大義名分
9月となり刈入れの季節となった。
豊嶋領でも農民達が汗を滴らせながら残暑のなか刈入れをおこなっている。
今年は長雨の影響で川が増水し、主に多摩川流域の田畑が被害を受けたので昨年より収穫高は落ちはしたもののそれでも相応の年貢が納められるとの事だ。
ただ被害を受けた地域に所領を持つ傘下の国人衆や家臣、そこに住む農民などに米を始めとした食料を支援名目で施すので、普段よりは実入りが少ない年ともいえる。
多摩川に関しては対岸を領する三浦家と増水後に場を設けて話し合った結果、堤の建設を両岸足並みを揃えて行うと話が付いたため、今年の冬から堤の建設に着手する予定だ。
話し合いのなかで上流から建設を始めるか、下流から建設を始めるかが議論となったが、現在は情勢が落ち着いている為、上流から下流に向けて堤を築くようになった。
情勢が不安定であれば堤建設を始める事で他の国人衆を刺激する恐れがあったが、落ち着いている今なら先に説明をしておけば問題は無いはずとの結論に達したからだ。
そんな落着いた情勢も10月になると一変した。
と言うよりも扇谷上杉家が暴挙とも呼べる行動に出た。
俺の居城である武蔵に下向する為に東海道を進んで来た三条実香を始めとする公家衆の一行を、小田原城主大森実頼が扇谷上杉定正の命であるとして関を閉じ通過を許可せず追い返したのが事の発端だ。
公家衆は一旦、駿河の今川家に身を寄せ扇谷上杉定正に書状を送り通行の許可を求めたが定正は書状を黙殺したのだった。
それに加え伊豆の海賊衆が定正に呼応するかのように、海上を封鎖する構えを見せ、強引に関東に向かおうとした商人の廻船を襲撃するに至り、海路も安全でないという事で、公家衆が足止めされる形となってしまった。
豊嶋家にはガレオン船もどきの大型船が7隻あるので伊豆を避けて大回りして駿河に迎えに行けると海路を打診したが船は揺れるので嫌だと断られてしまった。
今川家を始め豊嶋、三浦両家から定正に通行を許可するようにと使者を送るも門前払いされ会う事すら出来ず追い返されると言う始末だ。
今川家では当主である幼い龍王丸(後の今川氏親、今川義元の父)の元を公家衆が訪れ作法や連歌、蹴鞠などを教えているが、龍王丸が公家衆との繋がりが強くなる事に危機感を覚えた今川家当主代行の小鹿範満が堀越公方こと足利政知に対し扇谷上杉定正の説得をし事態の収拾を依頼するまでに発展している。
だが足利政知が定正に通行を許可するよう説得をするも、関東管領家の一門である扇谷上杉家に何の挨拶も先触れも無く一国人衆の元へ行くのは関東管領家を、ひいては幕府を見下していると拒絶し現状の打開に至らなかった。
恐らくそれは建前で京の都に居る公家から下向の目的を知らされ国司への任官を阻止したい…、いや、只の嫌がらせをしたいだけだろうと思う。
だが、この事を聞きつけた古河公方こと足利成氏が「京から来た右大臣・三条公敦を始めとした公家衆を無下に扱う事は帝へ弓引く事と同じである」と、下総、上総、安房の海賊衆に命じ、小田原、伊豆を襲撃させ、その後、反撃に出た伊豆の海賊衆と海戦になった事で、定正の態度も硬化し一層事態が混迷を極める事態となった。
海戦自体は下総、上総、安房から伊豆まで侵攻したため長期戦が出来ず、伊豆の海賊衆に対し優勢であったが、一戦して引き上げた為、結果としては痛み分けに終わった。
下総、上総、安房の海賊衆は補給に難があり、反対に伊豆の海賊衆は所領近くでの戦いだったので、腰を据えて戦えた事が痛み分けとなった理由だと思う。
だが、古河公方こと足利成氏が介入した事で、豊嶋家が成氏に従っていると疑念を抱かれる恐れが出てきた為、石浜城の豊嶋泰明に、100程の兵で再建途中の葛西城と兵糧庫に火矢を放つように命じて、豊嶋家が成氏に従っていないアピールをする羽目になった。
せっかく葛西城の岩松成兼を調略して葛西城とその一帯を手に入れようと思っていたのに、これで成兼に恨まれ調略に失敗する可能性が高くなったが、成氏は敵だとアピールしておかないと更に面倒な事になりそうだし…。
