論功行賞
年が明け1478年になった。
年明け朝に鴨の肉を使った雑煮を食べて、昼、夜は豪華な御節料理に舌鼓を打つ。
三浦家から年末に新鮮な鮑や伊勢海老、栄螺などの海産物が届き料理を彩った。
そんな元日を照と共に大泉館で過ごし2日に共に石神井城に向かい父と母に新年の挨拶をする。
「父上、母上、新年あけましておめでとうございます」
「うむ、宗泰も照もよく参った、昨年は豊嶋が躍進した年でもあった、明日は一門を始め多くの者が集まる、宗泰、当主として見事に務めを果たせ」
「はっ、豊嶋家の当主としてしかと務めを果たします!」
「ははは、まあ堅苦しい話はこの辺で、明日の論功行賞まではゆるりと過ごそうぞ」
形式的な挨拶を済ませ親子水入らずの時間を過ごすが父が孫の顔をそろそろ見たいとか言い出し最低でも後3年後、照が16歳になってからだと言うと凄い残念そうな顔をしながら見目麗しい者を家臣の子息から選び小姓とするか? と言い出したので丁重にお断りした。
てか、見目麗しい家臣の息女ならともかく、子息から小姓をって…、俺はBLに興味は無い!!
この時代は男色も普通どころか出陣前は女子は穢れとか言い男とヤル習慣があったりするが俺は出陣前でも女の子がいい!!
のどかな家族団欒も夜が明けたら幕を閉じる。
豊嶋領から一門衆、傘下の国人衆、家臣が集まり新年の挨拶を済ませるとそのまま論功行賞が始まった。
「豊嶋家当主 豊嶋宗泰である。 昨年は豊嶋家存亡のかかった年であり躍進の年でもあった。 これより皆の忠節に対し功を称え褒賞を遣わす」
俺がそう宣言すると石神井城の広間に集まった全員が一斉にザワつく。
それも当然で事前に告知してあったように今回の論功行賞での加増は転封を伴う者が居るからだ。
今回与える領地についてはつい最近まで考えていたので一部の人間を除いて内示はしていない為、誰が何処に所領を与えられるか気が気でないと言った感じだろう。
用意した書状を手に取り俺の署名と印を押した書状を読み上げる。
一門衆
豊島泰経、石神井城とその一帯1万石
豊島泰明、石浜城とその一帯2万石
赤塚資茂、滝野城とその一帯1万石(現在の所沢IC近く)
宮城政業、宮城とその一帯1万石
庄宗親 、世田谷城とその一帯1万石
小具秀康、蒲田城とその一帯1万石
平塚基守、平塚城とその一帯1万石(東京都北区上中里近く)
滝野川守胤、岡城とその一帯1万石(現在の朝霞近く)
志村信頼、稲付城とその一帯1万石(現在の赤羽駅近く)
板橋頼家、瀬田城とその一帯1万石(現在の二子玉川近く)
白子朝信、渋谷城とその一帯5千石
傘下の国人衆で主だった者は
千葉実胤、成宗城とその一帯5千石(現在の善福寺緑地公園近く)
新倉常家、赤塚城とその一帯5千石
森田秀正、井の頭一帯5千石(現在の井の頭公園近く)
野田義盛、善福寺一帯5千石(現在の善福寺公園近く)
そして豊嶋家重臣も直轄領よりそれぞれ加増し転封し、他にも数百石程の領地を持つ国人衆は一門衆の領地の近くへ加増転封し各一門衆の与力とし、大泉館とその一帯5000石を風間元重に与え風魔衆の拠点とさせたうえで風魔衆の拡大及び技術流出防止の役目を与える。
これにより豊嶋家の所領が整理され直轄地の管理が楽になった。
俺は大泉館から江戸城に本拠を移し豊嶋家の本拠として恥じないようにするつもりだ。
江戸城は太田道灌が目を付け城を築き、後に徳川家康が居城とした城でもあるので湊を整備し上水を引く事で今以上に発展するはず。
因みに渋谷城を与えた白子朝信だが、本当は5千石ではなく他の一門衆同様に1万石を与える予定だったのだが本人が内政、主に農政改革を担当するので多くの所領は不要と言うので5千石になった経緯があり、本人は3千石ぐらいで良いと言っていたが、所領の各地に派遣する農業改革の指導者など多く雇わないといけないと言い最低でも5千石は必要だろうと押し切った。
