パキスタンの映画を観てなんとなく思ったこと
10年ぐらい前に「黄色い大地」という昔の中国映画を観ました。舞台は見るからに乾燥した気候の、土地のやせた貧しい村でした。僕はこういった古い中国の映画とか、昔の日本の映画とか、遠く隔たった場所や時代に撮られた映画を観るときには「なんだこれ?」といったような違和感というか現代日本の暮らしのなかでは感じることのない空気とか匂いみたいなものを目の当たりにすることを期待しているむきがあります。まあそれでこの映画を観たときのことなのですが、期待通りのっけからかなりの「異様さ」を感じさせてもらえることになりました。といってもそれ自体は映画の主題やらとはとくに関係はなく、おそらくその地方のそういった場でのありのままが映されてるだけだったのでしょう。しかし現代の日本に生まれ育った僕にはそれはかなり異様なものに映りました。では何が異様に見えたのかというと、たしか野外で結婚式の披露宴だか何らかのそういった催しが行われていたのですが、そこに参加している飲み食いしている男たち(そういえばいたのは男ばかりだったような)、異様だったのは彼らの顔つきでした。全員(全員です)同じ顔つきをしてるんですよね。ぽわんとした感じの微笑を浮かべた表情でわいわいやっているわけです。みんな同じ顔をして。ちょっとみなさんなんだか知恵足らず(差別用語ですが)みたいな感じに見えました。べつにそういうわけではないのでしょうが。正直だいぶん前に観た映画なので記憶が定かではないのですが観ながらすごく変な感じがしたのをおぼえています。映画はすごくよい映画でした。その時代のその土地の空気や匂いがじかに伝わってくる感じがしました。
まあそんなふうな感じの、あまりよくわからない地方、それも古い時代に撮られた映画というものに、「違和感」といえばよいのでしょうかそういったものを僕はどこかで期待しているむきがあるのですが、それで先月だかにアマプラを見てたら「娘よ」というタイトルのパキスタン映画が目にとまりました。パキスタン。どんなところなのだろう。どんな空気感の、どんな匂いのするところなのだろう。僕のなかにそれに対する好奇心がむくむくと湧き上がってきました。そんなわけで観ることに決めたのですが、しかし少し悪い予感もしておりました。
結論から言いますと、ハリウッド映画でした。いや、ちがうんですけど。でもハリウッド映画でした。たしかに道具立てはパキスタンのその地方のものなのでしょう。しかしなんかこう、漂ってくる空気や匂いは、欧米のものでした。かといってだめな映画というわけではなく、パキスタンのその地方において女性には自由も人権も自立の機会もなく非常に抑圧された環境のもとで暮らしているというその事実はしっかりと描けていると思いました。だからべつに問題はないと思うのですがでもたとえばアメリカのアメリカ人ばかりの撮影チームが現地に乗り込んで映画を撮っても、同じような映画になったのではないかと思いました。監督はパキスタン人の女性なのですが、アメリカで自由と人権とフェミニズムを学び欧米の映画を浴びているうちに、アメリカ式の価値観やものの見方、人間観、ヒューマニズムなどを身に着けた結果、故郷で撮った、故郷の問題を扱った映画に、故郷の匂いがしないということになったのだろうか。しかしほんと欧米なんだよなあ。主人公の女性とロマンス的なものが芽生えるトラックの運転手の男の「おもしろさ」「ノリ」が昨今のハリウッド映画におけるみなさんもよくご存知であろう「例のあんな感じの」「おもしれー男」みたいな感じだし(べつに字義どおりのおもしろいという意味ではもちろんありません)描かれるロマンスの雰囲気自体もなんか欧米だしもうとにかく欧米なんだよなあ。以前もどっかでパラダイスナウというパレスチナの映画について書いたときも似たような感想を持って似たようなことを言った気がするけどあの映画も主人公の親友の青年の「ワルガキっぷり」「おもしれー感じ」はここ数十年におけるハリウッドでよく見かける感じの例のあんな感じの「ワルガキ」だし、その他諸々欧米なので現地で撮っていても現地の匂いがしないというね。でもこの映画の監督もオランダに19のときに移住して西欧的な諸々を身につけ欧米映画を浴びるほど観ただろうから、結果として制作した映画からは彼の故郷である現地の匂いは消え失せ、欧米的価値観や見地、思想、そして欧米で身につけた撮影技法によって現地の問題にアプローチした映画になっていました。
