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第五話 花ははぜ、かりそめに沈む






 水たまりの縁に、一輪の花が浮かんでいた。


 踏まれたのだろう。花弁は泥を吸って少し歪み、端は裂けかけていた。

 でも、なお浮いている。――それだけで、少し美しかった。


 

  ◇


 

 夏季休暇はあっという間に終わった。家に戻る生徒もいれば、寮でのんびり過ごす者もいた。残留組の私がしたことは、友人と出かけたり、話したり、少しだけ“学園外の空気”を吸ったくらいだ。


 そしてまた、いつも通りの毎日が始まる。


 教室の空気も、廊下を行き交う足音も、どこか懐かしくて、落ち着く。

 私は、ここに馴染み始めているのだろう。


 リディア・エルノート嬢は、変わらない。


 久々に母君や姉君と過ごしたと、少しばかり土産話をしたきり、あとはいつも通りだった。筆記も真面目で、態度も変わらない。


 けれど――誰も、あの“出来事”に踏み込む者はいなかった。


 日々は、静かに、流れるように過ぎていく。


 ……ふと見た水たまりの底。

誰かに踏まれたあの花は、もう沈んでいた。


 

 ◇



 「――ほら、これ。読んで」


 ある日の授業前。いつものように回ってきた紙片をそっと開き、素早く次の人へと回す。


 内容は、ライネル・ヴァン・コルブレッド卿についてのものだった。


 曰く、最近彼はまさに“絶好調”。講義中にも休み時間にも、自らのご高説を惜しみなく披露しているらしい。


 「人生は要領よく生きないと損をする」

 「上に立つ者は、人をどう使うかを見極めなければならない」

 「僕のような人間こそ、上にいくべきだ」


 そんな発言が日常的に聞かれるという。


 ……周囲は、当たり障りなく距離を取るようになっていた。

 今、彼は男子生徒の中でもかなり浮いた存在になっている。


 

 ◇


 

 そして当然のように、リディア嬢への接触も“常態化”していた。


 授業の合間、教室の移動中、ライネル卿は彼女のノートや資料を当たり前のように手にする。

 確認する、写す、借りる。言葉はあれど、その行為は一方的だ。


 リディア嬢は、そのたびにそっと視線を落として、口元を緩める。


 見ようによっては、あれは“好意を持っている”ように見えるのかもしれない。

 少なくとも、他の生徒はそう受け取っている。


 だからこそ、彼女の心を“利用している”ようにしか見えないライネル卿への評判は、もはや擁護のしようがないほどだった。


 先日は、ついに“借りる”と言ったまま、ノートごと持ち去った。


 返ってくるはずがない。私は確信していた。


 案の定、そのノートは彼の鞄に収まったまま、リディア嬢の手元には戻らなかった。


 そして彼女は、それに対しても何も言わなかった。

代わりに、資料用の紙に丁寧に板書していた。


 それを見たとき、私はどうしようもないやるせなさに襲われた。


本当に、それでいいの?


でも、彼女は変わらない。――変えない。


 

 ◇


 

 この間、前期試験が終わったと思ったのに、もう後期試験が始まろうとしている。


 ここを乗り越えれば、あとは進級前の“評定監査”だけ。よほどのことがなければ、落とされることはないと言われている。


 けれど――上位に入れば、三年次の推薦枠候補として名が挙がる為の、第一段階を踏める。


 そのために、誰もが必死だった。


 書いて、書いて、書いて。

 ペンを持つ手が震えても、まだ書く。


 文官育生科の試験は、基礎教養と専攻科目を合わせて十一科目。

 それを六日間にわたって、毎日二科目ずつ消化する。


 持ち込みが許されている試験もある。

 けれどそれは、“楽”を意味しない。


 法制基礎、経済政策、行政構造。

 どれも、「どう考えたか」「どう組み立てたか」が評価される。


 教科書を読み込み、資料を整理し、過去の判例を引き、政策と構造を紐づける。


 “正しさ”だけでは足りない。

 “考えた跡”が、問われる。


 

 ◇


 

 後期試験初日。


 午前中に王国史概論と法制基礎を終え、私たちは疲労の混じる表情で筆記用具を片付けていた。


 そのときだった。


 隣の男子教室から、怒鳴り声と何かが倒れる音が響いたのだ。


 一瞬で空気が止まる。


 誰もが顔を上げ、ざわめき、動きを止めた。


 「全員、そのまま待機してください」


 試験官の教師の一人が教室を出ていき、戸口を閉じる。その間も、廊下の向こうからは叫び声が聞こえた。


 「……え、何……?」


 皆が不安そうにささやき合う。


 やがて教師が戻ってきて、厳しい声で告げた。


「本日はここまで。各自、速やかに寮へ戻り、明日に備えなさい」


 扉が開き、荷物を急ぎまとめて廊下へ出ると、すでに警備隊の騎士が何人も控えていた。


 途中ですれ違った生徒の顔には、青ざめたものもあれば、怒りを滲ませたものもある。


 騒ぎはまだ完全には収まっていないようだった。


 私たちは何が起きたのか分からないまま、静かに、でもどこかざわざわとした心で寮へと戻った。


 

 ◇


 

 "ライネル卿が同級生に殴りかかった"。


夕食時の食堂は、その話題で持ちきりだった。


「試験の準備を巡って、口論になったらしい」

「どうも、他人の資料を使ったとか、使わないとか」

「手を出したのはライネル卿。止めようとした生徒まで巻き込まれて、騒ぎが大きくなった」


 男子のテーブルを見ると、腕に包帯を巻いた生徒や、頬に絆創膏を貼った者がちらほらいた。


 いつもは落ち着いた食堂が、今日はざわついていた。


 私は、スープにスプーンを入れたまま、しばらく何も口に出来なかった。

 ただ、じっと、スープ皿の底に沈むスプーンを見ていた。



 ◇


 

 寮に戻って、ペパーミントのお茶を頼む。


 ミントの香りが湯気とともに立ち上り、深呼吸するように、深く吸い込む。

 それでも、気持ちは落ち着かなかった。


 ドアの向こうから、囁くような声が聞こえた。


 「……聞いた? ライネル卿、謹慎処分ですって」


 ――ああ、やっぱり。


 ふと浮かんだのは、彼がリディア嬢のノートを持ち去った日のことだった。


 あれは、伏線だったのかもしれない。


 使えるものは使う。

 必要な限りは利用する。

 でも、それを失ったとき、どうするかなんて――


 考えていなかったのだろう。


 花は、踏まれたとき、はぜる。


 ただ、はぜて、沈むだけ。


 あの水たまりに浮かんでいた花のように。




 


 彼もまた、きっと。





 

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