宮城政業に関しても事前に話をし、宮城とその所領に加増し1万石とするが、宮城は入間川の水運による利益があり、石高とは別に金銭収入が多くある為、他の一門衆から不満が出ないよう、宮城の城下に無償、かつ衣食住を保証した学問所を運営するように命じてある。
元々、米による収入より入間川の水運による利益の方が大きかった宮城政業の家臣には算術や物流に長けた者が多い。
そうした者達を指導者とし若手の育成をさせる事になっている。
結果は直ぐに出ないが数年後には財政管理や兵站管理が出来る人材が育つはずだ。
まあ現時点で兵站という概念は誰も持っていないので宮城政業に説明し理解させるのには苦労したが、文字にし、絵を書き数日掛けて教えた結果それなりに兵站という概念を理解した。
物流で利を得ていただけあって理解したら後は早かった。
既に学校の建設に着手し、指導する者を選抜し終え、兵站という概念、後々豊嶋家の財政管理を任せられる人材育成の準備に取り掛かっている。
その内、宮城政業も白子朝信と同じように内政専門にしようかと思う。
実際のところ、農政改革責任者とした白子朝信と嫡男の朝秀、二男の朝義の親子はどうやら最近農業の発展と土地の開発が趣味のようになっていて、今まで雑木林だったり台地だった場所を開拓し、治水を行い田畑になって発展していく姿を見るのが生き甲斐のようになっているらしい。
江古田原沼袋の合戦後には俺の専業兵士の中から戦いに向かず農業改革の指導者になりたい者を引き抜き、反対に白子家の家臣で武功を立てたい者を俺の元に紹介してきたし、完全に武を捨て農業改革などを極めるつもりのようだ。
まあそれもあり、指示、伝達がしやすいよう、俺の本拠となった江戸城近くの渋谷城を与えたという経緯もあるが…。
「此度の論功により加増転封となった者も多く、代々守って来た土地を離れるのは忍びないと思う者も多いと思う。 だがこれは今後豊嶋家が更に大きくなるには避けて通れぬ道だ、今豊嶋家の領有する土地は武蔵の1/5にも満たぬが今後武蔵全土、そして相模、下総、上総、安房、上野、下野、常陸の関八州を手に入れた際、代々受け継いだ土地に固執しては国を統治出来ぬ。 その為此度、加増転封をした。 皆においては新たな所領の兵を養い、民心把握し、地侍などを従属化させ、領地の開発に力を入れて欲しい。 尚、豊嶋家の支配地域で楽市楽座を実施し、関所の撤廃に加え座の廃止をし人と物の流れを活発にする」
楽市楽座という言葉を初めて聞き、関所の撤廃により通行税の収入が無くなる事を懸念する声もあったが自由な商売を認める事で市場の活性化により領地が豊かに、物が安くなる等の利を説明し大体は納得させた。
まあこればっかりは口で言っても理解は難しいから1年後ぐらいに市場が活発になって効果を実感するってとこだろうけど…。
尚、今回の加増転封にあたり、城を与えられた者達には城の増改築も併せて命じている。
この時代の城は本丸、二の丸、三の丸、出丸なども無く、どうも防御性に欠けている。
その為、主郭を本丸とし、最低でも二の丸を作り水堀や空堀を設けるように命じ、大泉館を作った際に建築に携わった風間元重に各城主達に縄張りや防衛設備の指導を命じた。
実は最近、風魔衆が乱波働きと情報収集だけでなく町作りや城の増改築にも長けて来たんだよね…。
鉄砲や連弩、巨大弩、投石機等の兵器を使った防戦が可能な大泉館の建築にも携わったからだろうけど、風魔衆の人手が足りなくなって本業に支障が出ないか心配だ…。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
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