ホント、勝手に介入しないで貰いたいよ。
まあ、成氏としては関東に向かう商人の廻船が駿河で足止めされて、物流が滞ってるのを早く解消したいというのが本音だろうけど。
そんな争いを他所に、足止めをされている公家衆は駿河での待遇に不満を持つどころか、幼い当主との親交を深める事で今後の利になると不満を口にせず、むしろ嬉々としながら駿河で年を越したが、年が明けて1481年の1月になり、朝廷からの勅使として鷹司政平、近衛政家が江戸に下向しようとするも、駿河で足止めをされるに至り、公家衆も通行を許可しない上杉定正を口々に非難するようになる。
この時点で定正が態度を軟化させて通行を許可すれば良かったのだが、公家衆から非難された事で、関東管領家の一門であるにも関わらず一国人衆より下に見られていると感じ怒りを覚えたのか、大森実頼に命じて関を守る兵を増やし、更に態度を硬化させてしまった。
その状況が俺や三浦時高の耳に入り、事態を重く見た時高が対応策を相談に江戸城にやって来た。
当初は平和的に上杉定正を説得し、通行を許可させる方法を思案したが妙案も無く、かと言ってこのまま時が経てば、また古河の足利成氏が介入する恐れもあり、最終的に力で扇谷上杉家を押さえつけるしかないとの結論に至った。
ただ問題として扇谷上杉家は関東管領家の一門であり、扇谷上杉家と事を構えれば関東管領家とも事を構える事になる可能性も恐れがあり、大義名分をどうするか悩んだが、幸い昨年に古河公方の足利成氏が、「京の公家衆を無下に扱う事は帝に弓引く事と同じ」という大義名分を掲げ、下総、上総の海賊衆を動かしたので、豊嶋家、三浦家もその真似になるが、「帝からの勅使を足止めして無下に扱っており、帝を蔑ろにしている扇谷上杉定正と、それに従う者を朝廷に代わって討伐する」という大義名分を掲げる事になった。
俺は武蔵の国人衆に、三浦時高は相模の国人衆に加え駿河の今川家、伊豆の堀越公方へ書状を送り、陣触れを発する。
武蔵の国人衆に書状を送り、出陣準備を始めていると知った関東管領である上杉顕定から、「一門である扇谷上杉家を攻めるという事は関東管領に弓引く事である」と書状が送られてきたが、「上杉定正が帝を蔑ろにしているにも関わらず、それを討伐するのを咎めることは関東管領家、ひいては足利将軍家が帝を蔑ろにしている事である」と返事を送っておいた。
陣触れにより豊嶋領に集まった兵は10000、宮城の宮城政業、石浜城の豊嶋泰明は古河公方に備える為に参陣していないが、それでもかなりの兵が集まった。
有事の際に対応する為、父である豊嶋泰経に留守居を任せ、10000の豊嶋軍は一旦狭山へ向かい、そこから扇谷上杉定正に属する国人衆を討伐しながら相模へと進軍する。
狭山では太田資常、道真が2000の兵を、成田正等が2000の兵を引き連れ合流し、合計で14000の大軍となる。
岩槻城の太田資忠も兵を率いて合流したいとの事だったが、背後に居る扇谷上杉家に味方する国人衆や古河公方への抑えとして残って貰った。
そして三浦家は当主である三浦高虎、後見の時高が8000の兵を率い、小田原へ向けて兵を進める。
扇谷上杉定正は武蔵、相模の国人衆へ豊嶋、三浦、太田、成田家の討伐を命じる書状を送った事で、それに呼応する者、反対に豊嶋、三浦側に味方するとして兵を挙げる者、中立を保つ者が現れ相模、武蔵では長尾景春の乱以降収まっていた戦乱が再度広がった。
今回の合戦に際し、敵対する者は容赦なく攻めて所領を奪う事を出陣前に伝えてあるので、扇谷上杉家討伐と言う名の所領拡大を狙う。
所領拡大はすなわち手柄次第では大幅な加増や相応の褒美が望めるとあって豊嶋軍の士気も高い。
これなら余裕で勝てそうだ。
ただ気を緩めると足元を掬われる可能性もあるので気を引き締めていこう!!
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
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