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第9話

   七、

 ――小田切謙明、イッショウケンメイ。

 という言葉が、彼の地元・山梨に残っている。

 随分とアツい男だったらしい。比較的裕福な家に生まれ、維新後地元の産業振興に私財を投じた。

 さらには自由党員となり、板垣退助と(こころざし)を共にする。新たに始まった衆議院議員総選挙に立候補し、

 ――浅尾人力、金丸馬車で、小田切ゃ草鞋(ワラジ)で苦労する。

 と、彼のみドブ板選挙戦を展開し奮闘したという逸話も残っている。借金まみれになりつつも、良妻・豊次(ふじ)に支えられ、全力で国のため地元のために奔走した。

 彼は板垣に言われた通り、千住にて灸院を営んでいた老女を探し当てた。老女ははたして、

「北辰一刀流・千葉定吉の次女です。さな(ゝゝ)と申します。ええ、坂本龍馬様の許嫁でした」

 と名乗った。

「そうですか、悦子さんからの紹介で……。悦子さんはお元気でいらっしゃるのかしら」

 さなは切れ長の目を更に細めつつ、懐かしそうに言った。

 確かに板垣の見立ては正しかった。水戸の御老公様(第九代斉昭)より教わったという灸の評判は上々で、千葉灸治院は繁盛していた。とはいえまさに士族商法といった有様で、治療費のツケの回収にあまり熱心ではなかったらしい。その繁盛ぶりに反し、生計は困窮していた。

 小田切は度々、さなのもとに通い施術を受けた。

「よう効く。ありがたい」

 彼はさなに礼を言い、その都度、幾らか多めに金を置いていった。

 妻の豊次とも話し合い、

「いっそのこと、我が地元の甲府に越してはいかがですか。甲府であれば、それがしも良客を紹介できますぞ」

 と提案したが、さなは首を横に振った。大勢の患者さんがおられるので……と、当地に骨を(うず)めるつもりらしい。周囲の住民達に求められ、自らの存在意義を見出したのだろう。

 不幸にして小田切の通院は、長くは続かなかった。程なく彼は地元で(やまい)に倒れたのである。

 妻・豊次は大急ぎでさなのもとを訪ね、甲府にて主人に灸を施して欲しいと懇願した。さなは快諾し、老齢ながらも豊次と共に甲府へ下り、懸命の施術を行う。が、その甲斐なく小田切はこの世を去った。

 豊次を支えて葬儀を済ませると、さなは千住に戻った。

 が、この頃から彼女は次第に気力衰え、生への執着を失ったらしい。

 思えば彼女は、龍馬に縁談を断られた辺りからずっと、不運続きである。それでも龍馬を偲びつつ懸命に生きたが、その後半生は哀れと言う他ない。小田切病没の少し前、さなは兄・重太郎の息子を養子としたが、これもまた早逝した。未遂に終わったが強盗にも遭った。さなも流石に、いよいよ気力尽きたとばかり、程なく息を引き取ったのである。


「そうでしたか……」

 悦子は、わざわざ自分を訪ねて来てくれた小田切の妻・豊次を前にして、そう項垂(うなだ)れた。

 身寄りを失ったさなは、無縁仏として、谷中の共同墓地に埋葬される筈だったらしい。それを豊次が、

「さすがに忍びない」

 と分骨してもらい、小田切の墓所、甲府市清運寺にさなの墓を建てたという。

(なんと、侘しいこと)

 悦子は涙を浮かべつつ、豊次に礼を述べた。そして直ぐに、父に許可を取ると、豊次と共に甲府へ墓参りに向かった。

「凛とした御方でした」

 馬車と力車を乗り継ぎつつの、甲府への道中、豊次がポツリと漏らした。

 悦子も頷く。

 若い悦子にとって、今や舎監さんの生き様は、自身の在り方の(かがみ)となっていた。

(芯は熱く、気高く、しかしながら慎ましく……)

 剣の名門に生まれ育ち、自らも剣の腕で知られ、ひとりの殿方と出会い将来を誓い合うも、全てを失った。しかし決して挫けず、常に自らの生の意味を考え続け、背筋を真っ直ぐ伸ばし前だけを見据える。

 ひとりの殿方を一途に愛し、貧しかろうと不運続きであろうと胸を張り生きる。……

 千葉さなという女性像を、悦子はそのように思い描いている。

(私も、舎監さんの様な女性になりたい。舎監さんみたいに強くはないけれど、老いても毅然と、前を見つめて生きてゆく女でありたい)

 そんな事をぼんやり考えつつ、傍らの豊次と二人して在りし日のさなを偲んだ。

 幸い好天に恵まれ、旅慣れぬ悦子でもすんなりといった感じで、甲府に到着した。

「こちらでございます」

 豊次に導かれるまま墓所を歩き、程なくひとつの墓に辿り着いた。まだ真新しいその墓碑には、

 ――坂本龍馬()

 とのみ、刻まれていた。

(あっ!!)

 それこそがあの舎監さんの、いや、千葉さなという女性の、唯一望んだ人生そのものだったのではないか。……

 武家に生まれ、坂本龍馬と夫婦(めおと)になり、共に生き共に死ぬ。千葉さなという女性にとって、坂本龍馬の妻だったという事実だけをこの世に刻み、この世を去る。彼女がこの世に生を得た意味とは、まさしくそれではないか。

 墓碑に刻まれた、わずか五文字。しかしそれは間違いなく、千葉さなという女性の思いを叶えていた。

 そしてそれこそが、彼女が坂本龍馬の許嫁であったという矜持を堅く(いだ)き続け、最後まで凛として生きたからこその、いわば称号ではないか。千葉さなという女性の、まさに“生の(あかし)”ではないか!

(ああっ。お豊次(ふじ)さん、よく解っていらっしゃる……。舎監さんは今、ちゃんと立派に報われたのですわ)

 そう気付くと同時に、去りし壮絶な時代を生きたひとりの哀しき女性への、言葉にならない万感の想い溢れ、悦子はその場に泣き崩れた。   (了)

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