第三話 不分明な線引きと曖昧な言葉
校舎の隙間をすり抜ける風に、緑の香りが濃くなってきた。
窓から見える景色も色鮮やかだ。最近では、武科選抜演武会の話題があちこちで飛び交っている。
――「今年の優勝候補って誰かしら」
――「例の公爵家の方が出るみたいよ」
――「ハンカチ用意しようかな…渡す人いないけど」
演武会は武官育成科の腕試しであると同時に、貴族子弟にとっては“自家の顔”を示す場でもある。その為兼科で選択している貴族子弟は多く、学園で行われる行事としてもかなりの規模になる。準々決勝からは見学も許されるため、そちら方面に縁が薄い文官育成科でもそこそこ盛り上がる。
女子の間では、武器に結ぶハンカチの話題がとくに多い。公然と応援の意志を伝えることになるが、それはつまり“好意”や“将来”を匂わせるものでもある。
刺繍入りのものもあれば、香水を染ませたものもあるとか。誰に渡すのか──話題は自然と、恋と憧れへと傾いていく。
不適切な交際には大変厳しいこの学園でも、応援している男子生徒へハンカチを渡すのは伝統として許容範囲内らしく咎められない。
婦徳科の令嬢たちは、既に何枚も手縫いしているという。
「まあ、文官組の私たちは観客席で十分よね」
そう言って笑い合った友人の声に頷きながら、私はふと、校舎の陰で咲いていた白い花に目を留めた。
人目につかず、ひっそりと。でもしっかりと咲くその姿は美しいと思う。時間に余裕が出来たら、ゆっくり花でも眺めたいものだ。
……でも、それより前に片付けるべきことがある。
そう、前期試験だ。
◇
その時期を境に、ライネル・ヴァン・コルブレッド卿がリディア・エルノート嬢に話しかける場面をよく見かけるようになった。
とはいえ、学園の風紀は厳格で、男女の接触は基本的に制限されている。露骨な行為は当然禁止だし、授業外での私語も目をつけられやすい。
だから彼は、言葉の選び方も、距離の取り方も、それなりに心得ているようだった。
廊下ですれ違いざまに交わす「おはようございます」
講義の前にささやく「今日の範囲、けっこう難しいですよね」
教室を出るときの「お先に失礼します、また明日」
ただの挨拶。けれど、その積み重ねは、確かに“距離を詰める”行為だった。
そしてリディア嬢は、決して無視はしなかった。
少しとまどうような、まようような、何とも言えない笑みを浮かべて応じていた。
……どちら、とも取れる。そこが、いやだった。
あの笑みは、“好意”のものなのか?
それとも、“気遣い”なのか?
どちらかと決められないまま、私はその様子を、今日もまた目の端で見ていた。
◇
昼下がり、トーナメント表が張り出されたと聞き、私たちは数人で演武棟へと向かっていた。
「ねえ、今年の新入生にすごく強い子がいるって噂、知ってる?」
「差し入れ用のお菓子、もう準備してる人もいるんですって」
「せっかくだから、おめかしして行こうかしら」
婦徳の令嬢たちは、演武そのものよりもその周囲の装飾に夢中だ。勝ち負け以上に、誰が誰を応援するのか──その関係性の方がずっと面白いのだろう。
私も、そんな華やかさから少しだけ距離を取って歩きながら、それでも笑い声にはつられてしまう。
中庭を抜けていく途中、ふと視線の先に見覚えのある姿があった。
──リディア嬢と、ライネル卿。
二人きりで並んでいる。話している様子は、またしても“他愛のない会話”に見えなくもない。
けれど、距離が……近いような。
ライネル卿の仕草は、どこか“頼み込むような”雰囲気を纏っていた。そして次の瞬間──
彼が、リディア嬢の手を取った。
「……えっ」
誰かが小さく声を上げた。私たちは足を止める。
リディア嬢は明らかに驚いていた。瞬間的に身体を引き、腕を引こうとする。けれど、手は振り払えない。彼の指が強く絡んでいたのか、あるいは──
それ以上、彼女から何も起きない。
「……さすがに、あれは……」
友人のひとりが眉をひそめ、私も無意識のうちに一歩踏み出していた。
何をするつもりだったのか、自分でもよく分からない。ただ──あれは、見過ごしてはいけないと思った。
数歩進んだところで、ライネル卿がこちらに気づいた。途端に、手をパッと離す。
「じゃあ頼んだよ。よろしく」
何事もなかったように、軽く手を振って背を向けた。
◇
彼が去ったあと、数人が足を止めたままリディア嬢を見ていた。彼女は一瞬きょとんとしていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「……大丈夫です」
リディア嬢を伺うように、一人が口を開いた。
「先生にご相談されるなら、私たち証言しますよ。今のは……さすがに」
「心配してくださってありがとう。でも、本当に、大丈夫ですから」
その言葉に、誰も返すことはできなかった。
リディア嬢は、笑っていた。いつものように、穏やかに。
◇
あれは、嫌だったのではないの?
それとも──好きだから、許しているの?
なぜ、はっきりと断らないのだろう。
助けを求めてもよかったはずなのに。そう言ってもらえたら私たちだって……。
なのに、どうして。
――どうして笑ったの?
……いや、ちがう。
どうして、私がこんなにもやもやしているのだろう。
誰が誰を好きになっても、関係ないはずなのに。
あの手を取られた瞬間に、私の胸がざわついたのは
――彼女の困った顔を見たから?
それとも──あんなずるい手で、誰かの心を引き寄せる人間が、うまくいってしまいそうなことが、許せないだけ?
……ああいうやり方は、好きじゃない。
他人の努力で成り立つ自分を、恥じることなく、堂々としていられる人間なんて。
手を伸ばせば、断られることもなく誰かが応じてくれると思ってる人なんて。
そんな人が、誰かの心まで手に入れてしまうなんて─
……はっきりしないリディア嬢に苛ついているのか、恥ずかしげのないライネル卿に苛ついているのか、自分でも上手く言えない、まとまらない。
黒板に線を引くように、心がもっとはっきりしていたらいいのに。
◇
私たちは皆、誰かの輪郭を、曖昧なままに見ている。