誤解のないように言っておきますが映画としては良質のものだと思います。実際にそれぞれの国が問題を抱えているわけでその問題についてしっかり描かれていると思います。ただふたつとも欧米の映画です。現地の匂いはしません。欧米的な見地から撮って「現地」はコーティングされてるので生ものとしての匂いは封印されています。香港映画でインファナルアフェアという映画がありますがこれもちょっとハリウッドくさかったような気がする。今思い出すと。まあ前のふたつほどではなかったと思うけど。この映画はハリウッドでリメイクされたらしいですがそちらの方は観てないですがけっこう「似たような」ものになったのではないでしょうか。対して同じ香港の男たちの挽歌という映画はけっこう香港くさかったような気がします。あまり香港映画知らないですけどたぶん。だからもしハリウッドがこの映画をリメイクしたとしてもまったく本家とはちがったものになるでしょう。なんか以前ディズニーかなんかがどっかの国の民話だが伝説だかをアニメ化してたような気がするんですが、おそらく昨今の欧米的なヒューマニズムで染め上げて本来その民話が持っていた精神性は跡形もなくなっているんでしょうな。そしてそういったものが世界中に流布されるという怖ろしさ。
しかし「ワルガキ」にしろ「おもしれー男」にしろその土地の歴史の中で築かれてきた像みたいなものがあると思うんだけどこの二人の監督は何がしたかったんだろうか。あなた方の「ワルガキ」は「おもしれー男は」はまちがってますよ、「ワルガキ」「おもしれー男」はこういうものなんですよ、というふうに故郷の人たちを啓蒙したかったんだろうか。ここ二三十年の欧米映画でよく見かける感じの「ワルガキ」「おもしれー男」、べつにそれが悪いといってるわけじゃなくてそれはそれでいいんだけどなんか帝国主義の時代に領土に加えた現地の人々の信仰に対して、あっ、ちがうちがう(笑)そうじゃないんですよ(笑)あなた方また妙なものを(笑)そうじゃないんです(笑)あー(笑)あー、まちがっちゃってますね〜(笑)でもこれから改めればいいんです!そのために私は努力を惜しみません!という感じに現地の人たちの信仰を滅ぼしゴッドだかなんだかのああいったキリスト教だかを押し付ける(笑)善意で(笑)これもそうなんだろうか。でも彼らの場合善意というよりももっと自然なものだろう。アメリカとか西ヨーロッパとかで身に付けて彼らの中で常識になったものを表現しただけだろう。そんなふうにして撮られた彼らの映画からは昨今の欧米的なものががあって現地の匂いはない。しかし映画やドラマやポップミュージックなどか人々に与える影響、特に若者に与える影響は絶大なものがあるので(実際昨今の韓国のポップカルチャーの日本での流行によって若者および女性の韓国に対するイメージは一昔前とは様変わりしている。そしておじさんは取り残される。ところでおじさんは合気道などを習ってもその習得が若者や女性に比べて著しく遅いらしい。というのも合気道の習熟のためにはそれまでの身体の運用方法、体はこういうふうにうごかすものだという思い込みを捨て去りまっさらな状態で臨まないといけないらしいのだがおじさんというものはこれまでに培ったやり方を拡大延長してゆくことしかできなくなっているらしい。捨てられない。無力になれない。ジャンプできない。ちなみに俺の小説においておじさんの理解者はゼロに近い。俺がおじさんであるにも関わらず。こんなものは書かないほうがいいと言った編集者もいた。死ねばいいのに)彼らの国の文化もそのうちそういうものに染まってしまうのかもしれない。まあ残る部分は残るだろうし染まって失われるものは失われるだろうしそういうことなんでしょう。