたび、ひとつふたつと葉を落としてゆく。中庭の石畳に散ったその葉たちが、まだかすかに夏の余韻を抱えているようで、私は思わず足を止めた。
陽射しは高く澄んで、空の色もどこか静かだった。
風に吹かれて、また一枚、木の葉が落ちる。石畳の上を、さらさらと音もなく滑っていった。
◇
ライネル・ヴァン・コルブレッド卿は、後期試験の初日を終えた翌日に謹慎処分となった。暴力行為──いや、実際には騒動というべきだろうか。詳細は公にはされなかったが、見聞きした者の証言と、寮での騒ぎを合わせて話せば、事実はおおよそ見えてくる。
二日目以降、彼は試験を受けていない。欠席ではなく、禁止されていた。つまり後期の成績は事実上ゼロ。前期の成績だけでは進級は厳しい。処分の程度によっては、放校すらあり得る──そんな噂が学内に駆け巡った。
あれほど人懐こく、誰にでも気軽に話しかけていた人物が、今や口にすることすら憚られている。
三日目、四日目。…彼の名は誰の話題にも上がらなくなった。
五日目、六日目。
教室に漂っていた“何か”が、静かに霧散していく。
◇
ようやく試験が終わった。最後の鐘が鳴った時、思わず机に突っ伏してしまったのは私だけではなかったはずだと思いたい。
張りつめた緊張感と、筆記用具の擦れる音の記憶だけが、まだ手指に残っていた。
◇
午後の陽が傾き始める頃、私は中庭のベンチに一人でいた。誰かを待っていたわけではない。ただ、なんとなく、陽のあたる場所でぼんやりしたかった。
ずっと机に向かっていたせいで肩も首も重い。風に揺れる葉の音が、やけに心地よく響く。
ふと視界の隅に、見覚えのある姿が入ってきた。
リディア・エルノート嬢。整えられた制服に、乱れのない歩き方。いつも通りに背筋を伸ばし、凛として歩くその姿が目に入ると、つい目で追ってしまう。
目が合うと、彼女はふと微笑みを返してくれた。
挨拶をと思い立ち上がろうとすると、彼女は手のひらをゆっくりと上げて、それを制するように動かした。
「そのままで」
声はなかったが、そう言われた気がして私はその場にとどまった。リディア嬢は私の前で足を止め、試験が終わったことや、肌寒くなってきた空気のことなど、ごく当たり障りのない会話を交わした。
けれど、こうして向き合っていると、どうしても自分の立場を意識してしまう。
――令嬢を立たせて、自分が座っているのは、やはり落ち着かない。
「そろそろ戻りますね」
そう言って、リディア嬢が背を向けた、その時だった。
◇
走る足音とともに、ひとりの影が彼女の腕を掴んだ。
「……ッ!」
その人影は――
ライネル・ヴァン・コルブレッド卿。
謹慎中だったはずのその男が、突然目の前に現れて、リディア嬢の腕を強く握っていた。驚いた表情で振り返る彼女。すぐに手を振り払おうとしたが、抜けない。顔をしかめるその様子に、かなり強く握られているのだとわかった。
周囲の学生たちもざわつき始めていた。休日の中庭は、思いのほか人が多い。注目されていることなどまるで意に介さず、彼は大きな声で訴え始めた。
「違うんだ、誤解されてるだけなんだ! 君からも先生に伝えてくれ! あれは、そんなつもりじゃ……!」
リディア嬢は冷静に「離してください」とだけ言った。だが、彼には聞こえていないのか、それとも聞く気がないのか、言葉を遮るように自分の弁明を重ねていく。
ノートがどうとか、嫌がらせがどうとか。興奮していて要領を得ない。ただ、どうやらこのままでは進級が危ういらしい。追試を受けさせてもらえなければ困る。だから、助けてほしい。
それだけは、伝わった。
私は、どうしていいかわからず、ただ視線を泳がせた。目が合った男子生徒が、すぐに駆け出してくれた。本校舎に知らせに行ってくれたのだろう。
ライネル卿はそれでも、なお訴え続けていた。
「頼むよ、君だけが頼りなんだ! 誤解だって、先生がたに…君なら……!」
言い募り、懇願するライネル卿は、縋るように彼女を見つめる。その時、リディア嬢はふっと目を伏せ、口元をほんの少し緩めた。
――いつものように。
その様子を見て、彼は明らかに安堵の色を見せた。伝わったのだと、そう思ったのだろう。自分は助かる、そう思ったのだろう。
だが、
私は、見てしまった。
彼女の顔を見上げてしまった。
――彼女の目は、笑っていなかった。
◇
駆けつけた騎士がライネル卿を制止し、ようやく彼女の腕が解放された。
そのすぐ後に、先生も姿を見せ、リディア嬢に「少しお話を」と言って、そのまま二人は校舎の方へと歩いていく。
残された私は、ただ茫然としてその場を動くことが出来なかった。
何が正しくて、何が間違っているのか。
何を見ていて、何を見ていなかったのか。
どこか遠くで、またひとつ、葉が落ちる音がしたような気がした。
◇
その日の夜、寮の談話室では、彼の名前はあまり出なかった。
わざとなのか、それとも自然とそうなったのか。わからない。ただひとつ確かなのは――
彼女は、なにも語らなかったということ。
そして、まだその手の中に、落としきれなかった何かを持っているように見えた。
それが何だったのかは、誰にもわからないままだ。