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もどかしい想い

 翌日、職場に向かう足取りは重かった。あんな話を聞いてからはあの回廊に近付くのも気が重い。泣いて目も腫れたままだし気分は最悪。それでも、一目でもお会いしたいと思う気持ちの方が勝ってしまう。


(なんて、厄介なのかしら……)


 室長が関わってくると心が乱されてしまう。この前まではただお側にいられれば満足だと穏やかな気持ちでいられたのに……


 執務室のドアを開けると室長の姿はなく、フィルマン様とムーシェ様の姿があった。そういえば昨日、カバネル様がお休みだと言っていた。お嬢さんと共にピクニックに行くのだと張り切っていたっけ。


「ルドン様、室長はまだ?」


 室長の行方を知りたくて、席が近いフィルマン様にそれとなく尋ねてみた。


「いや、先ほどまではいらっしゃったんだが……宰相府に呼び出されて向かわれたよ」

「そうですか」

「何かあったのか?」

「いえ、お昼までにと頼まれた書類があったもので。だったらお戻りを待ちます」

「そ、そうか」


 心配そうな表情を向けてきた。私の目が腫れているのに気付いたのだろうか。だからと言って今はそこに触れてほしくない。さっさと話を切り上げて席に戻り、今日が期限の書類を引出しから取り出した。昨日のうちに出しておけばよかった。でも、まだ昼まで時間はある。次の書類に取り掛かった。


 お昼になっても室長は戻られなかった。休憩時間になったけれど、室長が戻られないために隣の休憩室で軽食を頼むことにした。


「シャリエ嬢、食事に行かないのか?」

「ええ、室長にお昼までにと頼まれた書類があるので。すれ違いになるといけませんので、ここで待ちますわ」

「そうか」


 こんなことはよくあること、珍しくない。


「あの、何か?」


 いつもなら直ぐに離れるのに、今日は何故か去りがたそうにしていた。


「いや……何だか元気がないように見えたから。なにか、あったのかと……」


 憂わしげな表情に、やはり酷い顔をしていたのかと気が重くなった。心配してくれるのは有難いことなのだろうけど、そういうことは婚約者だった頃にして欲しかった。


「いえ、大丈夫です。多分視察の疲れが出たのでしょう」

「そう、か」


 まだ何か言いたげだったけれど、私は休憩室の方に向かった。今はムーシェ様もいるし、これ以上話したくなかった。


(こんなことなら、昨日出して帰ればよかったわね)


 後は見直せば済むところまで終わっていたのだ。ただ見直すなら翌日の方がいいだろうと後回しにしたのは失敗だったかもしれない。今頃焦っていらっしゃるかもしれないと思うと申し訳ない。重いため息が出た。


 暫くすると侍女が軽食を持って来てくれた。食欲がないだけに食が進まない。簡単なパンに肉や野菜を挟んだものにスープ、果物だけだったけれど、それが重く感じた。スープと果物を食べるともう十分に思えた。パンは後で食べようかと思っていると、隣の執務室のドアが開く音がした。


(室長?)


 もしかして戻ってきたのだろうか? 軽く口元を拭い執務室に向かうと、待っていた人だった。


「シャリエ嬢、休憩中だったのでは……」


 私がここにいるのが意外だったらしい。驚いた顔にも見惚れてしまう。


「あの、お昼までにと言われていた書類があったものですから……」

「ああ、そうだったね。すまない、そのために待っていてくれたの?」

「え、ええ。室長はお忙しいのですもの。すれ違いになってはと思いまして」


 それに、こうして二人きりになれたらという思いもあった。この想いを伝えるつもりはないけれど、ここにいられるのも長くはないのだろう。


「ありがとう。助かるよ」


 そう言って少しだけ眉を下げた笑顔で書類を受け取った。間に合ってよかったとの安堵が胸に広がる。それだけで心が満たされたけれど、室長の表情が少し曇った。


「シャリエ嬢。その、こんなことを言うのは余計なお世話かもしれないけれど……何かあった?」

「え?」


 急にそんな風に問われて、思わず室長を見上げた。黒い瞳が心配そうに見下ろしている。


「すまない。何だか休みの後から元気がないようだったから。その……目が……」


 気付かれていたなんて思わなかった。見た目にはわからない程度にはメイクで誤魔化せていたと思ったのに。一方で、気付いて貰えたことに喜びが走る。この浅ましい気持ちを見透かされそうで怖くなり、思わず目を伏せた。


「……泣いて、いたの?」


 そっと前髪に何かが触れる気がして視線を上げると、室長が目の前にいて私の前髪に手を伸ばしていた。距離の近さに鼓動が跳ね、頬がじわじわと熱を持ち始めた。


「あ、あの……」


 こんな時、どうしたらいいのだろう。なんて答えていいのかわからず、口を開きかけたけれど言葉が出てこなかった。室長の香油の匂いが今までにないほどに香り、息が苦しくなりそう。


「誰かに何か言われた? ルドン君?」


 違うと首を三回横に振った。こんな時に彼の名前など聞きたくない。


「彼じゃないなら……誰だろうね」


 聞いたことのない低い声は独り言のようなのに、普段感じない力にまた見上げてしまった。背が高い室長相手では首が痛くなるほど。黒い瞳が深い淵を思わせて目が離せなかった。視線が重なったまま、前髪にあった手が片頬をゆっくりと包んだ。熱を持つ頬に冷たいそれが一層存在感を主張する。


「シャリエ嬢」

「……はい」


「誰が、君にこんな顔をさせたのかな?」


 頬に当てられていた手が、すすすと顎へと滑り落ちる。身長差に辛くなる首を支えるかのように、その手が顎を持ち上げた。黒い瞳が柔らかく細められて戸惑いが緩んでいく。


「……ち、父が……」

「うん」

「私に……縁談を……」

「……そう。誰と?」


 大好きな人の、優しく幼子に尋ねるような言い方に逆らう気など起きなかった。言われた通りに答えたけれど、その問いに躊躇が湧いた。まだ何も決まっていないから。


「誰とかな? 大丈夫、誰にも言わないから。私にだけ教えて?」

「……デュノア伯爵家の、ジョゼフ様が……まだ顔合わせもまだですが……」

「そっか」


 室長には知られたくないと思っていたのに、優しく尋ねられると抗えなかった。言ってしまえばどこかホッとする自分がいた。


「そんな顔をして、シャリエ嬢は嫌なの? 彼とは結婚したくない?」

「……はい。私、は……」


 あなた様を……そう言いかけた時慌ただしく靴音が近づいてきた。それはこの部屋の前で止まり、強めのノックが続いた。慌てて我に返って、室長から距離を取った。室長の手が名残惜しそうに見えたのは、私の願望のせいだろうか……頬と顎が熱い……


「失礼、ミオット侯爵。これをお渡しするのを忘れていました」

「あ、ああ。ありがとう」

「それでは、失礼致しました」


 見習いの侍従が書類を手渡すと、慌ただしく去っていった。呆気に取られてその様子を見守っていたけれど、ドアが再び閉まると表現しようのない気まずさが残った。





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