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第二話 焦がしているのは、想う心か忍ぶ心か





 土の香りが変わり、空が高くなりはじめた頃。


 季節の移ろいに気づく余裕もないほど、私たちはただひたすらに机に向かっていた。要領を掴めたかと思えば、次の単元がすぐに壁になる。解いては戻り、まとめては破る。そんな毎日のなかでも、リディア・エルノート嬢は変わらずあるように見えた。


 ──まるで、揺らがぬ旗印のように。


 けれど旗印は、風がなければ立たないものだ。彼女の支えはなんなのか、私はまだ知らなかった。



 ◇


 

 王立学園は基本的に、男女で授業が分けられている。けれどいくつかの例外がある。

 法制基礎もそのひとつだ。


 文官育成科においては、性別で分けるよりも討論の幅や実務に即した指導が優先される。条文解釈の授業では、男女合同で席につくことになる。


 もっとも、並んで座ることはない。講壇を中心に女子は窓側、男子は廊下側。視線が交わることも少ない配置だ。


 この日も教室は静まり返り、皆が事前にまとめてきたノートや資料を机に広げていた。もうすぐ鐘が鳴るという頃、廊下側の後方から、重たげな足音が聞こえた。


 ライネル・ヴァン・コルブレッド卿がやって来たのだった。


 軽く濡れた髪に手をやりながら、彼は空いている席に腰を落とす。少し苛立っているように見えた。


 その直前。私の席へ、後列廊下側の生徒から順に回し読みされてきた小さな紙片が届いた。筆跡の違う三人ほどの短い書き込みが、すれすれの毒を含んで並んでいた。


──コルブレッド卿、また一人“親切なご友人”を失う


 感謝も礼もないまま、他人の労力を平然と受け取る。その癖、結果だけはうまく掠め取っていく。そんな彼を、ついに見限る者が現れはじめていた。


 もう一度紙片を折りたたみ、机の上に置いたノートへそっと滑り込ませる。


 鐘が鳴った。


 

 ◇


 

 「第二章・第二節・第十五条、第一項。──“領主の裁定権は、地方評議会において三分の二以上の賛同を得た場合に限り、王政直下の監査より免責される”……さて。この条文の、肝はどこか。エルノート嬢」


 講師の声が、石造りの教室に乾いた音で響いた。静寂が広がるなか、ひとつの名に小さく空気が動く。


 リディア・エルノート嬢は、すっと立ち上がった。椅子の音も立てず、まるで仕組まれた機械のように。視線は下げたままだが、その声音は曇らない。


 「……“三分の二以上の賛同”という条件が、領主個人の判断を制約する構造となっており、単独権ではないことを示しています。また、免責の対象が“監査”に限定されている点も、行政権の一部拘束の緩和であり、全免ではありません」


 明瞭とは言いがたいが、丁寧で、わかりやすい。選ぶ語彙と、語尾の処理に無駄がない。


 講師は頷き、短く返した。


 「よろしい。着席してよい」


 彼女は静かに腰を下ろすと、ノートの余白にさらさらと何かを書き加えるのが見えた。たぶん、発言の補足か、あるいは講師の表情から読み取った評価の一言を、自分の記録として残しているのだろう。


 そういうことが、できる人だ。


 ふと目線を横にずらすと、廊下側の男子席──ライネル卿が肘をついて頬杖をつきながら、ちらりとリディア嬢を見ていた。


 その目が、感心によるものではなく、「使えるか否か」を測る視線に見えるのは……穿った見方をしすぎているだろうか。


 講師は続ける。


 「では、コルブレッド卿。第十七条の読解を」


 呼ばれた彼は、ほんの一瞬だけ目を見開き、すぐに立ち上がった。声はよく通る。


 「“王政下において、重罪に該当する領主の責任は、その家門の一時剥奪をもって償われる”……ですね。えっと、つまり……重罪を犯した場合は、爵位が一時的に剥奪されるってことです」


 講師の眼鏡が、教室の光をきらりと反射した。


 「“重罪に該当する領主”が、“責任”をどう償うか――そこにあるのは制度上の措置ではなく、何かだ。説明を続けなさい」


 ライネル卿の表情が、やや曇る。なるほど、"親切なご友人"からはノートは借りられなかったようだ。


 「……その、“家門の一時剥奪”が……責任を“償う”手段であるという点が、重要……です……かね?」


 曖昧な言い回し。間が空いた。


 講師の口元がわずかに歪んだ。


 「座ってよい。今後は“法の文”と“法の意図”を分けて考えるように」


 静かだが、確かに重たい一言だった。笑い声こそなかったが、教室の空気が僅かに冷えた。


 私は目を伏せ、ノートに講師の言葉を抜き書きした。


 “文”と“意図”を分けて読むこと。それが、条文解釈の最初の一歩。


 リディア嬢は、その言葉に一行下げて丁寧に線を引いた後、さらりと書き添えた。


 ライネル卿は、相変わらず頬杖をついたまま、何か考えるふうな素振りをしていた。


……何か、嫌な感じ。


 

 ◇


 

 授業が終わり、皆が教室を移動する支度を始めた頃だった。


 案の定というべきか、ライネル卿がリディア嬢に声をかけていた。数歩分の距離で、だが周囲にも聞こえるような抑えた声。


 「さっきの答え、素晴らしかったよ。やっぱり、さすがだね。成績優秀者は違う」


 そして、軽く笑いながら言い添えた。


 「最近ちょっと忙しくてさ……もしよければ、ノートを貸してくれないかな」


 私は思わず、目を逸らした。呆れているのは、私だけではなかったはずだ。


 リディア嬢は一瞬だけ戸惑ったように視線を揺らし、けれどすぐにそのまなざしを下げ、口元をほんのりと緩めた。


 「……ただ、あれこれと書き綴っているだけですわ」


 一見、やんわりとした拒絶。けれど、そのはにかんだかのような仕草に押せばいけると判断したのか、ライネル卿はなおも言い募ろうとする。


 その時、廊下側の教師が移動を促す声を上げた。


 「そろそろ次の授業へ移動を。遅れぬように」


 時間切れだった。


 ライネル卿は少し不満そうに眉を寄せながらも、渋々ながら引き下がった。


 

 ◇


 

 彼は、知らないのだろうか。


 あれこれと書き綴るために、どれほどの時間と労力が費やされているかを。


 資料を漁り、文献を読み、古い判例を探して、今の条文に照らし合わせる。意味を取り違えぬよう慎重に、解釈を裏付ける証をいくつも集めて、ようやくまとめる。


 それを、他人の手から“借りる”ことに何の疑問も抱かない人がいる。


 彼のような人が、それを“効率的”と呼ぶ。


 ……ずるい、と思った。

 

 他人の力で登っていけるなんて、ずるい。

 ――本当に腹立たしい。



 ◇

 

 

 何より、リディア嬢がはっきりと断らなかったことに驚いた。もしかして、ライネル卿に好感を抱いていたりするのだろうか。

 あの日の光景がよぎる。

 リディア嬢は、自分の力でしっかりと登っていける人だ。努力を惜しまず、着実に。そんな女性がライネル卿のような男性にいいように使われるなんてあってはいけないことだと思ってしまう。


 それとも彼女も、よくある話しのように恋に溺れてしまうのだろうか。

 

 そんなことを思ってしまう自分も──


……何か、嫌な感じ。





 




 

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