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第4話

   三、

 舎監さんの部屋を訪れてから、既に半刻程が経っただろうか。

 ふと、肌寒さを覚えた。気が付けば、部屋に差し込む秋の日差しも少々傾いてきたようである。

(ホント、陽の落ちるのが早いこと……)

 悦子は小間使いを呼び、温かいお茶のお替りを持って来させた。

「舎監さんと約束を交わした殿方は、本に書かれるような……いわゆるお偉い御方だったのですね」

「わたくしも詳しくは知らなかったのですが、その本によると、どうやらそのようです」

 彼女も頷く。

「坂本様はそれから程なく我が道場を去り、以後、たまにしか顔をお出しにならず諸国を飛び回っておられましたので、どこで何をなさっていたのかよく分からなかったのです」

「なるほど」

「そのうち……あれは維新の直前でしたか、その坂本様が何者かに暗殺されたという噂が」

「それは……。おいたわしい」

「わたくしは自害を決意したのですが、父に諌められました」

「まあ!」

 舎監さんはますます沈み込む。悦子は彼女に何と声をかけて慰めて良いやら、途方にくれる。

「あの御方――坂本様――の最期の様子も、昨日その本を読んでようやく知りました。いや多少の噂は聞いておりましたけれど、壮絶な有様だったようです」

 坂本龍馬は、盟友の中岡慎太郎と座敷で密談中に奇襲を受け、暴漢らに背後から斬られた。鍛えに鍛えた北辰一刀流の腕を振るう(いとま)もなかったようである。

 彼自身はその場で絶命。中岡は重症ながらもまだ息があって、その後数日を生きたという。

 中岡が、辛うじて意識のあるうちにその凄惨な状況を周囲に語ったため、詳細が判明しているらしい。ただし暴漢らの正体は未だ不明なのだとか。

 坂本龍馬という男の果たした役割は、極めて大きかった。

 犬猿の仲だった西国の雄藩、薩摩と長州に手を握らせた。それこそが倒幕の原動力となった。一方でその薩長が、幕府と正面切って戦端を開くのを回避すべく、幕府自ら大政(政権)を朝廷に奉還するよう働きかけたのである。

 彼自身は一介の脱藩浪人に過ぎず、幕府に対し何の政治力もない。なので土佐藩の重臣・後藤象二郎に大政奉還の案を語り、それを土佐藩老公・山内容堂が一五代将軍慶喜に建白した。

 将軍慶喜は聡明な男で、幕藩体制の行く末を早々に見限っており、そもそも自身の将軍就任もなかなか承服しなかった程である。かつ水戸の出であり、尊皇思想が濃い。そのため自らの置かれている状況、立場に苦悶し続けていた。だからこそ誰よりも、その建白に理解を示した。

 なによりも、薩長ら倒幕派相手に盛大な内戦を引き起こし、その隙に外夷からこの国を乗っ取られるような悪しき事態を、見事に回避出来るではないか。

 ――妙案である。

 即座に膝を打ち、さっさとあっさり大政奉還を宣言してしまった。二六〇年にも及ぶ安寧の歴史を担った徳川幕府は、一夜にして安寧なる終焉を迎えた。

 問題はその後である。将軍慶喜の思惑についていけない幕臣達は彼を恨み、中でも過激派連中が、立案者である龍馬を殺さんと狙った。

 また、大政奉還により、振り上げた腕の下ろしどころを失った薩長にも、

 ――龍馬は志士ではないのか!? 何故、憎き幕府の肩を持つ?

 と龍馬に不満を持つ者があらわれた。

 かくして幕臣過激派と薩長の過激派双方から、龍馬は付け狙われた。龍馬暗殺の下手人は幕府見廻組の連中、と言われているが、そうではなく薩長の人間だという説もいまだ根強い。

 いずれにせよ、奇策が奏効し大いなる成果を上げた時こそ、その反動も大きい。坂本龍馬という男は歴史的大奇策を成就させたがため、まさにその反動によって命を落としたと言えるだろう。

(なるほど)

 舎監さんからそういった幕末情勢のあらましを聞いた悦子は、ふうっ、と小さな溜息をついた。

(なんと凄まじい……。舎監さんは大変な時代に、大変な殿方に惚れ、その死に大変な衝撃を受けられたんだわ)

 愛する人の、克明な最期の様子を知れば、誰しも改めて衝撃を受けることだろう。

 日頃凛とした舎監さんが、自室に籠もり出てこられなくなる程落ち込む筈ですわ、と悦子は思った。

 そんな悦子の心中を察するかのように、舎監さんは首を左右に振る。

「いえいえ、違うのです。既に二〇年も前に命を落とされた御方ですから、とうに気持ちの整理はついています。その壮絶な最期を知ったからと、今更落ち込んだりは致しませぬ」

「え!?」

 では、一体どうしてそこまで落ち込んでいるのか。何に苦しんでいるのか。


 しばらく何かを(こら)えるかのように口を噤んでいた舎監さんは、改めて口を開く。

「あれは……今から二五、六年前の事でした」

「はい」

「坂本様が土佐を国抜けし、最初に江戸へ舞い戻られた頃の事です」

「……」

「先程も申しましたように、わたくしは早くから坂本様に惚れていました。わたくしの自惚れでなければ、坂本様も同じお気持ちだったと思います。そして何より、父も兄も、早くから私達が夫婦(めおと)となる事を望まれていたのです。ですが当の坂本様は……」

「坂本様は?」

 舎監さんによれば、それは文久二(一八六二)年か三年頃の事だという。

 ある日、父の定吉から声をかけられ、茶を持ってくるように言われた。

 盆を抱えて父の部屋に入ると、父と、兄の重太郎が並んで座っていた。その向かいに、相変わらず汚らしい身なりの大男・龍馬が座っていた。

 彼女が三人に茶を出し、退室しようとすると、

「いや、お前もそこに座りなさい。大事な話がある」

 と兄に止められた。

 何事かと思いつつも、彼女は言われるまま、三人から座布団ひとつ分ほど下がった辺りに控える。

「龍さん」

 兄が、そう口を開いた。ちなみに兄は、その男の入門早々から、親しく“龍さん”と呼んでいる。

「率直に聞きたい。龍さんはその、そこに控えし妹・さな(ゝゝ)の事を、どう思う?」

「そがいな事……本人を前にして、率直には言えん」

 少し赤い顔で、大男が背を丸め気味にしてモジモジし始めた。彼女の方も突然の話題に驚き、そして真っ赤になり、俯く。

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